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エディージャパンの“ブレーン”として活躍

Sportsperson
2016/04/20
インタビュー
  • 09
公益財団法人日本ラグビーフットボール協会
ラグビー日本代表アナリスト
中島 正太
(体育専門学群 2004年入学)

昨年のラグビーワールドカップ イングランド大会で、日本代表を率いたエディー・ジョーンズ前ヘッドコーチの右腕とも言えるアナリストを務めた中島正太さん。インタビュー冒頭、「4年間で色んなことがあり過ぎて、忘れていることもあるかもしれません」と笑ったが、その充実した表情から、相当に濃密な月日を過ごしたことが感じられた。エディージャパンでの4年間、そして彼がアナリストとして一線で活躍している背景を紐解く。

事前に収集した情報でチームを勝利に導く

まずは、アナリストの役割について教えてください。

エディージャパンにはエディー前ヘッドコーチ以外に、4人のアシスタントコーチがいまして、彼らはスクラム、フォワード、バックスなど、それぞれの分野に特化したコーチングを務めます。それをまとめているのがエディーなのですが、コーチ陣それぞれが試合に向けて必要なデータを準備するための準備を、僕が担っていました。

アナリストというと、あまり聞きなじみがないかもしれませんが、以前はテクニカルコーチと言われていて17〜8年ぐらい前からチーム内に1,2人常駐しています。

アナリストという職業を選んだきっかけは?

5歳からラグビーを始めて、中学時代は全国大会に出場したんですが、僕が入学した埼玉県立熊谷工業高校には強い選手がたくさんいて、どんどん力の差を開けられました。そんな時、先生の影響でコーチングに興味を持ち始めて「指導者になりたい」という夢を持つようになったんです。当時から、ビデオデッキを2台つないで自分が所属していたチームの映像を編集し、みんなの前でプレゼンしていたんですよ。筑波大学に進学したのも、ラグビーをしながらスポーツを理論的に学べる環境があったからです。

大学4年で副キャプテンになると、自分で単に映像を編集するだけじゃなく先生方からも専門的な指導を受けるようになりました。すると、恩師である古川監督の紹介で、セコム・ラガッツというチームのアナリストとして働くことに。大学4年の頃は、自分のキャリア最後のラグビーに取り組むと決めていたので就職活動はほとんどせず、まさか卒業後すぐにプロの世界でアナリストとして働くことになるなんて思ってもみなかったので、今から考えても不思議なことです。

以降、どのような経緯でエディージャパンに呼ばれたのでしょう?

就職も含め、すべてご縁です。まず大学を卒業した2008年からセコム・ラガッツで勤務しましたが、1年後、セコムがラグビー強化から退くということで、すべてのプロ選手、コーチ陣がカットされました。するとタイミング良く、キヤノン・イーグルスという新チームの立ち上げに声をかけていただきました。当時の監督であった永友洋司さんと、当時サントリーのヘッドコーチだったエディーも親交が深かったので、一緒に練習をしたり、キャンプをする中で面識ができて、2012年、日本代表が発足された際、ヘッドコーチに就任したエディーに声をかけていただきました。

人との縁をつなぐには、ただ運を天に任せるのでなく、日頃の行いが影響してくると思います。セコム、キヤノン時代に心がけていたことはありますか。

当時は1年毎の契約だったので、あまり先のことを考えずに日々最高の仕事をすることを心がけていました。特にアナリストの仕事はコーチやチームの状態によって、いつどんなリクエストが来るか分からないので、急に言われたから「できない」ではなく、いつも柔軟に対応することで周囲との信頼関係を築いてきたように思います。

今に生かされている経験は?

キヤノンでアナリストを務めた3年間は、非常に勉強になりました。当時、東日本のチームが所属するトップイーストリーグに参加していたキヤノンは、グラウンドもないところからスタートしましたが、2年後には“日本で一番設備が整ったクラブハウス”としてアナリストルームという、日本の他のチームにはない設備が作られました。

アナリストルームにはグラウンドに設置されたカメラの映像が流れていて、録画設備も整っているので、わざわざグラウンドに行かなくても、その場で分析して必要な情報をグラウンドの大型ビジョンに映すことができます。練習後、コーチと選手にクリップ(映像素材)を渡すという、のちに日本代表にも取り入れたプラットホームを確立できたのは、キヤノンでの経験が大きいと思います。

設備を整えることの重要性は?

