スピードスターの異名を持つほどの俊足を誇り、2015年ラグビーワールドカップの代表メンバーに選出。歴史的勝利を挙げた南アフリカ戦の出場こそ逃したが、先輩たちの死闘をベンチで見守りながら「4年後は、僕が日本を引っ張る」との使命感に燃えたという。2019年に東京で開催されるワールドカップ、2020年の東京オリンピック後は幼少時代からの夢である医師の道を志す。そして自らの人生を持って“新世代アスリート像”を示そうとしている。
高校と大学でラグビーをやっていた父の影響で、5歳の時に始めました。父はずっと「息子と一緒にラグビーをやりたい」という夢を持っていたようです。当時はまだラグビーの面白さは分からなかったけど、芝生がきれいなグラウンドで走り回るのが楽しくて。気付いたらラグビーにハマっていたという感じです。
足のスピードだけは誰にも負けなかったんですが、中学3年生の時点で身長170センチ、体重は63キロと小柄でしたから、ジャージをつかまれると止められてしまうことが多くて。その頃はプロになるなんて意識を持っていませんでしたね。
中学までの指導者が「とにかくラグビーを楽しもう」というスタイルだったので、ラグビーを嫌いにならなかったおかげで、高校でも続けられたんじゃないかと。ようやく僕の闘志に火がついたのは、熱血指導をする監督に出会った高校時代。その監督が「タックルを逃げるやつは、ラガーマンである前に男でない」などメンタル的な部分、闘う姿勢について教えてくれたことが、今のラグビーと向き合う姿勢にも影響しています。
高校1年生からレギュラーで、2年生の時には県の高校代表に呼んでもらえたんですが、左ひざの前十字じん帯を損傷してしまって参加できず。3年生で花園に出場した時は、大会の3ヶ月前に右ひざのじん帯を断裂したのですが、テーピングで固めてなんとか出場しました。その時の花園で関東の強豪校・本郷高校と戦った試合で、ロスタイムに逆転認定トライを決めたことが高校時代の一番の思い出です。
ケガには悩まされましたが、ひざの手術をしてくれた先生との出会いがあったこともあって、僕の進むべき道も見つかったと思います。
ラグビーをやりきった後に医師になることです。もともと開業医である祖父の影響で医師という職業に憧れを持っていましたが、ひざの手術後、ネガティブな考えを持つことなくリハビリに専念することができたのは、先生が精神面でも僕をサポートしてくれたおかげです。と同時に、医師としてスポーツに関わる道があることを知り、「いつか僕も人を支える医師になりたい」と具体的な目標を持つようになりました。スポーツ整形の分野なら、僕がケガをした経験や選手としての経験も生かせますしね。
高校2年生までは、どちらかというと医学部で勉強することをメインに考えていて、それプラス、ラグビーができればいいかなぁという気持ちでした。そんな時、福岡高校から筑波に行ったラグビー部の先輩が楽しそうにプレーをしている姿を見て、筑波大学のラグビー部に興味を持つようになって。教育実習で高校に来た先輩に、筑波大学の雰囲気を尋ねていく中で、「医者にもなりたい。ラグビーもしたい」と思うようになり、筑波大学の医学群を目指すことにしました。
筑波の医学専門学群は、やはり高い壁でした。1度目の受験に失敗し、そして2度目の前期でも合格することができなくて。その時、筑波へのこだわりを捨てて、後期でもう少しレベルの低い大学の医学部を受けることも考えたんですが、「医学部を取るか。ラグビーを取るか」の二者択一を迫られ、「今、何を選んだら一番後悔しないだろう?」と。とことん悩んだ末に、1年間ラグビーを離れていたことで、より明確に「今はラグビーがしたい」という気持ちが勝って筑波大学の情報学群を受験することにしました。
夏までは週に2回ジムに通ってプールとウェイト、リハビリも週に2回ほど通っていましたが、夏を過ぎると勉強に集中して、どうしてもトレーニングを継続することは難しかったですし、いくら身体を鍛えても、ボールを触らず、試合にも出ていないと試合勘が失われてしまいます。大学でラグビーを続けるなら第一線で活躍したい気持ちが強かったので、なんとしても2浪は避けたいという思いは強かったです。
選手たちが主体となって、その年のカラーを活かしたチーム作りをしているので、これが伝統にしばられていない筑波の良さだなと感じました。僕個人としては寮生活ではなく、一人暮らしで自炊をしながら部活に取り組むことで自立心が養われましたし、筑波の自由な環境の中でのびのびとプレーができて良かったと思います。
