今夏、劇場公開された映画『きみの声をとどけたい』のキャラクターデザインを手掛けるなど、30年以上の間、第一線で活躍している青木俊直さん。第三学群基礎工学類に入学し、芸術学群の学生などそれまでに出会ったことのないものに触れ、のちにマンガ家の道へ進むことを決意。「筑波大に行かなければ今の僕はない」、そう言い切れるほど実り多い筑波大生活を振り返ってもらった。
当時、センター試験の前身である共通一次試験の5教科7科目の中で英語がとても苦手だったので、理系で二次試験に英語がない大学はないかと探したところ、筑波大ともう1校ぐらいしかなかった、というのが筑波大を目指した理由です。こんなに消極的な選択肢で申し訳ないです(笑)。
筑波大は新設されたばかりの大学で面白そうだし、寮がきれいだという情報も耳にしていたので、東京に実家がある身としては「うちを出られる良い機会かもしれない」と思ったことも、筑波大を志した理由の1つです。今ならTXで東京から通えますけど、あの頃は土浦まで電車で行って、そこからバスを使わないと筑波大には行けませんでしたから。
今でこそたくさん建物が立っていますが、あの頃は森の中にいきなり学園都市が現れるという面白い雰囲気がありましたね。学校全体もまだ工事の途中で、中央図書館もなかったんですよ。出来上がっていく様を見ながら過ごす面白さと、寮での生活が楽しかった思い出があります。
ひどすぎて、ここでは言えないエピソードのほうが多いですが(笑)、僕らの頃は学生みんなが寮生活だったので家族のような感覚で付き合っていました。特に僕が2年まで寄宿していた一の矢は周囲に何もなかったから、とにかく寮で仲間と遊ぶしかない。でもそれが面白くて、カレーを作った時なんかは誰かがそれをベッドにバッとこぼしちゃったり(笑)。そういうくだらないことで楽しんでいたのを覚えています。
勉強はあまり熱心にやらなかったんですけど、小さい頃から絵を描くことが好きだった延長で現代視覚文化研究会というサークルに入って、マンガを描くことに熱中していました。
現代視覚文化研究会は視覚文化に関して全部やろうということで、僕らの時代はマンガを中心に、下の世代ではアニメ、そしてゲーム好きなメンバーが集まったようです。今は声優ファンに特撮ファン、いわゆるオタクと呼ばれる人たちの総合サークルになっているようです。
僕が大学にいた1980年代は、マンガの歴史という大きな意味においてターニングポイントになった、『AKIRA』で有名な大友克洋さんが世に出た頃。多感だった時期に衝撃を受けましたし、それまで知らなかったマンガをサークルの先輩に教えてもらったり。色んなことに影響を受けながら、自分の感性が磨かれていったように思います。
それと、芸術学類の人たちに触れたことも僕に影響を与えてくれましたね。
現在、作曲家としての活躍されている吉川洋一郎さんが大学時代、空間劇場というイベントを1年に一度開催していて、僕が1年の時、彼らが披露した音と光の総合芸術的なパフォーマンスにすごく感動しまして。演劇でもない、今まで見たことのないものを目にし、マンガ以外の新しい世界が広がったんです。
筑波大では時間さえ許せば他の学群で履修することも可能ですから、芸術学群のほうにはたまに顔を出していましたし、同じキャンパス内に芸術を学ぶ人がいたことは大きな刺激でした。
はい、メーカーに就職しました。卒業の段階ではマンガ家としてまだ食べられ段階ではなかったのと、一度社会に出てみたいとの思いもあって。でも結局、やっぱり絵を描く仕事がしたいと思って退社し、筑波大のサークルで一緒だった先輩たちと会社を設立。イラストやCGを作る仕事を請け負っていました。
「一生これでやっていこう」と思ってなくて、特にちゃんとしたビジョンはなく「なんとかなるだろう」くらいの気持ちでした。まだ20代でしたし、勢いがあったんでしょう(笑)。
「運も実力のうち」は僕の座右の銘なんですが、自分でもすごく「ついている」と思うことは多かったです。浮き沈みの激しい業界において、人脈に恵まれたことも今までやってこられた要因だと実感してます。
例えば、フジテレビで放送されていた『ウゴウゴルーガ』に関わらせて頂いたことがきっかけで、それを見た人から声をかけられてNHK Eテレの『むしまるQ』のお仕事を頂きました。そうやって作品を評価して頂き、次はこの仕事、次はこの仕事…とご縁がつながったからこその30年だったと思います。
そう言って頂けるのは嬉しいですね。それが子供向けコンテンツに関わる面白さだと思います。『むしまるQ』は、もう20年ぐらい前の仕事にもかかわらず、最近でも、一緒にお仕事をする若い人たちに「見てました!」と言われると感慨深いものがあります。