ラグビーでは対戦相手の練習や試合の情報を分析することが、勝敗に大きく影響します。結果として、設備が整ったキヤノンがトップリーグに昇格するまでには時間がかかりませんでした。トップリーグに昇格した試合では、僕が事前に収集した情報から、対戦相手の監督の采配や選手交代がもたらす影響などが手に取るように分かり、トランシーバーでヘッドコーチに伝えることでチームは見事トップリーグ昇格。アナリストとして自信を持つきっかけになりました。

アナリストになるために必要な素質とは何でしょう。

自分の意見を押し付けるのではなく、コーチの方針を汲み取ることができる観察力と、急なリクエストに対応できる柔軟性、かつリクエスト通りの情報を提供できる的確さだと思います。

エディージャパンでは毎朝8時にコーチ・ミーティングがあって、前日のトレーニングの問題点や選手の態度などから、今後の課題について話し合うんですが、エディーは毎朝7時半にミーティングルームのホワイトボードに10項目ほど、題材を書きます。その題材に対して、僕らは完璧な回答ができるよう準備しないといけないんですが、それに加えて、その場で「昨日の練習でミスが多かった、あの選手はどんなミスをしたか」「何回ミスをしたか」と聞かれたら、すぐに答えなければいけない。僕の場合は、その映像やデータを準備しておかなければならないと叱責が飛んでくることもありました。

どんな題材が書かれているか、当日の朝にならないと分からないのは大変ですね。

そうなんです。エディーは「選手のトレーニングや生活そのものが、チームの情報だ。チームは生き物なんだ」と、よく言っていました。選手の状態は毎日変化しますし、必ずしも一週間前の回答が、今日の回答になるとは限らないわけです。だから毎日ミーティングをすることで、チームの問題点について素早く手を打つ。それが彼のやり方でした。きっと、どのコーチに聞いても「4年間で一番大変だったのは、朝のミーティングだ」って答えると思いますよ(笑)。

情け容赦のないボスでありながらも、彼についていった理由は?

日本人はこの24年間、ワールドカップで一勝もできなかった。ようは、昨年ワールドカップに出場した日本代表チームの中で、エディーしかワールドカップで勝つ方法を知らないんです。だから彼の方針に全員が100%コミットメントするしかない。とにかく彼を信じてやるしかないという4年間でした。

昨年のワールドカップで五郎丸歩選手、リーチ・マイケル選手など国民的スター選手が生まれましたが、ジャパン内での選手の雰囲気はいかがでしたか?

すごく良かったですね。エディーはラグビーだけに優れている人間はピックアップしないので、人間的にも優れていて、向上心がある選手がエディージャパンの中で生き残っていったと思います。ダメな選手は容赦なくカットしましたから、選手みんな「次にチームに呼ばれるかどうか」という不安を抱えながら、それでも心折れずにエディーについてきました。みんな、人として尊敬できる選手ですし、どんなことがあってもひるまない強い精神力を持っていたと思います。

特に印象に残っている選手はいますか。

エディーやラグビー協会の取り組みとして、選手に海外経験を積ませることを1年目から実践していました。その中で、特に成長が見られたのはキャプテンのリーチ・マイケルです。1年目はケガも多く、日本代表のキャプテンを務めることにためらいがあったようですが、ニュージーランドの強豪チーム・チーフスでプレーしたことで目に見えて変化が表れました。精神面もパフォーマンスも向上したんです。

彼を筆頭に、選手ひとりひとりがコーチ任せにならず“自立”をすることで、試合中のとっさの場面で的確な判断ができるようになりました。南アフリカ戦で、コーチ陣の意見に必ずしも「イエス」で応じるのではなく、選手自身がスクラムを選択したのも、まさしく“自立”がもたらした良い結果だったと思います。


大学時代の失敗があるから、今がある

アナリストとして、代表選手とはどう関わっていたんですか?