ラグビー選手にとっては体重の維持や増加といったコントロールが大切なので、食事の量や質には気をつけていました。ある程度、脂肪分のある食事をわざと採るように心がけたり、普段の食事で摂取することが難しい栄養素はサプリメントで補ったりなど全体的なバランスを考えていました。
1浪していたことで体がなまっていたので、1年生の秋頃にようやく1試合だけ対抗戦で使ってもらいました。その時の日体戦(日本体育大学)で6トライを決めると、次は大学選手権のレギュラーとして準決勝、決勝に出場。この時の大学選手権は、筑波大学が初めて準優勝になった年です。
そこが筑波の良さですよね。特に僕の代は、僕を含め「絶対に筑波でプレーしたい」という強い意思を持って筑波に入ってきた浪人生が半分位いましたから、浪人の一般で入った選手たちが推薦の人たちに刺激を与えることもできましたし、僕自身、いち早く活躍していた推薦や一般の選手に刺激を受けることもありました。僕たちが活躍することで、世の中の浪人生たちの指標にもなるのではないかと思います。結果として推薦、一般がバランスよく活躍している代が強いチームを形成していることも筑波のカラーのひとつですね。
大学選手権後にジュニア・ジャパンのメンバーに選出され、1試合を終えた直後に「次から代表だから」と声をかけられました。エディーさん(エディー・ジョーンズ元日本代表ヘッドコーチ)の一声だったみたいです。代表に呼ばれたのは光栄なことでしたが、あまりに唐突過ぎてびっくりというのが、当時の正直な気持ちでした。
日本代表にいる時は、アクアバッグという水の入った空気のバッグを使って股関節周りや体幹を鍛えていました。バッグの中の水が不規則に動くので、バランスを取る練習としては最適でしたね。走り方に関しては、幼少時代から前につんのめるように走る癖があったので、それが低い姿勢で走ることが求められるラグビーとマッチしたのかもしれません。
監督にとことん追い込まれたことで、選手それぞれが危機感を持つことができたことがひとつだと思います。練習時間は長くても1時間ですが、4部練習は当たり前。時期によっては5部練習も。しかもその1時間の濃さが半端ではないほどキツくて休む暇もない。彼の追い込みは練習だけではなく、ミーティングでも同様で「このままじゃワールドカップに連れていけない」と断言するので、自分を追い込むための起爆剤になりました。でも今はあの苦しい環境からやっと開放されたという気持ちなので、もう一度彼の元でやるかと聞かれたら、即答で「イエス」とは答えられないです(笑)。
監督に反発する気持ちでチームが団結したのも事実ですし、ワールドカップが間近に迫った頃には「これだけキツい練習に耐えたんだから、必ず日本のワールドカップの歴史を変えてやる」という思いでチームの雰囲気は盛り上がっていました。今振り返れば監督の執拗な追い込みというのは、僕たちが本番で力を発揮するために計算し尽くされた行動だったのかなと感じることもあります。
あの勝利だけで、今までの厳しい練習が全部報われました。藤田慶和(現パナソニック所属。当時は早稲田大学)と僕は試合に出てもいないくせに、嬉しくて延々と2人で泣いていたんですよ(笑)。
2013年にスコットランド戦で2トライを取っていたことで監督に良いイメージを持たれていたのと、南アフリカ戦に出場した選手が疲労していたので、ある程度メンバーを入れ替えることが必要不可欠だったことで僕が選出されたんだと思います。
「南アフリカ戦だけの勝利だけで終わってしまったら、日本のラグビーが向上していけるか分からない。スコットランド戦には勝たなければ」と使命感を持って臨みましたが、スコットランドも随分と準備をしていました。思うような結果が残せなかったのは非常に残念です。
日本代表ではフィジカルもメンタルも極限にまで追い詰められていましたから、筑波でプレーすることはすごく楽しかったです。とはいえ、僕がいないことで随分チームに迷惑をかけたので、代表で学んだことを古川(拓生)先生(ラグビー部監督)に報告するなど、できるだけ筑波のラグビー部に還元するようにしました。古川先生は、僕が4年生になってワールドカップを控えていた時に「今年は筑波の福岡ではなく、ジャパンの福岡として活動していいから」と送り出してくれことに感謝しています。
