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ドイツのブンデスリーガでチームの昇格に貢献。裏方として、さらなる高みへ

Sportsperson
2025/01/20
インタビュー
  • 188
キットマネージャー
神原健太
(体育専門学群・2010年)

幼少時代から「サッカーに関わる仕事がしたい」との思いを胸に秘めていた。筑波大学では蹴球部に所属しながら、学連でも活動するなど多忙を極めたが、一歩ずつ着実に夢を叶えるための土台を築き上げた。今はドイツ1部リーグで裏方として活躍。新たな目標、そして人生をかけて成し遂げたい夢を吐露してくれた。

日本で順番待ちをするぐらいなら、海外に出てみよう

現在のお仕事について教えて下さい。

ドイツのブンデスリーガ1部のザンクトパウリというチームで、ホペイロとして働いています。ホペイロというのは日本語で用具係のことで、チームで使う用具の管理をするのが主な仕事です。2017年3月にドイツに渡ったので、もうすぐ丸8年になります。

具体的な仕事内容は?

選手やスタッフが使っている練習着の洗濯や、選手のスパイクをキレイにしたり、管理をすること。それ以外にも試合で使う用具まわりのことは何でも、準備と運搬、片付けを担当しているので、何でも屋と言えば何でも屋なのですが(笑)。細かく仕事内容を挙げればキリがないぐらい扱うものは多岐に渡ります。

なぜ、ホペイロになろうと?

小さい頃からサッカーをしていましたが、プロ選手ではなく、チームをサポートする仕事がしたいとずっと考えていました。じゃあ自分に合っている仕事は何だろう?と考えた時に、性格的にホペイロの仕事が向いているんじゃないかと。
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今、ドイツで働いている日本人はどれぐらいいるのですか?

ブンデスリーガ1部でホペイロとして働いているのは、僕以外にいませんが、日本代表の分析スタッフだった佐藤孝大(つくばウェイvol.175で紹介)は、ブンデスリーガ1部のキールで働いています。

それと、フランクフルトに1人、鍼灸師として働いている日本人がいるのと、3部リーグに理学療法士の方がいます。僕が知る限り、日本人スタッフはそれぐらいですね。

ドイツに渡る前に、日本でもホペイロとして働いていたのでしょうか。

日本にいた頃はチームマネージャーという立場で、用具だけではなく、チームのサポートをする役割でした。

2014年に大学を卒業して、2年間はFC岐阜、その後の1年間はカマタマーレ讃岐でチームマネージャーとして勤務して、ドイツに来てからは完全に用具係、ホペイロです。

ドイツと日本を比べて、いかがですか?

裏方で仕事をしている人に関しては、日本人の方が質が高いと感じますね。日本人は細かい仕事をさせたら天下一品です。

日本で順風満帆だったにもかかわらず、なぜドイツにいこうと?

ずっとJ1のクラブで働ける機会を伺っていたのですが、J1で働くにはタイミングや運、コネクションが必要で、自分の実力だけではどうにもならない現実がありました。自分に順番が回ってくるのを日本で待つぐらいだったら、まだ若いし、海外に行ってみようとパッとひらめいて。それからヨーロッパにいく可能性を探り始めました。

イギリスは就労ビザを取るのが難しいだとか、スペインは経済的に不安定だとか。色々分かってきた中で、ドイツにしようと。

なぜドイツが良いと?

ドイツには日本人選手が多く在籍しているので安心感がありましたし、長く学生ビザで滞在できるので、語学を勉強しながら就職先を探せると思ったんです。

絶対にドイツが良かったわけではなく、現実的に調べていく中でドイツに落ち着いたという感じですね。

ドイツに渡る前から、長期的なプランだったのですね。

1~2年で目標が達成できるとは思っていませんでしたから、少なくとも5年、30歳になるまでにブンデスリーガ1部のクラブで働きたいと目標を設定していたんです。

ドイツに来てから、早くそこにたどり着こうと必死にやってきて、今、ドイツ8年目にしてブンデスリーガ1部のクラブで働く、という目標を達成することができました。

ドイツでのキャリアについて教えて下さい。

ドイツに渡って4ヶ月目に3部のイェーナというクラブに拾ってもらい、そこからドイツでのキャリアがスタートしました。

その3年後に2部のドレスデンというクラブに移ったタイミングで、ドレスデンが2部から3部に落ちてしまったんですけど、そこから1シーズンで2部に昇格することができて。これが自分にとって大きな成功体験と言いますか、ホペイロとして1つ上のステップに上がれた実感がありました。

海外でチームの昇格に貢献できたことは、すごい経験ですね。

はい。とても印象に残る経験になりました。そしてドレスデンで2年半働いた後、今のザンクトパウリに移りました。

ザンクトパウリで印象に残っていることは?

