
「教員になりたい」と、つくばの地を踏んだが、思いもよらない大ケガに見舞われ、理学療法士を目指すことに。その道の途中で車いすバスケに出合い、現在は女子日本代表チームをサポートしている。すべての出来事が必然だったかのような人生。今、叶えたい夢とは?
大きく分けると3つありまして、まずメインの仕事として茨城県立医療大学の理学療法学科で教員をしております。
次に重点を置いているのは日本車いすバスケットボール連盟の仕事で、女子日本代表のハイパフォーマンスディレクターとして人事や予算などのマネジメント、強化計画や強化戦略の立案とその実行のサポートなどしています。
3つめが理学療法士としての仕事。月に何度か、付属病院で患者さんを診ています。
最初は教員志望でした。筑波大を選んだのは単純に「名前がカッコイイ」という理由と、神戸の実家を出て一人暮らしがしたい一心で、関東の大学を検討していた時に筑波大の見学会に参加して「ここにいきたいな」と。
広いキャンパス内をバスが走っていることや、街と大学の間に壁がなく、大学が街に溶け込んでいる雰囲気に惹かれて選びました。
推薦入試に落ちて、もうダメだと思っていた時に担任の先生が「もう一度受けて見返してやれ!」とハッパをかけて下さって。センター入試を受け、前期入試で合格を頂きました。
はい。きっかけは、ひざのケガでした。中学、高校とバスケットボール部に所属し、筑波大に入ってからはアイスホッケー部やソフトボール部に所属していたこともありましたが、最終的にラケットボールというスカッシュのような壁打ち競技をやっていて。
土浦のジョイフルアスレティッククラブでインストラクターのアルバイトをしながら、練習をしていましたが、サークルのスキー旅行で左膝じん帯を3本切る大ケガをしてしまったんです。
筑波大学附属病院で手術を受けて、リハビリをしました。その経験を通して、スポーツのリハビリを学びたいと考えるようになったんです。
そうですね。ケガ以外にもう1つ、進路を変えるに至った出来事がありました。特別支援学校に教育実習に行った時のことです。
私が配属されたのは小学3年生の部。そこに9歳、10歳ぐらいの体の女の子がいました。その子は生まれながらに体が小さくて、人生で一度も立って歩いたことがなかったのですが、ある日、迎えに来たお母さんを見て机につかまり立ちをし、よたよたと歩き始めたんです。
お母様は大号泣していましたし、私もその瞬間に立ち会って、もらい泣きをするほど心を動かされました。
自分のケガと、その女の子に出会えたことがきっかけですね。1995年に筑波大学を卒業後、理学療法士の資格を取るために茨城県立医療大学に入り直しました。資格を取って卒業したのは1999年のことです。
茨城県立医療大学を卒業後、理学療法士として横浜市の脳血管医療センターという脳卒中の専門病院で働き始めました。
その頃、車いすバスケの試合を初めて観る機会があり、私の想像をはるかに超えるスピード感に圧倒されて、「私もやりたい!」と。というのも、当時、私の膝は日常生活をするぶんには問題ありませんでしたが、激しいスポーツをするのは難しかったので「車いすバスケならできるかもしれない」と思ったんです。
試合会場の壁に”車いすバスケの部員募集”という貼り紙を見つけて、すぐに連絡を取りました。
でも、すぐには入部を許可されなかったんです。当時は障害者手帳を持っている方じゃないと、車いすバスケのチームに入れなくて。
それでも「練習だけでも参加させて下さい!」と頼み込んだら、向こうが根負けして「これから日本代表を目指して車いすバスケを始める女性がいるので、その練習パートナーとして教えてあげてもいいですよ」と言って頂けました。
それから週2回、新横浜にある障害者スポーツ文化センターで練習をする生活が始まりました。とても充実した日々でしたが、横浜の病院に3年間在籍したのち、大学院で仙台に移ることになって。しばらく車いすバスケから遠ざかり、でも「やっぱり車いすバスケがやりたい!」と、仙台を拠点にしている宮城マックスというチームに入部しました。
高次脳機能障害の研究をしながら車いすバスケの練習に参加していました。練習自体は楽しかったのですが、東北の人は人見知りとよく言われるように、チームの人たちと1年ぐらいまともに喋ることもなく(笑)。
ようやく1年が経った頃、理学療法士として働いていると話したら「じゃあ、トレーナーとして参加しませんか」と誘われて、トレーナーとしてチームに所属することになりました。スポーツトレーナーの知識や経験はありませんでしたから、独学で勉強を始めました。
