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村上様スライダー

選手の喜びこそが、通訳者としての幸せ

Sportsperson
2016/05/23
インタビュー
  • 18
パナソニック ワイルドナイツ通訳兼普及
村上 泰將
(大学院 体育研究科 2000年入学)

現在、ラグビー界のトップ通訳者のひとりとして活躍する村上さんは、高校卒業後、オーストラリアで英語を修得し、「ラグビーに携わる仕事がしたい」と筑波大学大学院体育研究科に入学。2003年には、ワールドカップの日本代表通訳として帯同した。大きなチャンスを手にするには、ただ運がいいのひと言だけでは済まされないほどの努力と、人とのご縁を大切に紡ぐことだと彼の人生は教えてくれる。

豪代表選手と友達になりたくて留学

学生時代は選手として活躍していたそうですが、ラグビーとの出合いは?

高校1年生の時です。身長が185cmあったので、バスケットボール部やバレーボール部から勧誘されましたが、バスケ部やバレー部には小学生の頃からずっと競技を続けている運動神経の良い選手がたくさんいたので、「高校から始めたのでは追いつけないな」と。その点、ラグビー部には経験者がほとんどいなかったので、僕の持ち味をすぐに生かせると思い、入部しました。

すぐに活躍することはできましたか?

最初は運動神経がなさ過ぎて、先生や先輩からイジられていたんですよ(笑)。実は僕、小さい頃からあまりスポーツが得意ではないんです。ただ体格が良いという理由だけで、小学校時代はソフトボール部、中学時代は陸上部に所属していましたけど、特に目立った活躍はできませんでしたから。

高校2年生になった時、筑紫高校出身で広島大学を卒業した先生が顧問になってから、ようやくラグビーの面白さに目覚めました。先生の指導のおかげで、ラグビー強豪校である筑紫丘高校と良い試合ができて、その試合での活躍を評価されてオール福岡に選んでいただきました。

高校卒業後はオーストラリアに留学。ラグビーはオーストラリアの国民的スポーツですね。

オール福岡に選ばれて自分の中でスイッチが入った頃、91年のワールドカップが開催されました。その試合をテレビ観戦して、オーストラリア代表のティム・ホラン選手の大ファンになったことがオーストラリア留学を志すようになったきっかけの一つです。オーストラリアのブリスベンを拠点とするブリスベン・サウスというチームに彼が所属していると知り、当時は「ティム・ホラン選手に会いに行きたい!友達になるんだ」と本気で思っていたんですよ。

その後、学校の進路指導室で“留学ジャーナル”という本を見かけて、色々リサーチしてみると留学費用はやっぱり高い。でも待てよと。東京で一人暮らしをして、私立大学に通うのとそれほど変わらないじゃないかと思って親に相談したら、軽く「行きんしゃい(福岡の方言で、行きなさい)」って。本当に行くとは思っていなかったみたいですけど(笑)。それから、自分ひとりで勝手に準備してオーストラリアを目指しました。

村上様文面2

現地の大学に入学したのですか?

いえ、英語力が十分ではなかったので語学学校からスタートしました。1年目はもちろん憧れのティム・ホラン選手がいるブリスベン、そして2年目は他の都市にも住んでみたかったので西オーストラリアのパースの語学学校に通いました。

最終的にはブリスベンにあるグリフィス大学に進学して、3年で卒業。モダンアジアンスタディーズという学部で、アジアとオーストラリアの政治や歴史、国際関係について学びました。

その間、ティム・ホラン選手に会うことはできましたか?

