大学時代は、筑波バレーの黄金時代を担うミドルブロッカーとして大学選手権6連覇に貢献。在学中に選出された日本代表では、自身の身長にちなんで“ヤマコフ205”の呼び名で親しまれ、2008年の北京五輪に際して16年ぶりに出場の切符をもぎ取った。酸いも甘いも味わった日本代表での経験、そして恩師との出会いが“勝ちにこだわる”彼の姿勢を形成しているようだ。
3歳から水泳、サッカー、陸上とスポーツに親しんでいて、とにかく体を動かすのが好きでしたね。好奇心旺盛な子供だったので、スポーツ以外にピアノ、習字、カルタといった習い事を、自らやりたいと親にお願いして教室に通わせてもらいました。バレーとの出合いは、小学校3年生の終わり頃。近所の友達がバレーをやっていたので、ついていったことがきっかけです。
中学・高校時代にチームとして全国大会に行ったことはないんです。高校3年生の時には高校選抜のメンバーとして中国遠征に行きましたけど、それは身長だけで選んでいただけたんじゃないかと思うほど、当時は決して目立った活躍をした選手ではありませんでした。春高バレーなんて、出場するものではなく観戦しに行くものだと思っていましたから(笑)。
高校時代、医者になる夢を持って勉強していましたが、進学した錦城高校は進学校だったので、だんだんと勉強が追いつかなくなって。周囲との差を感じ始めた頃、筑波大学からバレーボール選手として推薦の話が来ていると聞かされました。その他にも推薦の話はあったんですが、漠然と「国立大学に行きたい」と思っていたので、筑波大学に進学することにしました。
高校まで、それほど部活に力を入れていなかった僕と比べて、筑波大の先輩も同期もみんな、ずっとゴリゴリの体育会系の中でバレーをやってきた人ばかりでした。先輩、後輩の上下関係にも慣れていなければ、筑波での練習は想像以上にハードでしたから、最初の頃は「筑波大学に入学して、失敗したなぁ」と思いましたよ(笑)。
競技レベルは全然みんなに追いついていなかったんですが、当時の監督であった都澤(凡夫)先生が、僕のことを「育てよう」という気持ちを持って下さったようです。入部した当時は、全日本大学選手権で3連覇を賭けていた年だったので、先輩方の足を引っ張らないように必死で食らいついていきました。
バレー部は少数精鋭で構成されていて、推薦は多くても1年で3人だけ。だから、一般入試で入ってきた選手の活躍がキーになるんです。彼らは筑波大学のバレー部に入部したくて、一生懸命勉強して入学しているだけあって、たとえレギュラーとして試合に出られなかったとしても、ワンポイントサーブやレシーブ要員としてコートに入った時には「絶対に取ってやる!」という気迫がすごい。そして、そのワンチャンスをつかみ取るための努力を、日頃から積み重ねていました。
試合に出る機会がなかったとしても「コートの外で、チームのために役立てることはないだろうか」と、いつも考えていた彼らの姿を見ていると、僕のように推薦で入ってきた選手たちは「負けられない」と奮起させられましたし、その相乗効果で6連覇を成し遂げられたのかなと思います。
強烈に印象に残っているのは、やはり一般で入部した2人です。そのうちのひとりは、6連覇がかかった大学選手権決勝前に坊主頭にしてきたんですが、それだけでも十分気合いが伝わるのに、少し残した髪の毛で“V6”という文字まで作って(笑)。思わず笑っちゃうんですけど、でも、そこまでの気合いというのは試合でも発揮されるんです。僅差で競っている場面が訪れた時、彼の気迫のプレーに何度も救われました。試合に賭ける思いが伝わって、鳥肌が立つこともありましたね。
そういう選手は、社会人になってからもすごく活躍しています。ひとりは教員としてバスケットボールの顧問を務め、チームを全国大会に連れて行っていますし、もうひとりは海外でバレーボールの勉強をして、帰国後は全日本女子バレーボールチームのコーチとして頑張っています。
キャプテンとして臨んだ最後の大学選手権ですね。あの時は6連覇がかかって、ものすごくプレッシャーを感じていたので、漠然とは印象に残っていますが、実は、あまり記憶が残っていません。
それまでの5連覇という記録は、僕ひとりの力じゃなく、先輩たちが勝ち続けてくれたおかげで築けている記録です。それに当時は、“筑波バレーの黄金時代”とも言われるほど圧倒的な強さを誇っていましたから、「もし僕が連覇を途絶えさせてしまったら……」と考えると本当に怖かったですし、その不安をかき消すために「絶対に勝たなきゃいけない」との一心で、頭の中が真っ白になるほど緊張しました。
