大学卒業後、出版社、コンピューターソフト商社に勤務していたが、30歳を前にして「一度だけほんとうにしたいことにチャレンジしてみよう」と小説家を志した。1作目で文芸誌の新人賞、2作目で芥川賞を受賞。現在は京都を拠点に、お茶やお能などを楽しみながら執筆活動をしている。「今こうして笑っていられるのは、大学時代にとことん悩んだからだと思う」。そんな先輩の人生に学ぼう。
生まれは静岡ですが、幼い頃から東京、富山、福井、千葉……と引っ越しばかりしていました。最も長かったのが福島県いわき市です。そのご縁で、現在はいわき応援大使のひとりになっています。
筑波大に進学したのは、知り合いが筑波大の比較文化学類を受験したと耳にして、「比較文化学類って何だろう。面白そう」と思ったことがきっかけでした。初めて親元を離れて、宿舎で生活することにワクワクしていたことを覚えています。
中学生の頃からずっとフランスに憧れていて、「本当の親はパリにいるんじゃないか」と空想を膨らませているような少女でした(笑)。モン・サン=ミッシェルの修道院をテレビで観た時は、「将来、絶対あそこで修道女になる!」と思ったほど。とにかくフランスに強い憧れがありましたね。
イヴ・ボンヌフォアという詩人に惹かれ、卒業論文は“言葉と存在とイマージュ”といったタイトルでまとめました。今になって思うのは、もっと大学時代に勉強しておけばよかったということです。卒論は誉めていただいたのですが、なにしろ肝心のフランス語では落ちこぼれでした。フランス語を流暢に話す日本人を見かけると、いまだに切なくなります。
若い時期に、世俗と切り離された空間で、純粋に自分のことだけを考えていられたのは、幸せなことだったと思います。一般的な価値観に振り回されずに自分を確立できたという意味で。
今はだいぶ違うのかもしれませんが、あの頃の研究学園都市には田んぼや畑が延々と広がっていて。そんな牧歌的で有機的なイメージと、高エネ研や宇宙センターなどの無機質なイメージ、その両極が存在しているところがとても魅力的でした。
大学も、人文から、医学、体育、芸術まで幅広い分野を網羅していて、自分とは毛色の異なるひとびとと多く出会えました。わたしは文系の頭しかない人間ですが、総合科目で三学(第三学群)の授業を受けに行けることがとても嬉しくて。超伝導がどうしたとか臨界磁場がなんとかとか、聴いていてもさっぱりわからないのだけど、わからないことが新鮮で、神秘の世界だなぁとか、詩的な言語だなぁとか、勝手にわからなさに酔って遊んでました。筑波って、いい大学ですよ。
子供の頃から読んだり書いたりすることは好きでしたけれど、小説家になりたいとか、なれるかもしれないなどとは思いませんでした。どちらかといえば詩のほうが好きでしたし。大学時代は「駱駝」という同人誌に入れてもらい、今にして思えば、ずいぶんひとりよがりな詩やエッセイを書いていました。
先輩の紹介で新宿にある小さな出版社に就職しました。ところが、ひと通り編集の仕事を覚えた頃に労働争議が始まって、それはそれで面白かったのですが(笑)、食べていかないといけませんから8カ月で退職。すぐにコンピューターソフトを扱う商社に転職しました。出版社の旧弊な企業体質に辟易していたので、正反対の価値観を持つ会社がいいなと思ったのです。ここではPR誌の編集を立ち上げから担当しました。いわゆるベンチャー企業で、若い社長から実にいろいろなことを教わりました。社会のなりたちとか物の考え方など。
大学時代は精神的なことばかり探求していたのが、会社では経済的なことばかり。でもその両方がわかって、ようやくわたしは一人前になれた気がしています。
仕事の内容が、PR誌の編集からマーケティング的なことに広がっていったのです。記事の編集から、広告制作や宣伝企画のようなことへ。そうすると、書く文章も、宣伝コピーのようなものが多くなります。これまた面白い仕事なんですよ、簡潔でわかりやすい商品説明とか、インパクトあるキャッチコピーを考えたりするのは。ただ、これ、頑張れば頑張るほど、上手になればなるほど、人を騙すための言葉になっていくなぁと、そんな気がしたのですね。そして良い文章だったかそうでなかったかは、売上の数字で決まる。それがだんだんとつらくなっていきました。
つらくても仕事ですからしないといけませんが、この先、ずっとこれを頑張れるかな? と自問したときに、できることなら、商業的な文章とは違うものを書きたいと思ったのですね。それが可能かどうか、一度だけ本気で試してみたいと。それで、会社を辞め、一年間だけ自分に時間を与えることにしました。
コンピューター関係の会社で、PCを扱えるようになっていたことはラッキーでした。ここで手に入れたラップトップ型のPCとワープロソフトが執筆には不可欠だったと思います。創作は、書いては消し、書いては消しての繰り返しなので、手書きだとぐちゃぐちゃになってしまうでしょう?
