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立花龍司スライダー

学ぶことを辞めた時が、教えることを辞める時。

Sportsperson
2016/06/13
インタビュー
  • 24
コンディショニングコーチ
立花 龍司
(筑波大学大学院 2004年入学)

自身の挫折経験、そして親友の死を乗り越え、ケガで野球ができなくなる選手を減らしたいと一念発起。野球選手のパフォーマンス向上を促す“コンディショニングコーチ”の第一人者として日本のプロ野球界、そしてアメリカのメジャーリーグに貢献してきた。40歳の時、「指導者は半永久的に学ばなければならない」との信念で、筑波大学大学院に進学。知識、実績が伴う指導者として、ジュニアからプロまで様々な年代の選手を育て、今は地域に密着した活動も繰り広げている。

自分の給料をつぎ込んでトライアル期間を設けた

コンディショニングコーチの仕事内容を教えていただけますか?

野球のオフシーズンとシーズン中とで内容は変わりますが、まずオフシーズンは選手の筋力を上げるためにランニングとウェイトトレーニングを中心としたメニューを組み、シーズン中はその筋力を維持させながら、試合後の疲れをいかに取るかといったコンディショニングなども施しています。

コンディショニングとは具体的に?

トレーニングの王道なものから最先端なものまで、その選手に最も必要なものを提供するのですが、特に若い頃から実施しているスポーツPNF(Proprioceptive Neuromuscular Facilitation、固有受容性神経筋促通法)は、選手のパフォーマンスを向上させるのに効果的です。私が実施しているスポーツPNFは、もとは脳血管障害や脳性麻痺などの患者さんに対するリハビリ療法であったものにアレンジを加えたものなのですが、僕の手で選手の体に負荷をかけながら潜在能力を引き出すトレーニングを30年以上実践しています。このトレーニングを受けると可動域が広がって、ボールの速度も上がったりする。オフシーズンには、今でも私のトレーニングを受けに遠方から現役選手たちが来てくれることは、嬉しいことですね。

選手に接する際に心がけていることは?

上から目線でアドバイスするのではなく、話し合っていく中で選手自身に「こういうトレーニングがしたい」と決断させるよう心がけています。それと、日本にありがちな“引き算”のやり方、例えば「君はこれができないから、これをやろう」ではなく、「君はこれもできるし、あれもできる。次にこれができるようになったらいいよね」という“足し算”のコーチングをするようにしています。

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現在はコーチとしての地位を確立していますが、15歳で日本代表に選ばれるなど選手としてもプロ野球を目指していたそうですね。

小学3年生から野球を始めて、中学3年の時には日本代表に選出されました。世界大会で行かせてもらったアメリカでの光景は今でも自分の原点のひとつです。野球に対する取り組み方やトレーニング環境の充実など、野球先進国の凄さを中学生ながら肌で感じることができました。その後、当時強豪校だった浪商高校に推薦で進学しましたが、練習のし過ぎで右肩を痛め、ピッチャーとしてボールが投げられなくなって。「勉強もせず野球しかしてこなかったのに、これからどう生きていこうか」と悩んだ時期がありました。

その頃、一緒に野球やっていた親友が病気で亡くなりました。彼がいなくなった後、病院のベッドを整理していると、進学するはずだった大学の名前が入ったキャッチャーミットと木のバッドが見つかり、病室で人知れずひとり練習に励んでいたことを知りました。病気とケガは違いますが、ケガは直せるし、防ぐことができます。ケガで野球ができなくなる選手を少しでも減らしたいと、ぼんやりと考え始めたのは高校3年生の、その出来事がきっかけです。

肩を痛めた後も野球は続けたのですか?

推薦で大阪商業大学に進学しましたが、肩の痛みが抜けず選手としてプロを目指すことを断念。次の生きがいを模索する中で、高校3年生の時に抱いた気持ちを思い出し、ケガを治す立場ではなく、その前段階でケガをさせないための良い方法はないだろうかと考えるようになりました。

当時、コンディショニングコーチという職業はあったのですか?

