バイオマスエネルギーの研究者である父をはじめ、身内に研究者の多い環境で育った岡田さんは、まるで家業を継ぐような気持ちで筑波大の農林学類に入学したという。ところが、フランスへのインターンシップ経験や就職先での挫折から「私は研究者向きではない」と、ドロップアウト。現在は茨城県にある科学実験施設・J-PARCセンターの広報担当者として、研究とは関わりが少ない人たちにも分かるよう科学を伝えようと奮闘している。
大学受験をした30年以上前、生物を専攻できる大学は、関東の国立大学では数えられるほどしかありませんでした。その中でも、筑波大の農林学類なら学んだことをイノベーションに結びつけられるような気がしましたし、尊敬していた高校の先生が教育大出身だったので、「あの先生の後輩になりたい」という思いで筑波大を受験することにしました。
あの頃、バイオテクノロジーという言葉が次世代のキーワードになっていて、これからはバイオの力で技術革新をしていくんだという雰囲気が充満していたことが1つと、バイオマスエネルギーの研究のパイオニアでもあった父からの影響もありました。
大学3年の時に交換インターンシップのプログラムで3か月、南フランスのニームに滞在したことが一番の思い出ですね。
南フランスは土壌が乾いていてオリーブなどしかできません。その土壌改良や保水性を研究しているグループに配属され、フランスのみならず、北アフリカなどで採取された土壌のサンプルを解析するお手伝いをしたことは良い経験でした。このプログラムに出合えたのは筑波大にいったからこそだと思います。
いえ、当時はフランスまで往復100万円する時代だったので、今のように気軽に海外に行くことはできませんでした。そんな時代に、生物学類の同級生がひと夏、ヨーロッパで一か月バックパッカーの旅をしたと聞き、彼が英雄のように見えて。私にとってインターンは初めての一人旅、初めての海外旅行でしたから、彼に勇気をもらった感じでしたね。
そうですね。フランス人はロジックに議論をすることが好きで、上司も部下もなく誰もが平等に意見を言います。日本人ならではの「どっちでもいいよ」という姿勢でいると、その瞬間、会話から置き去りにされてしまったり、「ちゃんと自分の意見を言いなさい」と怒られたこともありました。
上司に従うことが良しとされる日本の文化とは全く違う環境に身を置けたことは、とても貴重な経験だったと思います。
フランスに行って分かったことは、フランスにいてもどこにいても日常は日常で、自分のやるべきことは日常の中で見つけていかなければいけない、ということ。最初の一か月目は全てがキラキラして楽しかったですが、三か月目になるとルーティン化した生活を体験し、残念ではあるんですけど、そういったことを痛感したんですね。
だから、いつかフランスに戻りたいという気持ちよりも先に、まずは日本で根を生やして自分の世界を構築しようと。将来のことを色々考えた結果、日立製作所の基礎研究所にいくことにしました。
正確には研究員の卵です。日立は10年ぐらい働いてドクター論文にあたる報告書を書くと研究員と呼ばれますが、それまでは研修員という立場で働きます。ノーベル賞候補者だった外村彰さんに代表されるように、会社で研究員を育てる懐の深い会社でした。
日立の20年後、30年後の役に立つ基礎研究をするというミッションで、生体分子のメカニズムに基づき、生体分子自体を使った素子の実現を目指した研究をしようという国のプロジェクトに携わっていました。
ところが思うように結果が出ず、5年後に、そのプロジェクトに参加していた電気労連系の6社のうち私たちのグループだけが落ちてしまって。その時はすごく落ち込んで、全て私のせいだというくらい自分を責めました。あれは大きな挫折でしたね。
広中平祐さんという数学者が“運、鈍、根”がないと研究で成果を出すことはできない、とおっしゃっています。つまり運と鈍感であることと根性がないとダメだと。特に私の場合は、周囲が何を言おうと信念を持って続られる“鈍感”が足りなかったと、その経験を通して実感し、28歳で結婚、1年間の出産休暇後、いったん復職したのですが、やはり退社してしまいました。
当時、今とは違って28歳を過ぎれば売れ残り、でした。クリスマスが12月25日ということにかけて、25歳は売れ残りのクリスマスケーキ、女性は24歳までと言われていたんですよ(笑)。そんな保守的な時代ですから、結婚して出産後の3年間は専業主婦として公園の砂場が職場、のような感じで過ごしていました。
