日本人として初めてメキシコ代表のコーチに就任した西村氏。常に劣等感がつきまとっている指導者人生という。筑波で過ごした2年間は人生の中でも最も濃い2年間であり今も原動力になっている。逆境を好み、成長の機会に変えて来たそのメンタリティに迫る。
仲の良い幼馴染がいて、その子の家がサッカー一家だったんです。
遊びでずっとサッカーはやっていて。幼馴染がやっていた影響で小学校2年生の時に地元の少年団で始めました。
そこからは一貫してサッカーを続け、選手としては大学までやっていました。
高校生の頃に、自分の実力ではプロになれないことは分かって。そこからプロの指導者になりたい、と考えるようになりました。高校3年生の時に、高校の先生に相談したら、「大学に行きサッカーを続けながら教員免許をとって、教員として指導する道も視野に入れたらどうか?」とアドバイスされて地元の天理大学に進学しました。でも、教育実習で教員という職業の大変さを目の当たりにして…。自分のやりたいことは“プロコーチ”であり、“サッカーの指導”なんだと自覚しましたね。そんな時に、高校時代にお世話になった外部コーチの方から、筑波の大学院に進学した方が、僕の夢への道が開けるのではないか、とアドバイスをいただいて。色々と情報収集する中で、筑波に行ったら自分の夢に近づける、と思ったので進学することにしました。
例えば、当時の自分には人脈もサッカーの知識も、コーチングスキルも皆無でした。筑波では自分に足りないものを学べ、吸収できる環境があった、ということです。高いレベルで専門的にサッカーのコーチングが学べると感じましたし、すごい人たちが集まっているので一気に人脈が広がるな、と。目の前の選手の夢を実現するためにパッションだけでなく、知識を持って論理的に指導できる指導者になりたかったんです。
サッカー研究室に所属していたのですが、同じ研究室の仲間のレベルの高さに圧倒されましたね。
内部から進学したのは岡崎篤(つくばウェイvol.6で紹介)大島琢(つくばウェイvol.28)見汐翔太(JFAアカデミー女子監督)中下征樹(JFAテクニカルスタッフ)と、すごい4人で。
外部からのメンバーもそれぞれサッカーで有名な大学出身でサッカーの知識も自分よりある、自分と比べて一歩先を行っているな、という。
僕はここで必死に頑張らないと追いつけないと入学した瞬間に思いましたね。
筑波大学蹴球部には当時7チームあり、7軍のチーム、C3を学生コーチとして中下と僕で見ることになりました。この1年間は33年の人生の中で一番難しさを感じた1年です(笑)
大きく3点あるんですが、まず、練習環境です。チーム数が多くC3は早朝5:30からしかグラウンドが使えなくて。しかも、サッカー場は使えず、多目的グラウンド。サッカーゴールにネットが張られていないような環境で、満足な練習ができなかった。
チームづくりも苦労しました。一番下のチームということで選手のモチベーションもバラバラで本気で上に上がりたくて頑張っている選手もいれば、そうでない選手も。大学生相手に一度も勝ったことがない、というチームでしたので、想像の遥か上をいく大変さでした。自分自身も新しい環境に身を置いたばかりで生活に慣れていないというのも重なって今思い返してもタフな1年でしたね。
コンビを組んだ中下と色々悩みながら試行錯誤したことはいい経験になっています。
最終的には選手たちも大きく成長して、大学生に勝てるようになったんです。初めて大学生チームに勝った、東京成蹊大学に勝った時の嬉しさは忘れられません。
1番の思い出ですし、今の僕の原動力にもなっています。
これに勝てば筑波B1史上初の全国大会、という試合で、会場もいつもと違い大きなスタジアムで。自分自身とても緊張していたのを覚えています。
結果は負けてしまい、全国大会出場には届きませんでした。試合が終わった時に、大島くんに「いつもの亮太らしくなかったな」と言われたんですが、それほど自分は緊張してしまっていたと気づきました。翌年にIリーグで筑波のB1が優勝したと聞いて、嬉しいと同時に悔しさが再度込み上げてきましたね。
あの時の気持ちはサッカー人生の中で1番濃く自分の中に刻まれていて、あの経験があって、今の自分の指導者としてのあるべき姿が明確になりました。
大事な試合で勝てる準備がしっかりできる指導者になりたい。どんなしんどくても、あの時のことを思うと踏ん張れる、自分の原動力になっています。
