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人を幸せにしたいという意識を持った時、力を発揮できる

Sportsperson
2016/04/13
インタビュー
  • 07
学校法人静岡聖光学院 常務理事・副校長・ラグビー部総監督
星野 明宏
(大学院 2003年入学)

練習は週に3回、1日1時間。グラウンドの4分の1しか使えない環境下にありながら、静岡聖光学院ラグビー部の監督に就任して3年目でチームを花園に導いた。と聞けば、スポーツドラマさながらの熱血監督をイメージするかもしれない。しかし彼の目的はラグビー強豪校を作ることではなく“本物のカッコイイ男たちの集団”をプロデュースすること。大手広告代理店を退社し、学生寮の舎監から常務理事にまで昇り詰めた背景には、一体どんな信念があったのだろうか。

黒いジャージがカッコイイと意識改革させた

たった週3回、1日1時間の練習で花園に出場したと聞けば、さぞ大きな改革があったのだろうと予測しますが。

部活の練習が週3回、1日1時間というのは、そもそも学校の校則なので僕がどう願ってもそれ以上の環境にはならない。最初は壁にぶち当たり、色んな指導者に相談して回ると「勝つには環境を変えるしかない」と、口々に言われました。でも環境が変えられないものはしょうがないですから、開き直って、1日1時間、休む間もないほど効率良くトレーニングに取り組むこと、部活以外の時間も充実させること、そして部員の意識改革に取り組むことにしました。実は練習よりも、彼らの意識を変えることが一番大変でした。

どんな意識改革をしたんですか?

当時、静岡では東海大翔洋という学校が圧倒的に強くて、全国でも良い成績を残していたのですが、うちの部員が国体の候補練習に参加すると、嬉しそうに「翔洋の選手はカッコイイ。一緒に写真撮ってもらいました!」なんて言うんです。このままでは一生、翔洋に勝てないぞ……と危機感を覚えましたよ。自分たちこそが“カッコイイ集団だ”という意識をまず持たないと、ただでさえ強い相手を打ち負かすことなんてできませんから。

そこで、ポスターを作ってみることにしたんです。“2030年全国大会決勝、桐蔭学園VS静岡聖光学院”といった、当時の部員からすればデカい夢を掲げたポスターです。みんな最初は「無理だろう」なんて笑ってましたが、次第に「実際、これが現実になったら嬉しいよね」と言い始めて。次に、少し頑張れば出られるような東海大会のポスターを作りました。これなら遠い夢ではないような気がしてくる。では東海大会に出るためにクリアするべきことは?と課題を提示し、ひとつずつクリアしていきました。“未来を語る”ことで、意識がどんどん変わっていきました。

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それで部員の意識は変わったのでしょうか。

実績のある、スポーツ選手のメンタルトレーナーにも来ていただきました。うちの部員が「翔洋の青いジャージがカッコイイ」と言うもんだから、「自分たちの黒いジャージのほうがカッコイイ」と意識を変えさせて欲しいと依頼をして、約1年後には見事に効果が出ました。その頃には、部員が率先して「おはようございます」と朝の挨拶を始めるようにもなりました。いくら生徒会が挨拶運動しても浸透しなかったものが、ラグビー部の部員が自発的に挨拶をするようになったんです。

これが部活外での意識改革。彼らの中で「僕たちはカッコイイ集団だ」という意識が芽生えたからこその行動ですし、日常生活で高い意識を持てば、自然と練習態度も変わってきます。そんな彼らの姿勢が他の生徒にも影響を与えたようで、学校全体で挨拶をする習慣が付きました。

人を羨む前に、まず自分の存在価値を上げるということですね。

そうですね。人のことを羨んでばかりでは、自分自身が成長することはできないですから。たとえば僕だって、今さら政治家の子供にはなれないし、アイドルみたいな顔にはなれないでしょう(笑)。だったら黒いジャージであれ、練習時間は週に3回、1日1時間であれ、今あるものを必死に磨いて勝負するしかないのです。

そういった思考は昔から持っていたのですか?