でもその時に、現在の仕事につながるサイエンスコミュニケーターとしての糸口が開かれたんです。
ママ友とお茶をしていた時、昔の仕事の話をする機会があったんですね。そしたら「すごく面白い」という反応があって。「高校時代の生物の先生の話は分からなかったけど、岡田さんの話はすごく分かる!」と。
それがすごく嬉しくて、それが今の広報業務のひとつで、サイエンスカフェというんですけど、講演会という一方的な形式ではなく、カフェのようなところでお茶を飲みながら科学の話をしましょうという活動に結びついています。
はい。ママ友とのお茶会では、パワーポイントなんてありませんでしたから、お茶を飲みながらたんぱく質を色んなものに例えたり、橋田寿賀子さんの描く『渡る世間は鬼ばかり』に例えながら話をしたら、すごくウケが良かったんです。専業主婦って実はすごく好奇心旺盛で、昼ドラやゴシップも好きかもしれませんが、とにかく非日常的なこと、面白いものに飢えている。だから、科学の話でも面白く話せば聞いてもらえるんです。
すぐにサイエンスカフェを始めたわけではなく、まず社会復帰をしようと知り合いに紹介された東大理学部の教授秘書として、週3回働き始めました。伝票処理や先生の出張の手配、あとは先生がやっている学会誌の編集のお手伝いをしていました。
思わなかったですね。秘書として近くで研究者に触れるにつれ、ますます「やはり私には“うん、どん、こん”がない」と実感する日々でしたから。
そして秘書の仕事と並行して、知り合いの紹介でフリーランスライターの仕事を始めました。Medical Tribuneという会社が発行している、町のお医者さんや薬局を回るMRという人たちが読む新聞に、学会でどういう発表があったのかなどを記事にまとめる仕事です。子供がいながらフルタイムで働くことは難しい時代でしたので、これなら家でも出来ると軽い気持ちで始めましたが、これが想像以上に大変で。
医療といっても内科や精神内科など多岐にわたっていて、それぞれの専門用語があるので、それを調べながら記事を書くのは脳内出血しそうなくらい大変。原稿料は良かったんですけど、最初は調べながら書いていたので時給に換算すると500円ぐらいでしたよ(笑)。
土日も働いて、子供にご飯を作ってあげられない日もあったりしながら何とか8年くらい続けたのですが、このままではいけないと固定収入が得られる仕事を探すことにしました。
まずは東大理学部広報室の事務補佐の仕事を皮切りに、理研を経て、現在のJ-PARCセンターの広報にいたるまで、足かけ14年、いわゆるサイエンスコミュニケーターとして仕事をしています。
大学や研究機関の広報というと、昔は研究者が一年に一度、研究の成果を外部の人に一般公開をしたり、講演会をしたりという取り組みに限られていましたが、マスメディアで狂牛病問題や環境問題、試験管ベビーなど社会的な問題が取り上げられるようになり、一般の人の関心が高まったことを受けて、もっと積極的に研究の成果や研究活動を広報していこうと。その役割をサイエンスコミュニケーターが担うようになりました。
大学や研究機関で広報を担うサイエンスコミュニケーターは、アメリカやイギリスでは30年前ぐらいから確立している職業ですが、日本では2000年頃に導入されたばかりで、まだ職業として確立しているとはいえない状況です。
一年に一回の施設公開や講演会、サイエンスカフェなどのイベント、広報誌などの出版業務、ウェブサイトを使った情報発信など。メディア向けにプレスリリースも出します。
今年、広報として手ごたえを感じた仕事のひとつに、大手新聞の茨城版での掲載にこぎつけた、液体の水銀を使った実験装置の記事化があります。筑波大の先生が霞ケ浦の浄化をするために研究して開発したものが、J-PARCという最先端の研究施設の研究の役に立っているという内容でしたが、記者さんと築いたよい関係をベースに、そういった形になったものを見ると「やったー!」と。ちゃんと素材を組み合わせて、良い料理ができたなと嬉しくなります。