なんとか6連覇を達成できた時は、嬉しさよりも、ホッとした気持ちのほうが大きかったですね。あの6連覇を達成できたことは、その後のバレーボール人生においても、すごく自信になりました。
キャプテンに就任して1ヶ月後、ストレスで胃がボロボロになるほど体調を壊した時に気付いたことがあります。「頑張り過ぎてはいけないんだ」と。自分ひとりで出来ることなんて、たかが知れているし、周囲の意見に耳を傾けたり、各々の判断に委ねてもいい。キャプテンだからと気負い過ぎて自分の実力を発揮できなければ、結局、チーム全体の雰囲気に影響してしまいます。この時の経験は、サントリーサンバーズでキャプテンを務めた際にも教訓として生かされましたね。
まず2003年、大学4年生の時に初めて召集されましたが、2004年の最終予選で敗退してアテネ五輪に出場することはできませんでした。あの時は、すごい能力の選手たちが揃っていたにもかかわらず、僕も含め若いメンバーが多かったので、まとまりきっていなかったように思います。コーチ側の「若手を長期間で育成しよう」という狙いはあったと思いますが、いかんせん若いですから、お酒を飲み始めたら次の日のことを気にせず朝まで飲んだりして、とにかくヤンチャでした(笑)。
主にバレー談義ですね。お酒を飲みながら「この前の試合の、あの場面でこういうフォローをして欲しかった」と腹を割って話すことで、相手が「じゃあ、次はフォローするから、その代わりお前決めろよ」、そして僕も僕で「よし、絶対決めてやる」と自覚が芽生えます。お互いに責任を持たせる会話をしておくと、これが次のプレーに影響してくるんです。
北京の頃には僕たちも年をとって無理な飲み方はしなくなりましたし、やはり“関係性”というのは勝つために重要な要素でした。北京に出場できた要因を振り返ってみると、あの時はアテネの最終予選に挑んだメンバーがほとんど残っていて。アテネの最終予選で負けた悔しさを知っていたからこそ、勝ちにこだわることができたのかなと。同じ経験と感情を抱いたメンバーと4年間、一緒に生活をしながら本当の仲間になれたことで北京五輪に出場することができたのだと思います。
アテネ、北京の頃とはずいぶんメンバーが変わって、ロンドンを目指す時には僕が一番年上ぐらいの立ち居地に。ゼロから新しいものを作り上げていく中で、代表としての経験が長かったこともあり「キャプテンとしてチーム作りに貢献したい」という思いが強かったのですが、別のメンバーがキャプテンに任命されました。
同じ頃、サントリーのキャプテンに就任しましたが、1年でキャプテンから退くことになり、モチベーションは下がっていくばかり……。そんな状態が1,2年続いて、嫁にも初めて「バレー辞めたい」と愚痴をこぼしましたし、日本代表でも実力を発揮することができず。あの頃は僕のバレー史の暗黒時代ですね。
バレーボール教室で子供たちと接する中で、「やっぱりバレーボールが好きだ」と再確認できた時、意識が変わったんです。自分が好きな競技で飯を食わせてもらってるだけで幸せで、キャプテンをやる、やらないなんてどうでも良いことだと。しかも選手としてあと何年できるか分からないことを思えば、残りの競技人生を楽しんだもん勝ちだと思えるようになりました。
1年だけでしたが良い経験でした。実際にキャプテンになって分かったことは、周りの選手を“信じる”ことでチーム作りをする僕のやり方では、時間がかかり過ぎて、すぐに結果が求められる全日本のスタンスには合わないということです。全日本では、もっとグイグイ引っ張っていくキャプテンが必要とされている。でも僕は色んなタイプのキャプテンがいて良いと思うので、僕のやり方を貫こうと実感させられた機会になりました。
これは筑波時代に学んだことですが、団体競技において、全員が仲良くすることは現実的に難しい。それに、選手はそれぞれに「自分が1点を決めて評価されたい」というエゴを持っているから、そのメンバーを365日束ねることは不可能に近いです。ただし、目標にしている大会1週間前にみんなの気持ちがまとまっていなければ、やっぱり勝てません。そのために、それぞれの個性を尊重しながらも、みんなを信じて気長に待つことを心がけています。