僕は中学時代にラグビーを始めましたが、大学1年生の時、なんと13軍に入れられまして。スクラムハーフという同じポジションが、13人もいたわけです。3時間の練習のうちまともにメンバーに入れるのが15分くらいといった環境の中で、「13軍だから練習させてもらえない」ではなく、「それ以外の2時間45分ぐらいは自由に使える」と発想を切り替えました。1軍、2軍がやっていないダイビングパスをひたすらやったり、スクワットしたり手首を鍛えたり。すると他の選手にはない持ち味が身につきました。1軍、2軍の選手はパスが早くて、体も強い。それに対して、自分はちっちゃくて弱いけど、とにかくさばきが早いことが強み。また、自分が弱いからこそ、仲間の選手を活かすのが得意。他人をプロデュースするというか、力を引き出すというか。そういった発想で、全然違う土俵を自分で作って戦っていました。そして、2年では全試合レギュラー入りを果たし、3年では創部史上初の大学選手権にも出場しました。

そんな経験があったからこそ、聖光学院での厳しい環境を有意義に使うことができたのかもしれません。僕が監督に赴任した当初、「勝つには環境を変えるしかない」と言った人たちに対して、「そんなことはないです」と今は胸を張って言えます。

大学時代での逆境が今に結びついているのですね。

大学時代の経験でもうひとつ、今の僕を形成している出来事があります。大学4年の時、副キャプテンを任されたのですが、当時は練習メニューや年間計画の作成は副キャプテンの役割だったので、外部コーチと打ち合わせするなど、ひとりで全部を仕切ろうとしていました。かといってコーチングの知識や経験があるわけじゃないから、どんな試みに対しても自信が持てない。精神的に追い詰められながら、ふと気付いたことは「いつか指導者になるのなら、ある程度、本物にならないと生徒を幸せにすることはできない」ということでした。

指導者というのは自己満足して終わりではなく、関わった生徒たちと幸せな時間を作ったり、彼らの人生の礎になるような導きが出来る存在であるべきです。そのためにはそれなりの覚悟があるというだけではダメで、しっかりした知識やマネジメント力も必要だと。大学時代、そこに気付けたからこそ、すぐに教員になるのではなく、一度社会で色んな経験を積んでみようと思えたんです。

そのような経緯で、電通に入社したのですね。

はい。電通を選んだ理由はビクトリーカルチャー、ナンバー1カルチャーを学んでスポーツビジネスの道を探求したいとの思いでした。ところが150人いた同期はとんでもない才能を秘めた人材揃いで、お笑い芸人みたいに面白いやつもいれば、東大出身のやつもいる。そんな中、凡人である僕が真正面から勝負してビリから上り詰めるには時間がかかると思って、結局、希望者ゼロの中部支社を自ら志望しました。

ベンチャースピリッツのようなものでしょうか。

といえば聞こえはいいですけど、要するに王道から逃げて、少しカテゴリーをずらして戦おうとしたんです。「B級の人間にはB級のやり方があるぜ!」という気持ちでしたから(笑)。そして入社3年目に、当初から希望していたスポーツビジネス企画開発担当に就任し、スポーツの取材やスポーツイベントのプロデュースを手掛けました。

社会人時代、ラグビーとの関わりは?

一切ラグビーを見ませんでした。変な直感があって、生の試合だけじゃなくテレビ観戦してしまったら、今の仕事に迷いが生じてしまうと思ったんです。心の底に「ラグビーの指導がしたい」という気持ちを閉じ込めていましたから。

そんな生活が6年続いた頃、静岡聖光学院ラグビー部のコーチを月に一度でいいからやってくれないかと、知人に声をかけられました。30歳前になると、ほぼ365日働き詰めだった現場を離れて管理職になるということもあり、休日がゆっくり過ごせていたので「時間もあるし、やってみようかな」と。とはいえ、「やりだしたら、のめり込んでしまうだろう」という予感もありました。その予感が、今こうして現実になっているわけですが。


母の死に様に触れて、大きく変わった

電通を退社し、筑波大学大学院に。そのきっかけは?

