幼い頃から水泳に取り組み、「もっと記録を伸ばしたい」とオリンピック選手を輩出する筑波大へ。スピードを競う厳しい世界に身を置いていた3年次、特別支援学校の児童に水泳指導をしたことで、それまでの常識が覆された。現在は特別支援学校の教員として、パラ水泳選手のコーチとして、そして障がいを持って産まれた娘の親として、自身のメッセージを広く発信している。
水泳の練習に明け暮れていた中学3年の時、当時、筑波大で活躍していた錦織篤さんに憧れを持ったことがきっかけです。錦織さんは筑波大入学後に一気に伸びて日本選手権で優勝するなど記録を出していました。
「自分も筑波大にいってもっと速くなりたい」と思ったのが1つと、筑波大なら自分が興味を持っていた体育・スポーツを専門的に学べる、そんな思いで目指すようになりました。
水泳を習っていた兄の影響で、スイミングスクールに通い始めたのが3歳の頃。本格的に選手をやり始めたのは小学校低学年です。小学5年で全国大会に初出場できるようになってからは、さらに上を目指して練習に取り組んでいました。
水泳中心の毎日でしたね。練習時間プラスαをやる習慣にしていたので、17時からの練習の場合、授業さえなければ泳ぐ1~2時間前から自主トレーニングをやったりして。とにかくプールにいて水泳のことを考えるのが好きでした。
4年間、インカレで決勝(予選1~8位)、B決勝(予選9位~16位)にも残れないまま引退したことは悔しさが残っています。
インカレはB決勝進出から点数が入ります。3年の時に一度だけチャンスがあって、B決勝にいくためのギリギリの順位である16位が僕を含めてもう1人いて。2人で再レースをしたのですが、負けてしまってB決勝にいけませんでした。そこで勝てていれば、大学時代の思い出も大きく変わっていただろうな、と。自分は4年間で1点もチームに貢献できなかったので。
そのインカレの結果を受けて自分のレベルが分かりましたし、同級生(他大学)でオリンピックに出場した選手と比べても、あまりにも差が大き過ぎて。将来を考えた時に、選手ではないところで勝負したいと考えるようになりました。
当時、早稲田大学で競泳のトップ選手だった方が筑波大の大学院に来られていました。選手引退後に水泳の研究や指導者を目指して勉強されている姿を見て、「自分もそういう道にいきたい」と大学院受験を決意しました。
大学3年で選んだ研究室は特殊体育研究室で、障がい者スポーツに関して勉強していましたが、大学院では水泳の研究や水泳部の学生コーチをやるために水泳研究室に所属しました。
当時は、特別支援の教員になりたくて特殊体育研究室にいったわけではないんです。障がい者水泳や速さを求めない水泳、水との触れ合いといった、これまで自分が知らない分野を学ぶことに興味があったのが理由でした。そのときのやりたいことを選んだと思います。
大学3年から週に一回、特別支援学校の児童が通う水泳教室のボランティアで参加していたのですが、車いすを利用するなど体を自由に動かせない子供たちが水に顔をつけたり、浮こうとしたり、前に進もうと必死に取り組んでいる姿を見て、「自分がやっていたことだけが水泳ではないんだ」と気付かされました。
ここでなら自分の水泳の経験を活かしながら、多くのことを学べるのではないかと活動を続け、卒業論文では障害児水泳をテーマに取り組みました。
なんとなく興味があると思って取り組んだ分野でしたが、この経験が人生を大きく変え、現在にもつながっています。
バラフライと平泳ぎのターンはどういった方法が一番速いかを研究し、その論文を評価して頂けました。その他にも、その年から始まった修士論文のコンクールで賞を頂くことができて、とても嬉しかったですね。
はい。当時、競泳ではアメリカのマイケル・フェルプス選手が活躍していて、そのテクニックや水中動作がヒントとなって研究テーマが思い浮かびました。バタフライや平泳ぎで行う通常のターンは、壁に手をついたら顔を上げて、体の方向を変えて壁を蹴り出すんですけど、実はその中には無駄な動きが多かったりして。僕の研究では、壁に手をついたら顔を上げずにそのまま水中で回転し、呼吸をせずに壁を蹴り出すほうが速いという仮説を立てました。実際にやってみたらそちらのほうがパフォーマンスは上がるという結論が出て。