会えました。あの時のことは今でも鮮明に覚えていますし、初めて会った日は興奮し過ぎて朝5時まで眠れませんでしたよ。その後、彼と同じクラブチームに入って、彼は1軍、僕は3軍に所属していましたが、ある日、怪我から復帰したティム・ホランが3軍に参加することになり、なんと同じフィールドでプレーすることができました。

ご自身もラグビーを続けていたのですね。

はい。ただ、最初は英語が全然できなかったので、チームメイトが何を言っているのか分からなければ、こちらからも何も伝えられず苦労しました。練習後に一緒にご飯を食べていても、みんなが何を話して笑っているのか聞き取れず。ひとりでポツンと座っていた記憶がよみがえります。それから2年が経ち、大学に入る頃にようやく英語力も身につき、チームの輪の中に入ることができるようになりました。

卒業後は日本に帰国。留学生活で学んだこととは?

まずは英語力ですね。高校時代は苦手科目だった英語をオーストラリアで修得し、それが今の仕事に役立っていることは非常に大きいです。

それと、高校時代までは「将来、選手として活躍したい」という目標を持っていましたが、現地の選手に混ざって練習していく中で力の差を見つけられ、選手になる夢を潔く諦めたことが次のステップにつながっています。「選手として無理だとしたら、コーチになるか、ジャーナリストになるか……」と自分自身の進路について、とことん考える機会になりましたから。

オーストラリアでそのまま働こうとは思わなかった?

今思えば、向こうで働いて永住権を取ればよかったなとも思うんですが、当時は、とにかく日本に帰りたくてしょうがなかったです。留学前は漠然と海外に憧れを抱き、「こんなに狭い日本なんて、今すぐ出て行ってやる!」という勢いでしたが、日本を出て実感したことは、やっぱり僕は日本が好きで、僕は日本人なのだということです。これは海外に暮らした経験のある人なら、みな感じることかもしれません。

留学したばかりの頃は、英語修得のためにできるだけ日本人と接さないように心がけていましたが、いざという時に頼りになるのは、やはり日本人の仲間。困ったことを相談したり、将来の悩みを打ち明けたり。帰国してから10年以上経ちますが、今でも当時の友達とは交流があって、「お前は留学当時からずっと『ラグビーに携わる仕事がしたい』って熱く語ってたよな」と言われます。

ところが帰国当初は、ラグビーとは関係のない会社に就職されたとか。

オーストラリアで出会った方の紹介で就職しましたが、やっぱり「自分の思い描いていた人生とは違う」と思い、1年で会社を辞めました。辞めるにあたって、今後どうすればラグビー界で生きていけるのかと考えると、それには人脈も必要だし、自分自身にバックグラウンドに必要だと。

村上様文面3

それで、筑波大学の大学院に入学されたのですね。

その頃、吉田義人さん(元日本代表選手。現・男女7人制ラグビー監督)が筑波大学の大学院に行ったと耳にして、「筑波にラグビーが学べる環境があるんだ」と初めて知りました。そして1年間、アルバイトをしながら浪人した後、大学院に入学。会社を紹介して下さった方には申し訳ないことをしましたが、今は「やりたいことができるようになって良かったな」と喜んでくれています。僕の信念を貫くことができたのも、周りの方の理解があったからだと感謝しています。

大学院卒業後、日本代表の通訳に

27歳で大学院に入学。印象に残っている出来事は?

2年目から筑波大学ラグビー部に携われたことです。分析をしたり、試合に出ていないメンバーのコーチを担当しましたが、一番印象に残っているのは、優秀なコーチ陣ですね。皆さんの知識の豊富さやコーチング能力、そして情熱には感銘を受けました。

選手のレベルの高さも想像以上でした。当時、筑波は関東大学ラグビー対抗戦3〜5位くらいのチームでしたが、日本の大学でラグビーをやっている選手は運動能力が高く、競技レベルも高い。オーストラリアはというと、トップレベルの1軍の選手はものすごい実力ですが、それ以下の選手は必死に練習するより、楽しもうという雰囲気の選手が多いんですよ。

大学院時代もブレることなく「ラグビー関係の仕事に就こう」との思いは変わりませんでしたか?