いざ聖光学院ラグビー部のコーチをやってみると、自らの指導方法のレベルが大学時代に副キャプテンをやっていた頃と何ら変わりがないと実感し、イチからちゃんと学んだほうがいいと退社を決意しました。当時ラグビーのコーチングを教えている唯一の学校だった筑波大学大学院は、教育とコーチングを掛け合わせた理論を展開していることも魅力のひとつでした。

年収1千万円のビジネスマンから、学生になることに迷いはなかったですか。

自分の夢を叶えるために決断したとはいえ、会社を辞める前は恐怖に襲われて3ヶ月ほど発熱が続きましたよ。社会的地位を失うこと、年収を失う恐怖がありましたし、学生の間、2年間は無収入でしたから。ボランティアコーチとして月に2回、筑波から聖光学院のある静岡にある通う時は、青春18きっぷで各駅停車に乗車して1日往復12時間かけて通って。それなのに集まった部員は6人、練習は校則通り1時間……。「俺は何をやっているんだろう?」と落ち込んだ日もありましたね。

星野さんをつなぎとめていたものとは?

その6人の生徒が一生懸命やってくれたことに尽きますね。もし僕が名指導者になりたいがためにコーチを請け負っていたとしたら、とっくに心が折れていたと思います。だけど僕には、“関わりを持った生徒を幸せにすること”という立ち返る場所がありました。だから、目の前の部員にとことん向き合いました。落ち込んだのは、実はちょっと愚痴りたくなっただけのことで、考えてみれば本気で辞めようと思ったわけでは無かったですね。この環境で無理と思ったことは一度もないです。どんな環境であっても「全国ベスト8くらいには行ってやる!」という気持ちを持って指導していました。

立ち返る場所があると、人は強くなれるのですね。

その通りです。大学院を終えた後、トップリーグや高校から「2、3年で強いチームを作って欲しい」と好条件のオファーを受けましたが、結局、条件が一番厳しかった聖光学院を選んだのも、その立ち返る場所があったおかげです。

“そもそも論”とも呼んでいるのですが、「そもそも、どうして教師になりたいのか」を自分自身に問うて、ラグビー部で結果を出すことが最終目標ではないと。僕の経験や学びを生かして生徒を幸せにしたいと、そもそもの目的に立ち返ることができれば、おのずと自分がやるべきことが見つかります。

ところが採用枠の関係で、教員ではなく寮の舎監として採用されたとか。

今では笑い話ですけど、電通出身で、筑波でラグビーコーチングを学んだ人間が鳴り物入りで入ったと思われがちですが、まずは寮の舎監をやらされまして(笑)。正式な監督に就任することはできませんでした。夕方から勤務で寮に週4日泊まり込み、朝、家に帰宅。ラグビー部より寮のシフトが優先されたので、練習には週に1回しか行けなかったんですよ。それでも舎監の仕事を一生懸命勤め上げて、2年後にようやく教員として採用してもらいました。

舎監の仕事にも真面目に取り組む姿勢は、前出の「今ある環境の中でやるしかない」という話につながってきますね。

実は、母がそういう人だったんです。僕が高校1年生の時に他界したのですが、いつも目の前のことに一生懸命で、家族だけでなく友人たちにも愛情深く、近所のおばちゃんたちのリーダー的存在でした。何がビックリしたって、葬式に全国から300人も母の友人が集まったんですよ。一介の主婦の葬式に300人、しかも多くの人が本気で母のために涙を流して……。

母親の死に様を通して、母がいかに本気で物事や周囲の人に向き合っていたかという生き様を見ました。僕自身が大きく変わった、きっかけだと言えますね。その3日後、休みがちだったラグビー部の練習に参加しました。それからですよ、ラグビーに真剣に取り組むようになったのは。

大きなターニングポイントでしたね。

母から学んだことでもあり、今の指導にも生きているのは「自分が頑張ることで人が幸せになる」という発想を持って取り組んだ時、人間は一番力を発揮できるということです。これは脳科学的にも実証されています。人が能力を発揮するのは「やれと言われたから、やらなきゃ」という義務感が一番レベルが低く、次は「自分のために頑張る」 、最も力を発揮できるのは「人を幸せにするために頑張る」であるということをつくづく実感しています。

今現在、副校長の立場で心がけていることも、その価値観に共通しますか?