4年生の時、対抗戦で帝京大に勝った試合ですね。前人未到の対学生50連勝をしていた帝京大を自分たちの代で倒せたことは本当に嬉しかったです。帝京大にはフィジカル面で大きな差がつけられていますし、もし自分が帝京でラグビー選手をやっていたとしたら、思うような活躍はできなかったんじゃないかとさえ思うほど強いチームです。
そう考えると帝京に勝利したのは奇跡のように思えますが、ラグビーは“身を殺して仁を成す”チームスポーツであることと、フィジカルだけではなくメンタルも重要なスポーツです。そういった意味では、筑波の環境で育まれる“自立心”が今後勝利を重ねていくことには大事な要素だと思います。自立することの大切さは日本代表のメンバーとして、海外チームと戦ってきた中で実感したことでもあります。
良い環境だと思いますね。みんなトップを目指して頑張っていますし、僕の先輩も何人か代表に呼ばれています。ただ、代表に選ばれるかどうかは監督の好み次第なので、監督がエディーさんでなければ僕は選ばれていなかったんじゃないかな(笑)。
ただひとつ自信を持って言えることは、筑波大学を選んで良かったということ。日本代表に選ばれたのも、筑波に来たからこそだと思います。
毎年、日本代表の合宿のために3ヶ月は大学に行けないので、単位を取るのが本当に大変でした。特に、僕がいた情報学群の学生がスポーツの日本代表になるという前例がなく、各授業の先生たちに相談に行って一人一人に理解を求める必要がありました。幸運なことに「テストには必ず出て、規定の点数を取ること」という条件で代表に送り出してくれた先生が多かったですね。
2019年に東京で開催されるワールドカップ、そして2020年の東京オリンピックで活躍するために、国内最高峰のチャンピオンチームであり、すべてにおいてしっかりした環境が整っているパナソニックを志望し、ご縁をいただきました。パナソニックはディフェンスを得意としていて、僕のポジションであるウィングでも優秀な方がたくさんいるので勉強になると同時に、厳しいポジション争いに加わっていかないといけません。
まず今年は、リオデジャネイロオリンピックのメンバーに入ることを目標にしています。オリンピック以降は国内トップリーグでの活躍もそうですし、チャンスがあれば海外にも挑戦したい。そして最終的な目標は、やはり2019年と2020年です。昨年のワールドカップに僕が選ばれたのは次のワールドカップを見据えてのことだと思うので、自分としても2019年を成功させることが義務だと感じています。
昨年のワールドカップでは27歳ぐらいの選手が活躍したので、僕が2019年にちょうど同じような年齢になることを思えば、これから身体も経験もピークに持っていけるように4年間を大切に過ごさなければと。そこまでケガなく第一線で活躍し続けて、日本代表を引っ張っていける存在になりたいと思います。
自由を尊重してくれる懐の深い環境で、自立することができました。
周りの環境で自分の決断を下すことが難しかったとしても、あとあと後悔しないために自分の決断を貫いて下さい。
所属: | パナソニックワイルドナイツ |
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出生年: | 1992年 |
血液型: | A型 |
出身地: | 福岡県古賀市 |
出身高校: | 福岡県立福岡高等学校 |
出身大学: | 筑波大学 |
学部: | 情報学群情報科学類 |
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研究室: | コンピュータビジョン研究室 |
部活動: | ラグビー部 |
住んでいた場所: | 裏天3(天久保三丁目) |
行きつけのお店: | まんぷくや |
ニックネーム: | けんき |
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趣味: | ボーリング、ゲーム |
特技: | ピアノ |
尊敬する人: | 祖父、廣瀬選手(東芝) |
年間読書数: | 10冊〜20冊 |
心に残った本: | 影法師(百田尚樹著) |
心に残った映画: | アメリカンスナイパー |
好きなマンガ: | ハンターハンター、三国志 |
好きなスポーツ: | ラグビー |
好きな食べ物: | 焼肉、フレンチ |
嫌いな食べ物: | パクチー |
訪れた国: | 8カ国 |
大切な習慣: | 食後のコーヒー |
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