そうですね。そして2008年の北京パラリンピックに向けて、宮城マックスの監督が女子日本代表の監督に就任した際、私に声をかけて下さって代表チームに入りました。トレーナーはすでに決まっていたので、私はマネージャーの立場でした。
日本代表の合宿に帯同したり、海外チームとの試合のやりとりなど色んな仕事が増えて、結果、大学院の卒業は1年延ばしになりましたが、その間、北京パラリンピックにいけたことはとても大きな出来事でした。
選手はつらい練習に耐え、泣くほど走って厳しい練習をやって来たのに、3位決定性で負けてメダルを逃しました。そんな姿に触れ、明日日本に帰るという最後の夜に、選手村を散歩しながら決意したんです。「私がコーチになろう」と。
日本は2000年のシドニーパラリンピックで銅メダルを獲得して以降、世界で思うような結果が出せていません。いつかまたメダルを獲るには、競技人口を増やして国内の競争を高めなければいけない。自分が選手を見つけて強くしようと、そんな決意を抱いたんです。
帰国してほどなく東北地方初の女子チーム”スクラッチ”を立ち上げ、指導の道へ入っていきました。設立当時は宮城県、福島県、茨城県の選手が福島県に集まって練習していましたが、現在では北海道から名古屋までの選手が集まります。
高校生から40~50代まで所属しています。競技人口が少ないので世代で区切るのは難しいのと、車いすが走ってくれるおかげで心臓への負荷がかからないので、上の年代の方も長く活動できるのが車いすスポーツの良いところだと思います。
2011年、東日本大震災の年に大きな出来事が2つありました。女子の日本代表はシニア代表の他に2011年からアンダー25代表の枠ができたのですが、そのアンダー25の最初のヘッドコーチに選んで頂いたんです。
2011年のアンダー25世界選手権では出場した8か国のうち、U25女子日本代表は5位に終わりましたが、その時の選手は、東京やパリのパラリンピックに出場する主力選手になりました。若い選手が経験を積みながら、成長していく姿を間近で見られたことはコーチ冥利に尽きます。
日本で車いすバスケの女子チームが発足し、初めて出場した1984年のパラリンピックで銅メダルを取って以降、7大会連続でパラリンピックに出場しました。ところが2010年のロンドンパラリンピックのアジアオセアニア予選で負けてしまい、史上初めて出場を逃しました。
かつてはアジアオセアニア地区でオーストラリア、日本が二強でしたが、2008年の北京オリンピック以降、中国が力をつけたことでロンドンにいけなかったんです。
日本の車いすバスケ関係者は、みな動揺していました。そんな中、女子の日本選手権が開催され、私がコーチを務めるスクラッチが優勝。私が女子の日本代表ヘッドコーチを務めることになり、次のリオデジャネイロを目指すことになりました。
最終予選で負けてしまい、リオにいくことはできませんでした。その後も国外の大会で結果を残すことができず、2017年、5年間務めたヘッドコーチを退くことになりました。
寝る時間を惜しんで車いすバスケの活動をしていたので、燃え尽き症候群のような状態になりました。
その気持ちをかき消すように理学療法士の仕事に没頭していたら、2020年に開催予定だった東京オリンピック・パラリンピックが近づいてきて。「もう一度女子の日本代表をサポートしませんか」と声をかけて頂き、特任コーチとしてチームに帯同することになりました。
開催国なので出場は決まっていましたが、コロナの影響で開催延期が決まり、日本全国が自粛やオリパラ反対といったムードの中、みんな集まって練習することは、うしろめたい気持ちでしたね。
女子は6位、男子は銀メダルを獲りました。男子のメダルは初めてだったので注目を浴びて、次は女子もメダルを!とパリに向けてスタートした際に、スポーツ庁のお達しで新しく“ハイパフォーマンスディレクター”という役職ができまして。
日本代表の強化だけでなく、地域での活動を盛り上げて選手を発掘し、育成するといった全体のオーガナイズを担う、その役職に就くことになりました。
パリは自力で予選突破しなければいけない、でも中国とオーストラリアが強いという中で、私がやったことは世界最終予選を日本に呼ぶことでした。
最終予選は開催国のチームが有利だと言われていて、時差もなければ、ご飯や言葉などの不便さがない。使い慣れた体育館で試合ができて、試合のスケジュールも選べます。そういった状況で開催地に立候補したのがフランスと日本でした。
それが、パリからは開催国枠が無くなってしまったんです。フランスもなんとしてでも最終予選を開催したい中、私が国際連盟の理事会で英語のプレゼンをして、女子は日本で開催できることになりました。