そうですね。具体的には、生徒の表情を見ながら“仮説を立てる”ことを実践しています。朝、機嫌が悪い生徒がいたら「親やガールフレンドと何かあったのかな」と、まず想像してみる。そして、仮説に合う適切な言葉を頭の中にいくつも並べた上で、生徒に声をかけます。生徒は「どうして僕の悩みが分かったんですか。先生は魔法の言葉を持ってますね」と驚きます。

僕にしてみれば、学校にいる間だけでなく新幹線に乗っている時間も、車に乗っている時間も、常に生徒の顔を思い浮かべながら仮設を立てていますから、生徒が言うところの“魔法の言葉”が生まれるのだろうと思います。実際には下手な鉄砲を数撃っているだけなのですが・・・。

学校全体の活性化のために、他に実践していることはありますか?

週3日しか部活ができないという校則を生かし、それ以外の日に委員会や補習、そして“ゼミ活動”を実施して、生徒が色んな指導者や先生達と接する機会を作りました。たとえば、大学で俳句部部長をやっていた先生が実施した、歌詠み会。生徒が約50人も集まるほど大盛況で、その後、俳句の賞を取った生徒もいますし、NHKも取材に来たんですよ。

ゼミ活動の主な狙いは、生徒が持っている良い部分を引き出すことです。部活なら部活だけ、クラスならクラスだけの環境に終始してしまうと、その環境の中にいる指導者としか出会うことができません。ただ、その指導者がすべての生徒の魅力を引き出せるかというと、必ずしもそうとは限らないんです。指導者の中には、やんちゃな生徒のケアが得意な人もいれば、おとなしい生徒の良い面を引き出すのが得意な人もいますから。

部にも学校にも、ビクトリーカルチャーが芽生えてきましたか?

まだまだですが、少しずつ芽生えつつあります。他の部活でも全国大会に出るような結果も出てきましたが、学業の方でも目覚しい結果が出はじめています。生徒の中にも、キャラが立ってきたのでしょうか。

色んな改革に挑み、約11年で寮の舎監から副校長に昇り詰めたとあれば、周囲からの風当たりも強いのでは?

僕の全ての発想は“Win-Win”精神。たとえば、新しい行事を考えたとして、学校のスケジュールは忙しくなるけど、現場の先生たちは楽しんでる、生徒も親御さんも楽しんでいるのであれば誰も文句は言えないですよね。

ラグビー部が強くなり始めた頃、やっかみの声も聞こえましたが、それでも僕が信じる道を突き進むことができたのは、ラグビー部の授業態度の悪かった生徒たちが挨拶をするようになり、自分の人生に向き合うようになったからです。ただ理想を並べ立てるだけの熱血先生では、生徒も先生もついてこなかったでしょう。

無い無い尽くしの環境の中でのラグビー部の躍進は、日本の競技スポーツ界においては信じられないことの連続かもしれませんが、環境を変えられないならば、発想を変えるしかない。そもそも、限られたグラウンドの中の練習だけでうまくやろうっていうほうが、むしろ無理がある話で、24時間365日をどう使うかを考えないと。それに、やはり立ち返る場所の大前提が、勉強もスポーツも“人間力”をあげるということなんです。例えば仕事であれば、単に技術を磨くことだけじゃなく、その先にある顧客が何をしたら喜ぶかっていうことが分かった上でやれる人間かどうかが大事なわけです。教師でいえば、生徒が家に帰ったときにどう生活しているかまでイメージして指導しないといけないわけです。
僕がプロとして特に考えているのは、自分自身が得意じゃない分野に対してどうアプローチするか。僕が得意じゃない分野であっても、生徒に対して、「この子の得意な部分はどうやったら活かせるかな?」と考えています。学生時代から自分自身が凡人だったからこそ持てた、“プロデュースする視点”ですね。

今後のビジョン、やりたいことは?