昨年は2部からスタートして、ファビアン・ヒュルツェラー監督(現 ブライトン監督)のもと、2部で優勝して1部に昇格。ザンクトパウリが最後に1部だったのは2011年シーズンでしたから、ホームのスタジアムに集まった3万人のファンと、みんなで喜びを分かち合うことができたのは、今でも忘れられない出来事です。
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海外で昇格が決まると、ファンがグラウンドになだれ込んでくる映像を観たことがあります。

はい。みんな興奮していますから、誰も止められないといった感じですね。押し寄せてくるファンを制止してしまうと、逆に事故になる可能性があるから、警備員がグラウンドへの扉を開けてしまうんです(笑)。ピッチは人の山になって、選手や監督がもみくちゃにされていました。

海外ならではの盛り上がりですね。

日本では経験できないことですよね。チームの1部昇格に携われる機会もなかなかないので、貴重な経験だったと思います。

ドイツでの暮らしはいかがですか?


とても暮らしやすいですね。日本では週に1回休みがあるかないかという環境で働いていましたが、ドイツは自分の時間を大事にする国民性なので、休みがしっかり取れて、仕事とプライベートのバランスが取れています。

ただ、便利さで比較すると圧倒的に日本の方が便利です。夜中までコンビニが空いていて、電車は時間通りに来る。公衆トイレもキレイで、ウォシュレットまで付いてますから(笑)。

海外に出て改めて日本の良さを知ることができましたし、ドイツの良さも知ることができて、良いとこどりができていると思います。

ドイツで一番大変だったことは?

言葉ですね。ドイツにいって本格的にドイツ語を勉強し始めたので。最初の頃は打ちのめされました。

語学学校で他の国の生徒と肩を並べて勉強していた時、読み書きは僕の方ができるし、文法や単語の知識も豊富なのに、喋り始めたら他の生徒の方が喋れるんです。そのギャップにメンタルがやられてしまって……。

よく言われるのは、日本人は完璧に喋ろうとし過ぎてしまうとか。

その通りですね。それが大きな壁でしたけど、仕事をし始めて喋らざるを得ない状況に置かれてからは、喋る能力がどんどん伸びて。今は日常生活や仕事の面で全くストレスを感じることなく過ごせています。

蹴球部と学連をかけ持ちし、多忙を極めた4年間。最後にIリーグに出られたことは、最高の思い出

筑波大学に入った経緯についてお聞きします。まずは、サッカーを始めたきっかけから。

小学2年生の時、体力向上のために、親がサッカー教室に連れて行ってくれたことがきっかけです。それから中学、高校、大学でもサッカーを続けましたが、先ほども言った通り、プロサッカー選手になりたいと思ったことは一度もなくて。ただサッカーが好きで、ずっとサッカーに関わっていたい、その一心でした。

たまたまサッカー教室に連れて行った親は、まさか僕がずっとサッカーを続けて、サッカーに関わる仕事をするとは思いもしなかったでしょうね(笑)。

なぜ筑波大学を目指したのでしょうか。

サッカーに関わる仕事がしたかったので、それを軸に大学を選びました。中学か高校の時に、テレビ番組で浅井武先生のボールの研究を観て、筑波大の体育専門学群は日本のトップクラスだと知っていたので、一般入試で受けて現役で合格しました。

大学時代はどんな生活でしたか。

サッカー中心でしたね。蹴球部で練習をしながら、関東大学サッカー連盟(以下、学連)でも活動していたので、つくばと、学連のあるお茶の水を行ったり来たりしながら、週末は学連の試合を運営して。

もちろん勉強をおろそかにしないよう学業にも取り組んでいたので、とても忙しかった4年間でした。
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文武両道ができる環境だったのですね。

そうですね。ほとんどの体育専門学群の学生は一般入試で入ってきますから、勉強にも熱心な人が多いですし、幅広くスポーツに関する勉強ができたのは他の大学にはない、筑波大の強みだと思います。

それと、つくばは東京ほど遊びの誘惑がありませんから、自分のやりたいことに集中できる良い環境だと思います。

一番の思い出は?