当時は野球界ではトレーニングコーチと呼ばれていて、その多くは元プロ野球選手が引退後にチームに残るためのポジションとして扱われていたので、この分野の専門的な勉強をしたコーチはほとんどいなかったと思います。いたとしても陸上出身など他スポーツ出身で、野球経験者ではなかった。だから僕は野球に特化したコーチを目指そうと、まずはスポーツ医学を学ぶことにし、大阪商業大学在学中から並行して、天理大学体育学部で聴講生として学び始めました。

色んな文献を調べると、アメリカでは“ストレングス&コンディショニングコーチ”という肩書きで僕がやりたいことを実践していることを知り、その肩書きと役割を定着させようと、日本で最初にコンディショニングコーチを名乗り始めました。

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1989年、近鉄バファローズに入団をしていますが、その経緯は?

大学在学中、ダイナミックスポーツ医学研究所(運営:医療法人貴島会)という、病院がリハビリ施設やジムを運営している環境で働きながら、ある球団に売り込みに行った時のことです。その時はまだ経験が浅く、採用こそされませんでしたが、球団の社長さんが「君のような一生懸命な若者を応援したい。僕が窓口になって他の球団に紹介してもいい」と言って下さって。嬉しく感じながらも自分の実力不足を痛感し、「いつかオファーされる側の人間になろう」と実務経験を積むことにしました。

どんなことを実践したのですか?

ダイナミックスポーツ医学研究所での勤務を継続し、当時、少年野球と学生野球の選手が6人しか利用していなかった施設に、もっと野球選手を呼び込もうと、地域のリトルリーグやボーイズリーグ、高校、大学のコーチに頭を下げに行きました。「入会金と月会費は僕が払うので、有望な選手を預からせて下さい。1か月経って効果が得られたら継続して下さい」。自分の給料を全部つぎ込んでトライアル期間を設け、良い選手に来てもらうことに成功しました。

それで実績を積んだのですね。

最初はたった在籍6人だった野球選手が数年で600人程になり、相当な数のプロ野球選手が巣立ったことで一気に僕の名前が業界に知れ渡りました。その噂を聞きつけたプロ野球の球団から誘いも受け、天にも上るような気持ちになりました。しかし、「自分と年代の近い若い選手が活躍している球団に入ったほうが、自分が提供するトレーニングの効果が表れやすい」という目論見もあり、最初の売り込みの時に出会った球団社長に窓口になって頂いて、当時勢いのある若手選手が多かった近鉄バファローズに入団。1989年、25歳の年です。

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初めてのプロ野球界。選手の反応はいかがでしたか?

野球のボールより重い物を持ってはいけないと言われていた時代に、ウェイトトレーニングの重要性を説いていたので、最初は選手からは疑いの目を向けられましたよ。ところが近鉄でスター選手だった大石大二郎さんが肩を壊した際、何者とも分からない僕の言うことを取り入れてくれて肩が良くなった経緯があり、他の選手たちの信頼を得ることにつながりました。

大石さんに後から聞いた話ですが、たまたま僕に質問をした際に、知ったか振りをせずに分からないことは「分からない」と正直に答え、すぐに調べてくる僕の姿勢を評価して下さったのだそうです。

結果、故障者が激減し、入団1年目で優勝に貢献。1994年から2年間は千葉ロッテマリーンズ、そして97年から1年間は日本人初のメジャーリーグコーチとして、ニューヨークメッツと契約しています。

メッツでの1年は、大学で4年間学んだぐらい濃かったですね。日本では最近ウェイトトレーニングの必要性を認めていますが、アメリカでは昔から当たり前のようにやっていること。というのも小学校から大学まで2つ以上のスポーツに親しんでいる人が多く、メジャーリーガーは野球とアメリカンフットボール、野球とバスケボールといった具合にほとんどの選手がコンタクトスポーツを経験しています。接触プレーに勝つためにウェイトトレーニングはもちろん、サプリメントの必要性や効果についても選手自身が知識を持っていることに驚きました。

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近鉄時代に同僚だった野茂英雄の影響で大学院へ

慣れない土地でご苦労はあったのでは?

