プロスポーツ選手というと、圧倒的な才能を持ったひと握りの人間しかなれないだろうと思いがちだが、チームスポーツの場合は必ずしもそうではない。筑波大を卒業後、プロのチームに身を置いた瀬戸山さんは、“人間性”を高めてこそプロとして活躍できることを実感。2016年、現役引退後は高校バスケットボール部の監督に就任し、彼の経験を通して得た教訓を次世代へ引き継ごうと、新たな一歩を踏み出している。
昔から、プロバスケットボール選手になる夢と、教員になりたいという2つの夢を持っていました。高校で進路を考える中で、同じ高校の1学年上の先輩だった清水太志郎くん(Bリーグ 日立サンロッカーズ東京所属)が筑波大に進学すると聞いて、僕も関東で伝統のある強豪校でバスケをしながら教員免許も取れる、筑波大に行きたいと思うようになりました。
小学校の時、お兄さんがバスケをしていた同級生に「背が高いからやってみたら」と勧められたことがきっかけです。その頃から、うちの近所にはバスケが上手な人がたくさんいて、太志郎くんもその1人ですが、彼らに刺激を受けながらプレーしていました。高校はバスケの強豪校である宮崎県立小林高等学校に声をかけてもらって、「あの厳しい環境の中で僕は活躍できるだろうか」と不安な面もありましたが、学校側から熱心に誘っていただいたこともあって進学することを決めました。
1年生の時から試合には出させてもらって、冬の選抜で4位。2年生の時にインターハイでベスト8と国体優勝、冬の選抜で2位の成績を収めました。キャプテンを務めた3年生ではインターハイ2位、冬の選抜で2位。こうして振り返ってみると2位ばっかりですね(笑)。
指導者が熱血漢で、とにかく体もメンタルもギリギリのラインまで追い込んでくる監督だったので大変でした。あの時はチームメイトとの支え合いがなければ乗り越えられなかったと思います。
競技レベルが高かったので、最初の1年間はあまり試合に出ることもなく、とにかくフィジカルを強化するためにトレーニングに力を入れていました。それでも試合に出る機会がそれほど増えず、トレーニングの重要性を理解することができなくてモヤモヤした感情を抱えながら日々過ごしていたことを覚えていますね。
3年生の時に新しいコーチに変わったことで、新しい指導法をなかなか受け入れられなかったことが原因だと思います。今思えば、それまでのやり方に固執していた自分たちが未熟でしたし、ずっと強い先輩たちが引っ張ってくれていたことに気付かないまま、甘え切った状態で大事な4年生という時期を過ごしてしまったなと。
チームの結束は強く、上下関係もなく仲が良かったですね。ところが4年生で僕が主将になった時、みんなに強いメンタルを持って欲しいからと「俺について来い」という強い姿勢を見せたことに対して、はたしてそのやり方で良かったのかと、いまだに反省する気持ちがありますね。当時の僕は後輩から怖がられていたし、卒業して10年経ちますが、同級生からは「当時は独裁者的な感じだったよね」と言われるんですよ(笑)。
それまではバスケをメインでやっている人としかつながりがなかったのですが、筑波大バスケ部には一般入試で入って来た学生もいて。彼らはバスケだけじゃなく勉強にも力を入れていたので、そんな先輩や後輩、同級生との接点が生まれたことで「僕のようにバスケだけやっていることは全然大したことじゃない」と気付かされました。その反面、いかに自分たち推薦組が恵まれているかを改めて実感し、「中途半端ではいけない」と気を引き締めるきっかけにもなりました。
そんな風にそれぞれが刺激し合って、何事も一生懸命やる雰囲気が出来上がっていたので、みんな部活や勉強だけじゃなく、遊びも手を抜きません(笑)。遊びに行けば違う部活の人と出会う機会もあって、良い影響をたくさん受けることができました。
卒業後のことを考える前に、いかに自分が試合に出るか、試合で活躍できるかを考えることに精一杯でしたね。特にバスケは試合に5人しか出られない上に、同じポジション同士でも競争があるので、プロを目指すことを考える余裕がありませんでした。
それが1年、2年、3年と学年が上がるにつれて実力も上がっていく中で、4年の春にJBLのアイシン シーホースに話をいただいて。僕の出した条件である、“最初の1年間は社員として社会経験を積ませてくれること”を快諾して下さったことと、実績を持ったベテラン選手が多く、優勝経験のあるチームでさらに経験を積みたいとの思いでアイシンにお世話になることにしました。