筑波大学の監督であった都澤凡夫先生(2015年逝去)ですね。僕がキャプテンになる前までは、突然「今日は練習に行かない」といってお休みされる不思議な先生という印象だったんですが(笑)、キャプテンの立場で毎日先生に練習メニューを聞きに行くようになると、先生がどれだけひとりひとりのことを考えて練習メニューを作っているかが分かるようになりました。それからずっと先生のことを尊敬していますし、いまだに先生の教えが頭の片隅にあります。
大学選手権決勝の朝、最後のミーティングが終わった後に必ずやることがありました。先生が「目を閉じろ」とおっしゃって、こう続けます。「自分の腰に竜を住ませろ。竜がいるイメージを持つんだ。その竜が背骨を通って頭を突き抜けて、昇天させてから、その竜の目を見開かせろ」。そして最後に「君たちがこの竜の眼を書くことが一番大事だ。それが今日の決勝だ」。これはまさに、中国の故事にある「画竜点睛」でしたね。
今も、大事な試合前には必ず実践しています。すると大学4年の時の、あのとてつもないプレッシャーがよみがえってきて「それに比べたら、どんな試合も大したことない」と落ち着くことができるんです。
そうですね。昨年亡くなられた時は「先生のためにも今年(2014/2015年のシーズン)は必ず勝つぞ」と、スイッチが入りました。優勝こそ逃しましたが、久々の準優勝を勝ち取ることができました。
もうひとり、筑波時代に影響を受けたのは、バレーボール部の1年上の先輩です。先輩は僕と同じ2メートルを超える身長で、僕もポジションを奪われそうになりました。素晴らしい選手だったのですが、突然、血液のガンにかかってしまい、大学を退学。療養のためにご実家に帰られました。全日本の試合で先輩の地元に行った際には、応援しに来てくれてもいたんですが、その後、お亡くなりになって……。
先輩のことを思う時、いつもこんなことを考えます。もしも先輩が実力を発揮することができていたら、僕ではなく先輩が日本代表に入って活躍していたかもしれない。予期せぬ病気のために、それが叶わなかった先輩のためにも僕が頑張らなければいけないと。
今、35歳でV・プレミアリーグの最年長プレイヤーとなりましたが、もう一度、強いサントリーサンバーズを作ってチームを優勝に導くことが、これまで自分を育ててくれた先輩方や都澤先生に対してのご恩返しだと思っています。そのためには、出来る限り現役という立場でこれからも頑張っていきたいと思います。
日中は練習して、夜は仲間と集まって酒を飲む。その一方で、卒業までのプランは自分で考えなきゃいけないのですべて自己責任。そうした中から「自立」する心が確立されたと思います。
筑波で何をしたいのか、将来何をしたいのかというビジョンを持って欲しいですね。ひとりでも多くの筑波大生が活躍してくれることを願います。
所属: | サントリーホールディングス株式会社、サントリーサンバーズ |
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役職: | 会社員、選手 |
出生年: | 1980年 |
血液型: | O型 |
出身地: | 東京都東村山市 |
出身高校: | 錦城高等学校 |
出身大学: | 筑波大学 |
学部: | 体育専門学群 |
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研究室: | バレーボール研究室 |
部活動: | バレーボール部 |
住んでいた場所: | 春日4丁目 |
行きつけのお店: | あさひ屋 |
ニックネーム: | ヤマコフ205 |
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趣味: | 読書、ゲーム、映画鑑賞 |
特技: | 集中力 |
尊敬する人: | 父 |
年間読書数: | 20~30冊 |
心に残った本: | 僕らのシリーズ |
心に残った映画: | タイタニック |
好きなマンガ: | 漫画全般好き |
好きなスポーツ: | バレーボール |
好きな食べ物: | 果物 |
嫌いな食べ物: | 海老、蟹(甲殻アレルギー?) |
訪れた国: | パスポート1冊分くらい |
大切な習慣: | 大切な人へきちんと想いを伝える |
口癖は?: | 楽しくやろう! |
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