「アプニアターン」として雑誌にも取り上げられましたし、筑波大の学生がその方法で日本選手権の参加記録を突破したり、ベストタイムを出したりしていました。当たり前に捉われず、新しいことにチャレンジできたと思います。
まさか論文がそんなに評価されるとは思ってもいなくて、大学院2年になる直前に東京都の教員採用試験を受けていたんですね。そして論文が評価されたのは大学院2年の秋以降。その時点で教員採用試験に受かっていて、結婚することも決めていたので、「今は研究を続けるタイミングではないのかな」と諦めざるを得ませんでした。
ずっと研究の道に未練がありましたので、良いお話があればぜひといった感じでしたね。2016年リオデジャネイロ大会に向けて、文部科学省によるハイパフォーマンスサポート事業(研究開発)がパラリンピック競技でも開始されることになり、学生時代の恩師から声をかけていただきました。
具体的な活動としては、競技団体にヒアリングをしてスポーツ選手にどんな用具が必要か、どれぐらいお金がかかるかなどを調査して、筑波大が色々な企業とが連携して用器具の研究開発をしていく。そういった活動内容でした。
筑波大学スポーツR&Dコアに呼んで頂いた際、東京都と筑波大の契約により割愛制度という特例が適用され、筑波大学スポーツR&Dコアを退職したあとも引き続き東京都の教員に戻ることになっていました。
自分のやりたいことを仕事にできるようこだわるか、今、勤めているところで自分の新しい分野を広げるのか。まだ探っている状態ではあります。今は特別支援学校で自分が担っていかなければならないことを感じながら、とても充実した日々を過ごしています。
コーチとして国際大会にも帯同しました。2012年ロンドンパラリンピックの半年前に長女が障がいを持って生まれて。命と隣り合わせの毎日だったことから、その年を境に水泳に関わる時間を減らし、私生活とのバランスをとるようになりました。できる範囲でサポートしている状況です。
今は週に1~2回、1人の選手を指導しています。彼は大学まではサッカー選手でしたが、頸椎損傷のため現在は車いすで生活をしています。
出会ったときは25m泳ぐのが精一杯でしたが、そういった選手がどうすれば記録を伸ばせるか、試行錯誤しながらトレーニングを積み重ねて、最近ようやく選手レベルまで上がってきました。
その選手は胸から下が麻痺しているため動かせないのですが、僕にはその感覚が分からない。イメージをかたちにできない難しさはあります。だから一方的に指導するのではなく、彼の話を聞きながら、僕の水泳の経験を踏まえてできる限りイメージを膨らませて、じゃあこうしてみよう、ああしてみようと。難しさと同時に、一緒に考える楽しさも味わっています。
10人いたら10人分の指導方法があるので大変ですが、指導のベースにあるのは、これまでの経験全て。大学院時代に学んだコーチングや選手時代の感覚、健常者に対する水泳指導の経験と、障がい者から聞く体が動かないことによる感覚など、そういったものを足して足して、その人に合った指導をするように心がけています。特別支援教育(Special needs education)に携わってから、“Special Needs”という言葉の良さに気づき、自分の中で大切にしています。
娘は18トリソミーという染色体異常で生まれました。18トリソミーは、21番染色体が3本あるダウン症(21トリソミー)よりも重篤で、生まれてくることさえ難しいのですが、娘は昨年6歳になり、今春から特別支援学校に通っています。病状を聞いたときには想像もできなかったことです。歩いたり話をしたり、口から食べ物を食べたりはできませんが、本人のペースでゆっくり成長しています。
娘が生まれた時は、特別支援学校で働き始めて3年目。このタイミングで僕たちのところに生まれてきてくれたのも何か意味がある、子供が僕たちを選んできてくれたのかもしれないと、何か運命のようなものを感じました。
普通の人にとって特別支援学校での光景は非日常ですから。例えば、娘が人工呼吸器を使うことになった時、それは僕が生徒に対して使っていたものでしたから抵抗感もありませんでしたし、人工呼吸器を使うことでどういった影響があるかといった知識もありました。そういった経験があったことはアドバンテージだったと思います。