大学のバスケとは違って、より高度な質が求められたので最初はかなり戸惑いましたね。それまではショーじゃないけど、人に見せるためのビックプレーばかりを狙っていたのだなと、自分自身に向き合うきっかけになりましたし、2年目からプレータイムが減っていくと、何かを変えなきゃいけないと、ずっと苦手で避け続けていた朝のトレーニングを始めたり、外を走ったりするようになりました。
2009年、戦力外になってしまいました。筑波大で教員免許もとったことだし、もう1つの夢である教師の道に進もうかなと思っていた時、当時、bjリーグの埼玉ブロンコスでプレーしていた先輩の太志郎くんに「トライアウトを受けてみたら」と誘われて。トライアウトの結果を受けて、ドラフトの全体1位で京都ハンナリーズに指名されました。
印象に残っているのは、アイシンの部長に京都に行くと伝えに行った時の会話です。部長は何気なく「丁稚奉公のつもりで頑張りなさい」と声をかけて下さったのですが、ふと「そうだ。大事なことはバスケットをプレーするだけじゃない」と大学時代に感じたことがよみがえってきて。部活も勉強も、遊びも全力でやる――そんな風に過ごした大学時代と比べて、アイシンでの4年間は余裕がなく、僕なりにがむしゃらに練習してきたつもりでしたけど、よくよく考えれば技術面の問題だけじゃなく、精神面がプロのレベルに達していなかった。バスケットボールのプレーヤーである前に、人としてどうかという姿勢が足りなかったと、部長のひと言で実感させられました。
「人としての土台を作ることで、おのずとプレーも変わるはず」。そんなことをあの時に気付けたからこそ、その後の京都では長くプレーできたのではないかと思います。
チームメイトの外国人選手にはとても刺激を受けましたね。彼は練習もハードだし、練習後の自主練も積極的にやる、すごいハードワーカーで、しかもちゃんと結果を出していました。そういう人のほうが感謝の気持ちを持ってプレーする姿勢だとか、日本人のつたない英語も一生懸命理解しようとしてくれるなど、コミュニケーションを取ることも上手です。彼を通して、やはりバスケにも人間性や社会性という部分は必要なのだと改めて実感させられましたし、こういう人をプロフェッショナルというのだなと思いました。
大学時代とは違って、プロの世界には年上もいれば外国人もいる。そんな中で一緒に戦うには、僕が主将としてチーム内のバランスを取りながらみんなの歩調を合わせつつ、プレーの質を高めていくことが大事です。下から押し上げたり、調子が悪そうな選手に話しかけたりするのは、大学時代キャプテンだった時にはできなかったことでした。
これまでの話とも共通していますが、やはり人間性だと思います。特にチームスポーツの場合、それぞれ違った環境で育った選手が一丸となって戦うことが求められるので、相手に対して合わせられる人、または合わせようとする人、気が遣える人など選手である前に人としてしっかりしている人が、プロとして活躍できているのではないでしょうか。
ルーティーンはすごく守っていました。それは試合前の準備だけでなく、会場に到着する前も朝から毎日同じように準備をする。例えば着るものや、途中で立ち寄るコンビニ、そのコンビニでこれを絶対に買うといった細かいことまで全てです。現役時代は妻や子供にかなり迷惑をかけていたでしょうね。この時間に行くと決めたら絶対に変えないので、子供がぐずったり、おむつを変えていて奥さんがバタバタしていても、僕は自分のやり方を変えませんでしたから。
めちゃめちゃ気がラクです(笑)。
チームとは単年契約だったので、毎年「今年で最後。悔いのない1年にしよう」と決意をしてプレーをしていました。そして活躍を評価していただいて、もう1年、さらにもう1年の繰り返しで、2016年のシーズン以降もオファーをもらっていたのですが、現在勤務している京都両洋高校が声をかけて下さって。バスケット部の強化の為に監督を探されていて、元プロとしてのキャリアを生かして指導してほしいとオファーしていただきました。こういったお話をいただくことは滅多にないことなので、これは良いご縁であり、現役を退くタイミングなのかなと。