2,3年で強いラグビーチームを作ることが、そもそもの私の目的ではなかったと申したように、学校全体のプロデュースを任されている今も、打ち上げ花火的な短期の改革には目を向けていません。じっくり時間をかけて、おそらくあと7,8年がかりでソフト面とハード面が全て揃うのかなとイメージしています。「ラグビー部を良くすることで学校を良くする」ということは、全国さまざまな学校で取り組まれてきたことだと思います。管理職となった今、私は逆に、静岡聖光学院で「学校を進化させることで、ラグビー部も躍進させる」というアプローチを考えています。学校を進化させていくには時間がかかりますが、結局全部一歩一歩しか進めないんです。経営側の仕事を任されたのも運命ですね。こんなはずじゃなかったんだけど、逆にこんなはずのとおりの人生なんて無いですから。自分は“課題解決型”の人間を育てたいっていつも言っているぐらいだから、まずは僕自身が、そのときそのときの課題に対して向きあえる人間でないとといけないと思っています。

あなたの“つくばウェイ”とは?

情熱だけに偏らず、道筋を立てて論理的に考えることを学びました。それと、すぐ隣りにオリンピックや世界大会に出場したなど、“ビクトリーカルチャー”を持っている学生がいることは、筑波大生にとって大きなアドバンテージだと思います。これこそが「筑波には王道がある」と確信している部分です。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

筑波にあるカルチャーは他の大学では絶対に手に入らないので、4年間でしっかり体感して欲しい。まずは自分だからこそできることを見つけて、王道であるからこそ、それプラスアルファをやるっていう強い意志を持って欲しいですね。そうすることで自分も成長し、筑波で育ち、なおかつ将来、筑波に貢献できる存在になれるのではないかと思います。

プロフィール
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星野 明宏(ほしのあきひろ)
1973年生まれ。東京都町田市出身。中学1年からラグビーを始め、神奈川の名門桐蔭学園高校から立命館大学へ進学。大学3年時、創部史上初の全国大学選手権に出場し、4年時には副キャプテンを務める。卒業後は、(株)電通へ入社し、スポーツビジネスのプロデューサーとして活躍。2003年、同社を退社。筑波大学大学院へ進学し、ラグビーのコーチングを学ぶ。2005年から静岡聖光学院高校ラグビー部顧問、2007年には監督に就任し、3年で創部史上初の全国大会出場を果たす。2014年から中学・高校の総監督に就任するとともに、常務理事・副校長として学院の経営全体に関わる。
基本情報
所属:静岡聖光学院中・高等学校
役職:副校長 学校法人静岡聖光学院常務理事
出生年:1973年
血液型:O型
出身地:東京都町田市
出身高校:桐蔭学園高校
出身大学:立命館大学
出身大学院:筑波大学大学院
所属団体、肩書き等
  • 日本ラグビーフットボール協会 ユースコーチ
  • U17ラグビー日本代表監督
筑波関連
学部:筑波大学大学院
研究室:ラグビーコーチング研究室
部活動:ラグビー部テクニカルコーチ
住んでいた場所:桜(スーパー・まるもの裏です)
行きつけのお店:収入が無かったので外食はしませんでした。
プライベート
ニックネーム:特にナシ
趣味:これといった趣味が無くて困っています
特技:凡人なので特技もありません
尊敬する人:両親
年間読書数:20冊程度
心に残った本:特にナシ
心に残った映画:ニューシネマパラダイス
好きなマンガ:梶原一騎原作のマンガ
好きなスポーツ:プロレス、格闘技全般
好きな食べ物:ラーメン、鍋
嫌いな食べ物:パクチー
訪れた国:6カ国
大切な習慣:睡眠をしっかりとる
口癖は?:あとはよろしく!
座右の銘
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