そうですね。日本の研究はここ最近では毎年のようにノーベル賞を獲っていますから、野球でいうとイチロー選手やダルビッシュ選手のように世界に伍していけるもの、オリンピック級です。それを日本や世界中の人々に分かってもらいたい思いと、私の原点である主婦の皆さんをはじめとする、科学には縁がないと思っている皆さんに、身近なこと、面白いこととして興味を持ってもらうことが目標です。
ただし、調整8割、クリエイティブな面は2割で「雑用の山の上に咲く一輪の花を目指して頑張る」といった感じで、地味な役割ではありますが。
はい、“黒子のプロ”といいますか、例えばシンクロナイズドスイミングで水上にジャンプするのは1人ですけど、下で水かきをしている人は10人ぐらいいますよね。サイエンスコミュニケーターはまさに10人のうちの1人。その10人がいるからジャンプができている、と誇りを持って取り組んでいます。
広報の仕事をする上で大事なことが3つあって、まずは正確性にこだわる研究者の気持ちを理解しつつ、一般の人向けにかみ砕いて伝えること。それは私の場合、秘書時代に培ったものが大いに活きています。
そして、どう伝えるか。広報文章も書きますが、動画なのか記事なのか、イベントなのかといった出口を考える時はクリエイティブな力が要求されるので、ライターとしての経験が役に立っていると感じます。
そして事務的なこと。たくさんの人たちの意見の聞き、落としどころを見つけて調整する。この3つのバランスがとれてこそのサイエンスコミュニケーターですので、私はたまたま、これまでやってきたことが全て活かされた、まさに天職だと実感しています。
私の時代は学群を超えて色んな授業が取れたので、体専、芸専などで学べたこと、そして色んな分野の人たちと触れ合えたことが人間的な幅になったと思います。
それから新設校ならではの校風といいますか、伝統がないぶんゼロから作らなければいけなかったので、そこで培った力が卒業後に開花しました。
私が初めて、ということは多かったような気がしますね。よくやっていますね、と言われることがありますけど、「リスクなんて考えず、やらなきゃしょうがない!」と身をもって行動に移せるのは、筑波魂からきているのかもしれません。
多様性と柔軟性、ゼロからのスタート。
年に二度、筑波大の非常勤講師としてサイエンティフィックジャーナリズムを教えていると、学生の皆さんには先ほどお話した多様性、柔軟性、ゼロからのスタートが根付いていると感じます。筑波大のあるつくば市がシリコンバレーのような環境になる日も近いのではないでしょうか。
所属: | 高エネルギー加速器研究機構 J-PARCセンター 広報セクション セクションリーダー |
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役職: | セクションリーダー |
出生年: | 1962年 |
血液型: | B型 |
出身地: | 東京都 |
出身高校: | 桜蔭高校 |
出身大学: | 筑波大学第二学群農林学類生物応用化学専攻 |
研究室: | 高橋譲二先生の研究室 |
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部活動: | 芸能山城組 |
住んでいた場所: | 平砂宿舎、自宅(我孫子市) |
行きつけのお店: | トレモントホテルのカフェ、らんぷ、シーゲル |
趣味: | ジャズボーカル、生け花 |
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特技: | コミュニケーション |
尊敬する人: | 小沢征爾、丸山瑛一(元日立製作所基礎研究所所長)、中村栄一(東京大学名誉教授)、福山雅治、北野武 |
年間読書数: | 数冊 |
心に残った本: | 二重らせん、チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷、ラマン |
心に残った映画: | ディーバ、ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海 |
好きなマンガ: | はいからさんが通る、ポーの一族 |
好きなスポーツ: | 水泳、太極拳 |
好きな食べ物: | ライチ |
訪れた国: | フランス、スウェーデン、イタリアなど十数か国 |
大切な習慣: | 物事の裏面に思いをはせること |
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