バスケ界にとってBリーグの発足は大きな出来事だとしても、引退を決意した頃の僕にとっては、もうバスケットが全てではなかったというか。もう1つの夢である指導者の道に進みたい気持ちが固まっていたので、一切未練はありませんでした。
色々なクラブ活動が活躍していて、新しい伝統を作る過渡期の学校で、今年は女子駅伝部が発足。マラソンの野口みずき選手がアテネオリンピックで金メダルを獲った時の指導者であった、藤田信之先生が特別講師として来て下さるなど、女子の部活が活性化しているので、男子バスケット部も負けないように学校全体を引っ張っていけるようなチームにしたいですね。今年は1、2年生で50人を超える選手がいるのでやりがいがありますし、監督をやるからにはいつか全国大会に行きたいと思います。
筑波大時代の監督だった日高哲朗先生ですね。先生は厳しい中にもユーモアを持っていて、人としてとても魅力のある人でした。そして人を頑張らせるのが上手い。僕はまだ指導者としてスタートしたばかりですが、いつか日高先生のような指導者になれるように頑張りたいと思います。
まだ体が動くので、技術的なことは言葉だけじゃなく、実際に動きながら教えていますし、僕がプロ生活を通して得た、「プレーを磨くことだけが、バスケットボールじゃない」との教訓も伝えていきたいです。学生時代にプロになりたいという夢を持っていても、プロになってバスケットで成功できるのはほんのひと握りですから、夢が叶わず、バスケットを辞めた後にどういう人間であるかが一番重要で。バスケットを通して人間性を高めていくことが後々、どんな環境でも役に立つと思うので、そういった部分も生徒に指導していけたらと思っています。
今実感していることは、自分自身で夢をつかんだのではなく、皆さんにチャンスを与えて頂いたからこそ夢を叶えることができたのだということです。プロになったのも教師になったのも色んなご縁を大切にしてきたからこそですし、ドラフトで京都に呼ばれなければ、今こうして教員になれていなかったかもしれないし、ずっと支えてくれた妻にも出会っていなかったかもしれない。そう思うと、周囲に感謝しながら一生懸命仕事をしなければいけないと気が引き締まります。
チームとしては、まず一戦一戦の勝負に勝って、勝ちを積み重ねていくこと。そして指導者としては生徒にもっとバスケを好きになってもらって、卒業後も「プロでやりたい」「大学でも続けたい」と言ってくれる生徒を育てていきたいですね。
何でも一生懸命に取り組むこと。
4年間はあっという間です。4年もあると思わずに、1日1日を大切にしながら何事にも一生懸命取り組みましょう!
所属: | 京都両洋高等学校 |
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役職: | 保健体育科教諭 / 男子バスケットボール部監督 |
出生年: | 1982年 |
血液型: | O型 |
出身地: | 宮崎県 |
出身高校: | 宮崎県立小林高等学校 |
出身大学: | 筑波大学 |
学部: | 体育専門学群 2001年入学 |
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研究室: | バスケットボールコーチング論 |
部活動: | バスケットボール部 |
住んでいた場所: | 春日四丁目 |
行きつけのお店: | ちどり |
ニックネーム: | 京介、セト |
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趣味: | DVD鑑賞、ドライブ |
尊敬する人: | 両親 |
年間読書数: | 約10冊 |
心に残った本: | ラグビー日本代表ヘッドコーチ エディー・ジョーンズとの対話 |
心に残った映画: | タイタンズを忘れない、ルディ、涙のウイニングラン |
好きなマンガ: | スラムダンク |
好きなスポーツ: | バスケットボール |
好きな食べ物: | たこ焼き、パスタ |
嫌いな食べ物: | じゃがいも、里芋、豆類 |
訪れた国: | 約5カ国 |
大切な習慣: | 自分のルーティーンを守る |
口癖は?: | たまに出る宮崎弁 |
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