最初は英語に苦労しましたが、なんだかんだ浪花節が通用したというか(笑)。みんなのために何かしようと必死になっている僕の姿を見て、選手が行列を作ってくれるようになりました。もう1年居て欲しいとオファーをされたのですが、早く日本のプロ野球界にアメリカで得たノウハウを浸透させたいと帰国を決意。ところがこの後、人生で唯一といってもいいほど後悔させられた出来事がありました。

その出来事とは?

帰国後、ロッテと契約した2日後に近鉄時代からの親友である吉井理人から電話あって、「来年メッツに行くから、同じチームで頑張ろう」と言うんです。僕をびっくりさせるために黙っていたらしいのですが、「なんで早く言ってくれなかった!?」と。落ち込んでいたら、今度はロサンゼルス・ドジャースにいた野茂(英雄)がメッツに移籍することが発表されて。彼も近鉄時代の同僚ですから、この話を聞いた時はさすがに立ち直れませんでしたよ(笑)。

日米で経験を積み、40歳で筑波大の大学院に進学。筑波大を志した理由とは?

野茂がアメリカでプレーしていた頃、帰国の度に飲み会を開いていたのですが、年々、野茂が強くなって帰ってくる姿を目の当たりにして「僕ももっと成長できるはずだ」と。彼に刺激を受けたことで、大学院進学を志すようになりました。

色んな大学院を比較するうち、スポーツで日本一を目指すなら筑波しかないと思いました。また、国立大学の大学院は自分がいくら現場で実績があったとしても、しっかりと勉強して試験をパスしなければ入れない。ずっと推薦で進学してきたので受験勉強をするのは初めて。でも逆に、この機に受験勉強をしっかりできると思えたことも決め手になりました。40歳にして初めて単語帳を作ったんですよ。いざ受験会場に行くと、受験生から「筑波で教えていらっしゃるんですね」と言われて、「いやいや、僕も受験生だから」と(笑)。

野球関係者からの反応は?

「メジャーリーグのコーチまでやったんだから、そこまでやらなくても」との意見もありましたが、それは違うかなと。そもそもコーチの語源が“大切な人を目的地まで安全に確実に送り届ける”であるように、選手やチームをケガのないよう目標とするところまで、確実に送り届けるのがコーチの役割であって、僕自身の過去の成功体験だけでコーチングしていては、色んな選手や色んなシチュエーションに対応できません。

コーチや指導者は、学ぶことを辞めた時が、教える時を辞める時。半永久的に勉強しなければいけませんから、大学院で学ぶことは自然な流れでしたし、他のコーチにも「立花さんがやっているのだから、僕も頑張らなければ」と意識を高く持って欲しいですね。

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決意から1年半後、一度目の挑戦で見事合格。大学時代で印象に残っている授業はありますか。

現場で活用できる知恵は本当にたくさんありました。例えば、何かの授業の中で、ひとりが目隠しをして割り箸で角砂糖を取るために、もうひとりが、どこに角砂糖があるかを言葉で誘導するというグループワークがありました。言葉で「2センチ下」「何度上」と伝えても、角砂糖が見えてない相手が思う2センチにはズレがあって、なかなか上手く取れないんです。この感覚のすり合わせはコーチングをする際に役立つなと。

現場で感覚的にわかっていたことを、ちゃんと理論の裏づけを持って学べること。学術的に学んだことを、すぐに現場のケースに置き換えて考えることができたことなど、大学院での学びは自分にとって大変有意義なものでした。

どんな研究をしていたのですか?

その頃、プロ野球界では脇腹の肉離れを起こす選手が多かったので、体幹の研究を修士論文にまとめました。プロ野球界での仕事と大学院での勉強をかけもちしていたので、思うように授業に出られなかった時期もあり、休学と復学を繰り返して5年がかりになりましたが無事に卒業できました。

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豊富な経験を活かし、大学院入学前に阪堺病院SCA(ストレングス&コンディショニングアカデミー)、卒業後にはタチリュウコンディショニングジムを設立されていますね。

以前見学に行ったアメリカ・サンディエゴで、自分の理想とする施設を目の当たりにしました。入院や手術ができる病院に併設して、日常生活の復帰を目指すメディカル・リハビリテーションと、競技復帰までのリハビリが受けられるアスレチック・リハビリテーション、そしてパフォーマンスアップのトレーニングなどが一つの融合した施設で行われ、各専門家が連携して最高のサービスをクライアントに提供する。そこでは一般の子供からお年寄りまで幅広い層が最新のスポーツ医科学を受けられます。しかし当時の日本では、トップを目指す選手しか最新のスポーツ医科学の恩恵を受けることができませんでした。

そこで「病院内にジムを出したい」とマスコミ発表をしたところ、いくつかの病院が手を挙げてくれて。僕の地元である堺市に阪堺病院SCAが設立されたのが、今から15年前です。

評判はいかがでしたか?