その他にも、ポケモン関連の仕事で絵本を書いたり、ポケモンカードのイラストを描いたことで多くの方とつながれた実感があります。
ポケモンが世に出た頃そばで見ていたので、もちろん「ヒットしたら面白いな」とは思っていましたけど、あそこまでブームになるとは思いませんでした。
あれは完全に趣味ですね。誰かに頼まれて描いたわけではなく、純粋にあの作品と登場人物たちが好きでファンレターに書くような気持ちでマンガにしてSNSで発信したんです。
それ自体はお金にならないものでしたが、あとあと、それを見た人がお仕事を下さる流れがあって。それは先ほど言った「運も実力のうち」でもあれば、自ら発信したことがきっかけとなる“種まき”でもあります。運といっても、黙っていたってやってこないからSNSで絵を発表することもそうだし、とにかく自分から動いてみる。
そう、「果報は寝て待て」という言葉がありますけど、寝る前に“何か”をやっておくわけです。そして起きたら何かがやってくるかもしれない。結果を求めて種まきをしているわけでもないんですけど、あとあと仕事につながると、やはり嬉しいですね。
本気で仕事をしている人からしたら、遊んでいるように思われるかもしれません(笑)。
何でしょう…、大変なことを忘れちゃう性格なのであまり覚えていませんが、どんな仕事でも大変なことのほうが多いと思うんです。僕の場合、締め切りに追われて大変だとかはありますけど、どちらかというと人とのご縁だったり、面白い仕事との出会いだったり。嬉しいと感じたことのほうが記憶に残っていますね。
マンガ家やキャラクターデザイナーとして仕事をしますが、自分が描いたキャラクターが大きなポスターとして街中に飾られたときにはやはり達成感があります。知り合いから「ポスター見たよ」と連絡がくることもあるので、自分の作品がどこかでたくさんの人の目に触れるということは本当に特別なことのように感じますね。
筑波大に行ってなかったら、この仕事をしていなかったでしょうね。就職した会社を辞めて会社を起こしたのも筑波大の先輩に出会ったからですし、実はサラリーマン時代にもちょっとした漫画やイラストを描く仕事をしていたんですが、それを頼んでくれたのも大学の先輩。
そして今の感性のベースになっているのは、確実に筑波大での経験や出会いです。今ある人脈は、筑波大で築いた人脈が根っこにあり、そこを中心に広がってきたのだと思います。
そうですね。10代後半から20代最初の人が一番変わる大切な時期を筑波大で過ごしたことで、色んな形に化けられたというか。僕は理科系で入学して、最初はただのマンガ好きな少年でしたけど、芸術系の人から色んなことを教わったことがきっかけとなって今がある。
虫でいうところの“さなぎ”みたいな場所は、まさしく筑波大なのではないかなと。幼虫がいて、成虫になる前の“さなぎ”からどう化けるか、そのための色んな可能性を探れる場所だと思います。
転学が可能なのも良いですね。大学に入って「やっぱり、自分のやりたいことと違った」と思うこともあるわけだし、転学とまでいかなくても、新しく興味を持った他学の授業を聞きに行ける、そういう環境はとても良いと思います。
これといった大きな野心はなく、今まで通り、頂いた仕事をしっかりやること。それを地道に続けていきたいです。
まだ何者でもない“さなぎ”の状態で、色んな可能性を探れる場所。
たくさんの選択肢がある環境の中で、1つのことに決めつけず色んな事にチャレンジして欲しいです。
役職: | マンガ家、キャラクターデザイナー |
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血液型: | A型 |
出身地: | 東京都 |
出身高校: | 都立調布北高等学校 |
出身大学: | 筑波大学第三学群基礎工学類 |
研究室: | 光学 |
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部活動: | 現代視覚文化研究会 |
住んでいた場所: | 一ノ矢→谷田部 |
行きつけのお店: | 三群食堂 |
趣味: | ギター |
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心に残った本: | 「百年の孤独」(ガルシアマルケス)「悪道日記」(アゴタクリストフ) |
心に残った映画: | 最近では「この世界の片隅に」 |
好きなマンガ: | 高野文子の諸作、いしいひさいちの諸作、林静一「赤色エレジー」 |
訪れた国: | 4カ国 |
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