誰もが「日本ではラグビーで食べていけない」と言いましたが、僕は留学していた1992から1997年にかけてオーストラリアのラグビーがプロ化していく過程を見ていたので、「日本にも必ずその時代が来る。ラグビーに携わる仕事が、職業として成立する日がやってくる」と信じていました。

現実問題として卒業を控えた頃、企業チームに入るか、日本ラグビー協会に入るか、高校の先生になるかの選択肢で悩むことはありましたが、そんな時、日本ラグビー協会の関係者に知り合いがいる先生のご紹介で、運良く日本代表の通訳を任されることになりました。

英語が武器になり、夢が叶ったのですね。

アルバイトぐらいの賃金しかもらえなかったので「29歳にもなって何やってるんだろう」と悩むこともありました。でも、必ずこの経験が糧になると思って不満を表に出さず、一生懸命に任務を全うしたことで今の僕があると思います。

というのも当時の日本代表コーチは、今、僕が所属しているパナソニック ワイルドナイツの部長です。声をかけていただいた時は「どんな経験も無駄ではない。努力をすれば、必ずどこかで誰かが見てくれている」と実感させられました。

通訳をやる上で、どんなことに気を配っていますか?

監督やコーチの言葉を正しく伝えることが第一ですが、単純な直訳をしてしまうと、日本人には理解しづらい表現になってしまいます。例えば海外で発売された書籍の日本語訳版に、違和感のある言葉が出てくることがありますが、それは英語を単純に直訳しているから。そうならないためにも、日本人がスッと理解できるような表現をすることを常に意識しています。

通訳としての才が認められ、次々とヘッドハンティングされています。まずは日本代表から福岡サニックスボムズ(現・宗像サニックスブルース)に移籍。

これも面白いご縁なのですが、日本代表が活動していない時期に通訳としてイギリスのチームのサポートをすることになり、その時、彼らが練習をしていたのがサニックスの練習場で。当時の監督に「うちに来てよ」と誘っていただきました。ただ、2003年のワールドカップで日本代表に帯同することが決まっていたので、やんわりとお断りをしたら、ワールドカップ終了後に再び声をかけていただいて。ちょうど日本ラグビー協会にも残れない状況でしたので、こんなにありがたい話はないという感じでしたね。

サニックスに2年所属し、次は九州電力キューデンヴォルテクスへ。

サニックスや九州電力は勝ったり負けたり、浮き沈みが激しいチームでしたけど、そこで働くことの面白さとしては、1勝に賭ける思いや、1勝1勝の重みが半端ではないこと。九州電力が強豪トヨタに勝った時なんて、脳みそから全ての快楽物質が出てるんじゃないかと思うほど興奮しましたよ(笑)。

強豪チームでは味わえないような経験ですね。

特に忘れられないのは2012年のシーズンです。その年は2011年の東日本大震災の影響で、みなさんに節電をお願いしている立場としてナイター用の電気を使うことができず、思うような練習ができないままシーズンを迎えました。そして、トップリーグに昇格できるかどうかという大事な一戦を迎え、当時下部リーグ最強だったキヤノンに38点差をつけて勝たなければ昇格はないという事態に……。そんな試合を前にした最後のミーティングで、監督が「覚悟の差で勝とう」と涙を流しながら選手を奮い立たせました。

結果は?

68対17で勝利。ここまで泣いたことはないというぐらい大泣きに泣きました。2015年のワールドカップで、日本が南アフリカに勝利した時も同じ雰囲気を感じましたが、人間は“勝つ覚悟”をすると思いも寄らない力を発揮することがあります。特にチームスポーツはその覚悟が連鎖反応を起こし、個人では成し得ないような大逆転を生むこともあるから面白いですね。

その後、パナソニックに移った経緯は?