コーチとして選手と共に戦う面白さもありますが、ディレクターとして外から日本をサポートする面白さを感じましたね。「日本全体で戦う」とは、こういうことなんだと。
理学療法士としては何万人もいる中の1人という立場ですけど、パラスポーツ、こと車いすバスケに携わっている立場としては“オンリーワン”の存在になれている実感があり、やりがいを感じています。
1992年に江崎玲於奈先生が学長に就任され、「これからの未来は学生たちが作っていく」。そんな雰囲気を感じて全国から集まった志の高い仲間から刺激を受けて、私自身のアイデンティティを模索したり、自分の“オンリーワンの価値”をどう作ろうかと考えていたことが、今につながっていると思います。
第二次世界大戦後にイギリスでリハビリテーションとして始まった車いすバスケが、リハビリにとどまらず、患者さんの生きていく力、自信につながり、今ではパラリンピックの競技になりました。
そう考えると、私が理学療法士でいることと車いすバスケに関わっていることは根っこの部分でつながっています。
今後はスポーツ科学の視点を入れてチームを強くして、パラリンピックでメダルを獲ることで障害のある子供たちや、人生の途中で障害者になった人たちが夢を見られるようになればと思います。
はい。これまで、車いすに乗っている方から学校の体育に参加できないとか、修学旅行に参加しなかったという話しをたくさん聞いてきました。それと同時に、そういった方が車いすバスケに出会い、挑戦を通して「自分は広い世界とつながっている」ことを知り、その瞬間から成長していく姿も見ています。
リハビリは単に体を動かせるようにするだけじゃなく、その先の「自分が生きたいように生きるためのもの」。
日本代表がメダルを獲るのは、それを象徴する出来事だと思うので、世界を目指したい人を発掘し、結果を出すところまでサポートできれば「私の人生は面白かった」といって終われるんじゃないかと思っています。
いつかパラリンピックで日の丸を揚げて君が代が聞きたい、つまり金メダルが獲りたいですね。ハードルは高いですけど、決して不可能ではありません、まずは次のロサンゼルス・パラリンピックに出場できるよう、サポートしていきたいと思います。
筑波大は、世界の中の自分を意識できる空間でした。アルバイト先の人に紹介してもらってカナダにホームステイしたり、海外からの留学生と出会う機会も多くて、自分の狭い世界が本当の世界につながることを知りました。
筑波大に進めば、卒業後も、世界中にいる筑波大生と直接的、または間接的につながって良い刺激がもらえます。これから筑波大を目指す人には、一人暮らしをおすすめしたいですね。家族の大切さに気付けたり、食べる物、身になる物をきちんと選ぶことや、そのためにお金を稼ぐことを経験して、先の人生の準備をして欲しいと思います。
所属: | 茨城県立医療大学保健医療学部理学療法学科 |
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役職: | 准教授 |
出生年: | 1972年 |
血液型: | O型 |
出身地: | 兵庫県神戸市 |
出身高校: | 兵庫県立神戸高校 |
出身大学: | 筑波大学 |
出身大学院: | 東北大学大学院医学系研究科 |
学部: | 第二学群人間学類 |
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研究室: | 心身障害学主専攻 運動障害研究室 |
部活動: | アイスホッケー部(1年前半) ソフトボール部(1年後半) ラケットボールサークル(2年生以降) |
住んでいた場所: | 一の矢宿舎 ⇒花畑 ⇒竹園2丁目 |
行きつけのお店: | ふくむら(今はもうありませんが在学中は良く通っていました) |
ニックネーム: | Bana (筑波大学在学中は下の名前で呼ばれていました) |
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趣味: | 特になし |
特技: | 料理 |
尊敬する人: | トム・ホーバス |
年間読書数: | 10冊くらい |
心に残った本: | 嫌われる勇気 |
心に残った映画: | ニューシネマパラダイス |
好きなマンガ: | 宇宙兄弟 |
好きなスポーツ: | バスケットボール |
好きな食べ物: | お寿司 |
嫌いな食べ物: | 酢豚 |
訪れた国: | 13か国 |
大切な習慣: | 朝起きて白湯を飲む |
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