日墨交流計画(現:日墨グローバルパートナーシップ計画)という事業で1年間メキシコに留学をすることにしました。選手としてトップレベルを経験していないという劣等感を補うためにどうすればいいのか考えた結果、もっと勉強しなくては、と思い。他の人が行っていない場所に行って学びたい、と思い交流計画に応募したのがきっかけです。当時、日本ではメキシコサッカーには学ぶことが多いという話題もあり、サッカーを学ぶ上でスペイン語圏というのも決め手でした。
交流計画の間は1年間奨学金をもらいながら語学とサッカーを学べ、とても充実していました。午前中は語学学校に、午後はクルスアスールというチームの5軍でのサポート活動をさせてもらいました。行ってみてわかりましたが、メキシコのサッカー界は閉鎖的な部分も残っていました。もちろん語学の問題もあり、ここでのし上がるのは難しいな、という印象でしたね。
元々はメキシコにこんなに長く滞在する予定はなかったんです(笑)
交流計画が終わったら、アルゼンチンなど他のスペイン語圏の国で学ぼうと思っていて。
でも、メキシコで活動するうちに、日本人がのし上がった前例がないということは自分が最初になれる。前例がないからこそ、ここでやったら面白いんじゃないかという思いが生まれてきて。
その誰も見たことがない景色を見るためにその時その時を必死に生きて来た感じです。
有難いことに。ここまでしんどいことも多かったですが、縁があって代表によんでもらえました。以前ケレタロ(メキシコ1部)で一緒にコンビを組んでいた監督がU23の監督に就任して、有難いことに僕を評価してくれていて。また一緒にやりたい、と。2020年東京オリンピック出場を決めたいです。
全然順風満帆じゃないですよ。
就労ビザが出ず、生活的に厳しかった時期もありましたし、メキシコ1部のチームを解任になって1年間無所属という厳しい時期もありました。日本人ということでバカにされて悔しい思いをしたこともたくさんありますし。決して平坦な道ではなかったです。
メキシコまで来て学ばせてもらっていて、中途半端に帰ったら応援してくれている人たちに合わせる顔がないし、自分を許せなくなる。 “意地”ですね(笑)
文化の違いだと思います。メキシコサッカーで外国人監督、特にヨーロッパから来る人はこれで失敗することが多い。ですので、文化の違い価値観のすり合わせは大事にしています。
日本には日本特有の文化があり、メキシコはまた違う。そんな中チームの目標に向かってやるべきことをやるように導いて行くには相手の文化・価値観へのリスペクトが必要です。価値観を押し付けて対立してしまっては結果は出せませんから。
W杯に指導者として出場です。もちろん愛着のあるメキシコ、もしくは生まれた日本なら本望ですが国は問いません。UEFAチャンピオンズリーグも出場したいです。日本にはいつか帰って日本のサッカー界に貢献したいという気持ちはずっとあります。
逆境に立ち向かう姿勢。マイナスからのスタートでいかに自分を伸ばせるか。今に集中して120%頑張れるか。 そういったマインドは筑波で磨かれたと思っています。
筑波大学はハード面ももちろんですが、特にソフト面の環境がものすごく良い。これは外から来た自分はすごく感じた部分です。すごい高いレベルで情熱を持った人すごい知識のある人が集まっているので自分を磨くチャンスがいっぱいあります。自分よりすごい人がいる環境に身を置くようにすることで自分が成長する機会があります。 学生時代は短い。全力でその環境を活かしてください!
所属: | メキシコサッカー協会 |
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役職: | メキシコU23代表 コーチ |
出生年: | 1985年 |
血液型: | A型 |
出身地: | 大阪府柏原市 |
出身高校: | 大阪府立大塚高校 |
出身大学: | 天理大学 |
出身大学院: | 筑波大学 大学院 |
学部: | 人間総合科学研究科 |
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研究室: | サッカー研究室 |
部活動: | 蹴球部 |
住んでいた場所: | 春日3丁目 |
行きつけのお店: | まんぷくや |
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