週末は学連の試合運営のため、蹴球部の試合に参加できないことが多かったのですが、大学4年次、最後の最後でIリーグ(インディペンデンス・リーグ)の試合に出場することができたことです。

ずっと一緒に過ごしてきたチームメイトと試合に出られたこと、チームとして戦えたことはすごく印象に残っていますね。

筑波大学に行って良かったと感じることは?

筑波大で勉強できたこと、蹴球部で活躍できたことは今の自分のベースになっています。大学生活を通じてサッカーだけじゃなく、色んなスポーツに関わる人とのつながりができたのは、筑波大にいったからこそ。筑波大じゃなかったら今の自分はないと思うぐらい、筑波大にいって良かったと思います。
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では今後の目標について教えて下さい。

先ほど、今のチームがブンデスリーガに昇格した話をしましたが、ドイツに来る前から目標に掲げていた「ブンデスリーガで働く」ことが達成されてめちゃめちゃ嬉しかったのと同時に、自分の人生を考える大きなきっかけにもなったんです。

「僕の人生はまだ長い。これからどうしようか」と。

新しい目標とは?

ドイツに来て8年、楽しいこともあったけれど、苦しいことやしんどいことがたくさんありましたから、外国人選手のサポートをすることで、これまでの経験が生かせるんじゃないかと考えています。

そのために、フランス語を勉強しています。週に1回オンラインレッスンを受けたり、今のチームのフランス人選手とフランス語で会話したり。フランスはドイツの隣りなので、フランスから選手が移籍してくることも多いですから。

ドイツ語の次は、フランス語。ものすごい向上心ですね。

日本語はもちろん、ドイツ語と英語はコミュニケーションに問題ないレベルなので、あとはフランス語が習得できれば胸を張って「4ヵ国語が喋れます」と言えますよね。それが他の人にはない、自分の強みになると思っています。

では最後に、人生で成し遂げたい夢とは?

日本のサッカーに貢献して、自分のサッカー人生を終えたい――これは、ずっと考えていることです。具体的に何ができるかは模索中ですけど、日本で育って、日本のサッカーで育ってきましたから、いつか日本のサッカーに恩返しをしたいですね。

あなたの“つくばウェイ”とは?

やはり常に学び続けるということではないでしょうか。もちろん勉学という面での学びもそうですが、尊敬できる方々の生き方や考え方を学び続けるというのも、自分の成長に常に繋がるものだと思います。今の自分があるのもその方々の存在のおかげだと思うので、それに感謝しつつ、いつか自分が誰かにとってのそういった存在になれるようこれからも頑張っていきたいです。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

筑波大の学生、特に体育専門学群の学生は目標を持っている人が多いと思うので、自分のやりたいことを1つ、貫き通して欲しいですね。そして「やり切った!」という気持ちで大学生活を終えて欲しい。それが、その先の道につながるのではないかと思います。
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プロフィール
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神原健太(かんばらけんた)
1991年、香川県出身。幼い頃からサッカーに携わるなかで、チームをサポートする仕事がしたいという思いからホペイロの道へ。大学卒業後、Jリーグで3年間勤務したのち、日本でこのまま順番待ちをするぐらいなら海外に出てみようと決意。ブンデスリーガ1部のクラブで働くことを目標にドイツへ。昇格や降格を繰り返しながら当初の目標を達成した今、外国人選手のサポートをするという新たな目標を通して、今後も日本サッカー界に貢献していく。
基本情報
所属:FCザンクトパウリ
役職:キットマネージャー
出生年:1991/4/23
血液型:A
出身地:香川県
出身高校:香川県立高松高校
出身大学:筑波大学
筑波関連
学部:体育専門学群
研究室:体育スポーツ経営学
部活動:蹴球部
住んでいた場所:天久保2丁目
行きつけのお店:三水
プライベート
ニックネーム:かんちゃん
趣味:ギター、語学学習
尊敬する人:Fabian Hürzeler
年間読書数:数冊
好きなマンガ:ハイキュー
好きなスポーツ:サッカー
好きな食べ物:餃子
嫌いな食べ物:キウイ
訪れた国:ドイツ、オーストリア、イギリス、スペイン、トルコ、フランス、ベルギー、オランダ、エストニア、スウェーデン、フィンランド、チェコ
大切な習慣:早寝早起き
口癖は?:Alles gut
座右の銘
  • 継続は力なり

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