2014年を過ぎて、九州電力が外国人を抱えることができない経営状況になり、僕の役割も少しずつ減ってきた頃、パナソニックにタイミング良く声をかけてもらいました。今は通訳兼普及担当として、小学校からラグビーの普及依頼を受けたり、選手のスケジュールを調整してイベントに派遣したり。今後は海外とのやり取りなど国際業務も任されています。

村上様文面1

通訳という仕事はやりがいがありそうですね。

もちろんやりがいを感じていますが、これからスポーツ選手の通訳を目指す学生に知っておいて欲しいことがあります。通訳は一見、華やかに見えるかもしれませんが、見えない部分では、外国人選手とご家族の身の回りのお世話をするなど雑務も多い仕事です。例えばアパートを借りたり、引越しの手伝いをしたり。このお世話というものが非常に重要で、そこが十分でないと外国人選手が試合で力を発揮できなかったり、チームを去る時に「ここに来て良かった」と満足して帰ってもらうことはできません。

気苦労も多いのですね。

その代わり、グローバルな価値観を持った外国人選手と身近に接することで、彼らに教わったことがたくさんあります。印象に残っているのは、「成功するには“何を知っているか”ではなく、“誰を知っているか”が大事だ」という言葉です。つまり、いくら才能があっても自分ひとりでは成功することはできない。自分を引き上げてくれる人の助けがあってこそ、その才能が開花するということ。実際に僕自身、人とのご縁に助けられと感じたことが、これまでに何度もありました。

「やってあげている」ではなく、「学びを得ている」と発想を転換させることが大事。

そうですね。だから選手たちに「ありがとう」と言われる度に、こんな言葉を返します。「If you are happy, I`m happy(あなたが喜んでくれたなら、私も幸せです)」。通訳者としての僕の哲学が、この言葉に集約されていると思います。

村上様文面4

あなたの“つくばウェイ”とは?

筑波大学のラグビー部に関わらせてもらったことが、僕の財産。そこで学んだ“人との交わり方”は今の仕事に生きています。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

筑波で得られる知識や人脈は、今後スポーツの世界で生きていきたい人が自分の身を立てていく時に必ず役立つはずです。

プロフィール
村上様プロフィール画像
村上 泰將(むらかみやすまさ)
1973年生まれ。福岡県飯塚市出身。福岡県立嘉穂高等学校を卒業後、単身渡豪し、グリフィス大学(豪州ブリスベン)へ進学。2000年、筑波大学大学院体育研究科へ進学し、在学中にはラグビー部のアナリスト兼ディペロップメントチーム担当コーチを務める。2002年より日本ラグビー協会に所属し、2003年ラグビーW杯オーストラリア大会に日本代表通訳として帯同。その後、福岡サニックスボムズ(現宗像サニックスブルース)、及び、九州電力キューデンヴォルテクスにてアナリスト、通訳、チームマネージャーとして活躍。2014年より、パナソニックワイルドナイツにて、通訳兼普及担当を務める。
基本情報
所属:パナソニック ワイルドナイツ
役職:通訳兼普及
出生年:1973年
血液型:O型
出身地:福岡県飯塚市
出身高校:福岡県立嘉穂高等学校
出身大学:グリフィス大学 (オーストラリア)
出身大学院:筑波大学大学院 体育研究科
筑波関連
住んでいた場所:春日三丁目
行きつけのお店:まんぷくや
プライベート
ニックネーム:やっさん
趣味:ランニング
尊敬する人:松下 幸之助、孫 正義、飯島 均
年間読書数:10冊?
心に残った本:竜馬が行く、坂の上の雲、海賊と呼ばれた男
心に残った映画:SCENT OF WOMAN
好きなマンガ:キングダム
好きなスポーツ:ラグビー
好きな食べ物:何でも
嫌いな食べ物:ベジマイト
訪れた国:11カ国
大切な習慣:ランニング、日曜日のトイレ掃除(結構忘れるけど)
座右の銘
  • IF YOU ARE HAPPY, I'M HAPPY!! / IT IS NOT WHAT YOU KNOW, BUT WHO YOU KNOW!

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