「Team18」という18トリソミー児の家族の団体で代表を務めています。前の代表から5年前に引き継いで写真展を開催したり、広報活動をしたり。今は全国のご家族との絆も強まって、各地にいるメンバーの方が主体となって写真展を開催しています。
娘のように成長している子供たちだけじゃなく、生まれることができなかった子、生まれてきてすぐに亡くなってしまった子などを持つ家族と想いを共有すること、そして、18トリソミー児を持つ親として、障がいについてご存知ではない方にも広く知ってもらいたいという使命感を持っています。
私たちの取り組みを写真集にまとめることができればと、クラウドファンディングで資金集めをして、120万円の設定金額に対し、なんと約872万円の支援が集まりました。
クラウドファンディングを始める前は、同じ子供を抱えるご家族が中心になるかなと思っていたのですが、18トリソミーのことを今まで知らなかった人たちや、僕の友達、友達の友達、そのご家族など、色んな方からご支援を頂けて、想像をはるかに超える結果となりました。
売れ行きが良くてホッとしています。買って下さった方からは「涙を流しながら読んでいます」「家族のことを考える時間になりました」といった感想が届いていますね。
特別支援学校に通う児童生徒の多くは、常に命の危険と隣り合わせ。これまでに悲しく、悔しい思いを何度も経験しました。
そういった環境で感じている重み、責任を感じながら、学校にいる間に児童生徒たちの社会経験を1つでも増やすべく、授業の工夫や色々な企画を考えることにやりがいを感じています。新しいことをあれやこれやと考える。それが僕の役割だと思っています。
今は教員として管理職を目指したいです。どういう学校を作るかを考えたいですし、行政のほうにも興味があって、学校運営の課題を解決していきたい。
東京オリンピック・パラリンピックを控えている今は、スポーツを通してどういった教育が望ましいかを提案できるように、現場だけではなく、組織を動かせる立場になることが目標です。
なによりも、筑波大・筑波大大学院で学んできたことにもプライドを持っています。今のままでは終わりたくない。「自分にしかできないこと」を考えれば考えるほど、その原点は筑波大にあると実感しています。
考えること。つまり研究心を持ち、自分で考えて新しいアイディアを作り出していくこと。それをサポートしてくれる教員や大学院生、仲間の存在があったからこそ、考える力が磨かれたと思います。
「自分ならこうする」という考え、オリジナリティをもって何事にも取り組んで欲しいです。
所属: | 東京都立足立特別支援学校 |
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役職: | 教諭 |
出生年: | 1984年 |
血液型: | AB型 |
出身地: | 兵庫県西脇市 |
出身高校: | 私立市川高等学校 |
出身大学: | 筑波大学 |
出身大学院: | 筑波大学大学院 |
学部: | 体育専門学群 |
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研究室: | 特殊体育学研究室/水泳研究室 |
部活動: | 水泳部(競泳) |
住んでいた場所: | 春日4丁目 |
行きつけのお店: | ふじせん、うめ、おっかさん弁当 |
ニックネーム: | たいち |
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趣味: | コーヒー焙煎 |
尊敬する人: | 両親 |
心に残った本: | EQこころの知能指数 |
好きなマンガ: | やまだたいちの奇蹟 |
好きなスポーツ: | 水泳、ボッチャ |
好きな食べ物: | なす |
訪れた国: | 12か国 |
大切な習慣: | クリーンデスク |
口癖は?: | いいっすよ。 |
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