仕事を続けながらという意味ですか? それは、書いていなかったですね。勤めながら書こうと思っても、わたしには書けなかったと思います。極めて意志の弱い人間なので、きっと仕事がうまくいかないと「わたしはこんな仕事をすべき人間ではない」と言い訳をし、小説が上手く書けなかったら「仕事が忙しいのだから仕方ない」と言い訳をして、どちらもダメになってしまうと思いました。言い訳のできない瀬戸際に立たせないと、こいつは何もしないと。
新人賞を頂いたことで、「ああ、小説を書いていいんだぁ」とホッとしました。人生であんなに頑張ったことはなかったくらい、崖っぷちで泣きながら書いていたような作品です。高校時代の実話がもとになっています。
そうです。大学生の話を書こうと思ったとき、最初は普通の大学をイメージしていたのですが、考えてみるといわゆる「普通の」大学のことをわたしは知らない。知らない大学をわざわざ取材するよりは、知っている大学を舞台にしたほうが楽だなぁと思って。つまり、筑波大学です。筑波の特殊性をフィーチャーしたら案外面白いかもしれないと思いました。人物や出来事は100%フィクションですが、それでも、これは自分のことだと言ってくれるひともいるので、けっこうリアルなのかもしれません。
あの作品では“眠りの効用”について書きたい思いがありました。会社勤めをしていた頃、実にさまざまな夢を見ていたのですが、中でも「空飛ぶ夢」によく癒されていました。そして、次第に、抱えているストレスの度合いと、夢の中で飛行する高度に相関関係があることに気づきました。ひどいストレスに潰されそうになっているときに限って、空高く鳥のように飛ぶ夢を見ます。小さなストレスを感じているときには、ぽんと縁側から跳び下りるだけ。つまり私にとって夢とは、精神的なバランスを整えて自分を助けてくれるものなんだなと。
ちなみに、「至高聖所」というのは、夢治療をする病院のことです。
さぁ、わかりません。ほとんど魔法のように思えます。どうやってアイデアを見つけるのか、どうやって書くのか、良い方法を知っている人がいたら教えて欲しいと真面目に思います。
書く以外に出来ることがないからです。自己表現というのとも少し違う。作家は、表現されるべき「存在」ではなくて、ある事象とある事象をふっと空中から取りだしてつなげてみせる「作用」のような気がしています。こんな言い方ではわからないと思いますが。書いている限りは、傍観者でいても許されると思っているのかも。世界の当事者になるのが怖いから。
評価を気にするのなら、もっとたくさん作品を書いていなければいけません。ですが、20年ほど前に京都に移ってからは、お茶やお能、書道や今様、和歌、など伝統文化を学ぶことのほうが楽しくなって。ほぼ毎日が遊びのようなものですが、そんな暮らしの中から、自然と「書きたい、伝えたい」と湧いてきたアイディアを少しずつ作品にするといったスタンスになりました。もうちょっと働かないといけませんよね(笑)。
人との出会いですね。お茶を嗜むのは怖そうなおばさまというイメージもあるかもしれませんが、わたしはお茶を通じて、老若男女、素晴らしいひとびとにたくさん出会いました。特にインターネット上のコミュニティには、医師や学者もいれば、レーサーやギタリストもおり、かと思えば警察官や自衛官もいるといったように、様々な分野のスペシャリストが集まっていて、世界が一気に広がりました。小説を書く際にもいろいろと教えていただきます。百科事典を背負っているようなものです。
実は、小説家になることはさほど難しいことではありません。新人賞や各種文学賞の選考は世間で思われているよりずっとフェアなものなので、ある程度実力さえあれば、小説家にはなれます。ただ、どんな職業でも“なった後”が難しいのは同じです。