自立という観点から生まれた“サマリー・ミーティング”があるのですが、リーチ・マイケル自ら「選手主体で勧めたい」と申し出て、試合前日、チームとして最後の練習前にミーティングを開くことが習慣になりました。

ミーティングでは「明日の試合で、具体的にこういうことをしよう」と各ポジションのリーダー6人が自分でプレゼンテーションを作って、1分ぐらい発表します。僕は、選手に考えさせる時間を与えたほうが良いと思っていたので、聞かれればプレゼンのためのデータや映像を選手に提供しましたが、「こうしたら?」と結論に誘導することは控えていました。選手がAかBか迷っている時に、アドバイスをするといったスタンスでしたね。この考えは、筑波にいた頃に身についたんですよ。

結論を提示せず、考えさせることを筑波で学んだのですか?

はい。筑波ではとても恵まれていて、何か疑問に思えば自分で映像を検索して、編集できる環境がありました。そのときに培ったのは、「分からないことを、すぐ人に聞かないこと」。聞くとすぐに回答は得られるけど、その結論に至るまでの苦労や、なぜその結論に至ったかという本質を得ることができなくなります。

たとえば、コーチ陣から何かリクエストを受けた時は、どうしてこの情報が必要なのかをすぐに聞かず、「なぜ必要か」「これに付随して必要なものは何か」を自分で考えながら情報を収集し、リサーチしたものを提示します。そして、コーチの反応を見て、さらに必要な情報があれば再度リサーチをします。この「自分で考えた」という過程は、次のリクエストを準備する際に必ず生きてきます。

なるほど。そして最高の結果を残したワールドカップ後、中島さんはラグビー男子7人制(セブンス)の専属アナリストに就任し、見事リオ五輪の切符を勝ち取りましたね。

社会人リーグで4年、日本代表チームで4年の計8年、15人制ラグビーのアナリストをやりきった感がありまして。いずれ指導者の道を行くのであれば、これまでとは違う環境で働いたほうが人として成長できるのではないかと思い、7人制ラグビーという新しい環境に身を置くことにしました。色んなことを自分でやらなければいけない大変さはありますが、幅広く活躍できるので、やりがいを感じています。初めて会う選手がほとんどですし、対戦相手の情報も全くゼロ。日々学びですし、刺激的ですね。

今後の活躍が楽しみです。ところで先ほど「容易に人に聞かない」ことが筑波で身についたと言っていましたが、その他、筑波の生活で印象に残っていることは?

2つありますが、まずひとつめはラグビー方法論のゼミの卒論で大苦戦したことです。研究内容に関してはそれほどダメ出しを食らわなかったんですが、それをラグビーを知らない人に伝えるための“伝え方”に関して、なかなか先生のOKがもらえなくて。5日間、研究室にこもって発表1時間前までやり直し、やり直し……。たった5日間の出来事でしたが、今、僕がアナリストとして活動する際に心がけている「人に伝える」ことを学んだ基盤になっていますね。

人に伝えるためには、どんな工夫が必要なのでしょう。

ただ文字をズラッと並べるんじゃなく、視覚的にも分かりやすく伝えなければいけない。特にラグビーはメジャースポーツではないので、ラグビーのことをよく知らない人にも興味を持ってもらえるように伝えなければいけません。

今でも後悔しているのは在学中、体育専門学群のすぐ隣りにある芸術専門学群に勇気を出して学びに行かなかったことですかね。あの筑波の小さな街に色んな学べる環境があるのは、今にして思えばすごく恵まれていること。社会人になると“人に伝える技術”が必要とされるので、電車の中吊り広告を参考にしたりしていますが、筑波なら、すぐ隣りの芸術学部で視覚的に有効なレイアウトや、色の使い方を学べたかもしれない。そんな後悔を今の学生には持って欲しくないので、ぜひチャリをこいで(笑)、どんどん色んな環境に学びに行って欲しいですね。

もうひとつ、印象に残っていることとは?