たとえば小説家にもいろいろな小説家がおり、いろいろな成功の形があります。どのような小説家になるのが自分の理想なのか、ある程度ヴィジョンを持っていると、周りに翻弄されずにすむかもしれません。筆一本で身を立てようと思うなら、何本も連載を抱えなければならないでしょう。けれど、逆に、10年に一度しか作品を発表しなくても尊敬されている作家はいます。実際の収入は講演や講師業から確保しているひともたくさんいます。
もしも自分の作品を発表したいだけなら、今は出版社に頼らずとも、簡単にデジタル出版することもできます。
大学に入った10代の頃、自分は何も知らないつもりでいましたが、今思えば、あの頃考えていたことはさほど愚かなことでもなかったようです。その後、社会に出て知識や経験を身につけて、ズルくなったり、諦め方やごまかし方を覚えたり、それが大人になるということなのかもしれませんが、ふと振り返ると、あの頃考えていたことが、結局は一番正解だったように思えます。
だから、大学4年間に、とことん自分に向き合って、色々なことを突き詰めて考えておくことは決して無駄ではないと思います。そんなひとのほうが、意外と晩年は能天気に過ごせるかもしれませんよ、私のように(笑)。逆に、若い頃、ものわかりよさそうに大人の振る舞いをしていた人が、三十代四十代になって躓いてしまう例をときどき見かけます。悩んだり考えたりするにも気力体力がいるので、若いうちのほうが安全です。
はい。とても些細なことでさえ、どちらを選ぶか、どちらに進むかをすごく真剣に悩んでいましたね。だから、「後悔」というものをわたしはあまりしません。間違った道に進んでしまったとしても、真面目に考えた過程があれば「あそこで間違ったな」ということが分かりますし、それは誰のせいでもないと納得できますし、とことん悩んでこちらに来たのだから、もう一度戻ってやり直しても結果は一緒だろうと思えるのです。後悔する余地はありません。
今、武家茶道の家元一家の物語を連載中で、これをなんとか年内に終わらせ、来年くらいに書籍化できればと思っています。また、この仕事のせいで中断している作品がひとつあり、10年、20年越しの構想ながらいまだに書けていないので、今度こそ形にしたいです。会社を辞めて小説を書き始めた頃のように、もう一度、崖っぷちに立たないといけないかもしれませんね。いやだなぁ!
わからないということの素晴らしさ!
振り返ると、10代の頃が一番賢く物事の真実を見ていたとわかります。皆さんも余計な知識で頭の濁らないうちに、一度は自分自身の見解を持っておくべきです。自己について、世界について、自己と世界の関係について。修正はあとでいくらでもできます。
血液型: | A型 |
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出身地: | 静岡県 |
出身高校: | 福島県立磐城女子高等学校 |
出身大学: | 筑波大学 |
学部: | 比較文化学類 1980年入学 |
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研究室: | フランス文学(有吉豊太郎先生) |
部活動: | 焼き物をつくる会 |
住んでいた場所: | 平砂、一ノ矢、春日 |
行きつけのお店: | 鞦韆(ブランコ)、ウエストハウス、ZEP、ココス、味の民芸など |
趣味: | 茶の湯、今様&平安コスプレ、能楽鑑賞 |
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好きなスポーツ: | テニス |
好きな食べ物: | マスカット、伊予柑 |
訪れた国: | 約20~30カ国 |
大切な習慣: | 不規則に生きる |
口癖は?: | あとで |
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