副キャプテンを務めていた4年の時に、それまで2年間出場できていなかった大学選手権に出場したことです。そもそも僕らの学年は、周囲に心配されるほど足並みが揃っていない学年で、ラグビーは趣味程度と考えている選手や、ラグビーは就活の役に立たないから必死にやっても無駄と考えている選手、かと思えば、真剣に取り組んでいる選手もいて、それぞれの目的が一致していない学年でした。みんなで一緒に行動するのは年に1回、海に行く時ぐらいでしたからね(笑)。

そんな学年が、結果的には大学選手権に出場。その背景とは?

最後の1年を迎えた時にみんなで話し合いながら、こんな危機感を覚えました。「僕らが大学選手権に出場しなかったら、僕らが卒業後、誰も大学選手権を経験した後輩がいなくなる」。それはつまり、“どうすれば大学選手権に行けるか、勝てるか”という感覚を失うことになりかねないんです。先輩方から受け継いできた伝統もありますし、これは僕らがやるしかない!とグッと目指す方向がひとつにまとまって、大学選手権に出場することができました。その勢いで、一回戦の同志社戦まで頑張れたと思います。

そして、名門・同志社に見事勝利しました。

そこで喜びを爆発させてしまったことが、次の帝京戦で力を発揮できなかった一因だと、今でも悔いが残っています。同志社戦を終え、花園から筑波に戻ってきた初日の練習で肉離れを起こしてしまい、帝京戦で力を発揮することができなかったんです。

ひとつの勝利に気持ちがゆるんだことで、ラグビーに取り組む最後の年をすがすがしい気持ちで終えることができなかった。ただ、その3週間で学んだことや悔しい感情は、その後の僕の人生に多いに役立っています。二度と同じことを繰り返さないためにも、しっかり準備をしておかなければならない。今、こうしてアナリストとして一線で活躍できているのは、大学時代の失敗から学んだ経験が非常に大きいと実感しています。

あなたの“つくばウェイ”とは?

ひとつのことに探究心を持ち、疑問を持ったらすぐに調べて実行することを学びました。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

自分の欲しい情報をつかみにいけば、筑波で色んなものが吸収できます。ただ、挑戦しなければ何も得られない4年間になってしまうので、積極的につかみにいって下さい!

プロフィール
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中島 正太(なかじましょうた)
1985年生まれ。東京都葛飾区出身。5歳からラグビーを始め、埼玉県立熊谷工業高校から筑波大学へ進学。大学4年時には、過去2年間遠ざかっていた大学選手権へ進出し、副キャプテンとしてチームを全国ベスト8へ導く。大学卒業後の2008年に、セコム・ラガッツのアナリストに就任する。2009年よりキヤノン・イーグルスに所属し、2011年には創立以来初のトップリーグ昇格へ貢献。2012年、エディー・ジョーンズHC率いる15人制ラグビー日本代表アナリストに就任。チームは世界ランクで歴代最高位の9位を記録。2015年W杯イングランド大会では、世界ランク3位(当時)の南アフリカから逆転勝利し、「スポーツ史上最大の番狂わせ」と報じられる。同年、五輪競技のラグビー男子セブンズ日本代表アナリストに就任し、新たなチャレンジが始まっている。
基本情報
所属:公益財団法人日本ラグビーフットボール協会
役職:ラグビー日本代表アナリスト
出生年:1985年
血液型:A型
出身地:東京都葛飾区
出身高校:埼玉県立熊谷工業高校
出身大学:筑波大学
筑波関連
学部:体育専門学群
研究室:ラグビー方法論
部活動:ラグビー部
住んでいた場所:春日3丁目
プライベート
ニックネーム:ナカジ
趣味:映画鑑賞
尊敬する人:
年間読書数:5冊程度
心に残った映画:I ORIGINS
好きなスポーツ:ラグビー
好きな食べ物:豚の生姜焼きときんぴらごぼうのコンビネーション
嫌いな食べ物:貝類
訪れた国:20カ国
大切な習慣:・気になったらすぐ調べる
・午後3時まではイングリッシュブレックファーストティーラテ、それ以降はキャラメルマキアート

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