とても好評で、この15年間で数々のプロ野球選手を輩出しました。その後、スポーツジムと鍼灸整骨院が融合した“タチリュウコンディショニングジム”をプロデュース。アスリートから一般のおじいちゃんおばあちゃん、子供たちがジムで体を鍛えつつ、不調を感じた時は鍼灸整骨院で気楽に最新のスポーツ医学が受けられる地域密着型のコンディショニング施設です。今では千葉と大阪で展開しているのですが、多くのスポーツチームとも契約しコーチやトレーナーとして関わらせていただいています。このタチリュウジムもオープンから約5年が経ち、ここで育った会員さんからプロ野球へ入団する選手が出始めました。

今後のビジョンについて教えて下さい。

最近、僕の子供が大学で野球をプレーしている姿を見ていると“選手だった頃の目線”、“コーチとしての目線”だけでなく、“選手を親目線で見ている自分”がいることに気が付きました。自分の子供と同年代の選手に深い愛情と厳しさをもって接することは、今後、僕の新たな力となっていくと思います。

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またプロ野球界に復帰する日も近そうですか?

今は大学や社会人野球でコーチをしていますが、いつかプロ野球に戻るとしたら2軍選手の育成に携わりたいですね。1軍ではその日勝つためのコーチングがメインだとしたら、2軍では3年後に選手を一流にするために、長期的に取り組めることが魅力です。

そして今後最もやりたいことは、後進の育成です。後継者とまではいいませんが、僕が積み重ねてきたノウハウやコーチング理論、何よりもその根底にある想いや情熱を受け継いでくれる人材を育成することが、これまで自分を育ててくれた人たちへの恩返しだと思っています。

立花さんの知識と経験は、多くのコンディショニングコーチに受け継いで欲しい財産ですね。

例えば、筑波大野球研究班公認の野球指導者やコーチを育成する特別コースを作るというのは、面白いんではないでしょうか? 経験上、大学院で学んだ解剖学や生理学は、野球に直接関係なくとも知識として持っておくことは非常に大切。なぜなら野球界では「野球の指導者は、本当によく野球のことを知っている」と言われますが、裏を返せば「でも、スポーツのことを知らない」と言われているのと同じことですから、もっと知識豊富なコーチを育てなければなりません。そうした場所で、多くの元プロ野球選手やコーチを目指す学生達が学べる環境を作ることができるなら、僕が貢献できることはたくさんあると思います。

私は、こと野球のトレーニングに関しては、誰よりも考え抜いてきた自負がありますし、選手のパフォーマンスを誰よりも上げていく自信があります。それは言い換えれば、どんな立場になっても学ぶ姿勢を忘れずに努力し続けてきた結果だと思っています。

思い起こせば、コンディショニングコーチという職業が日本国内で確立されていなかった頃にこの業界に飛び込み、プロ野球、メジャーリーグという最高の現場を経験させてもらいました。また、プロ野球界に入る前に、後にプロになるジュニア選手の指導にたくさん関わることができたことは、とても大きな経験です。そして何より、40歳を超えてから大学院で学んだことで、プロの現場で培った知恵と学術的な理論を、自分の中でちゃんと整理して重ね合わせることができたことも今後の財産になります。こうした自分の経験を、自分のコンディショニング施設のスタッフはもちろん、将来プロのコーチを目指す専門学校や大学の学生さん達にも、もっと還元していけたら嬉しいですね。

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あなたの“つくばウェイ”とは?

現場で培った知恵と、最先端の学術的理論を融合させ、新しい学びをたくさん与えてくれた場所。仕事を継続しながらの1年半の猛勉強は苦労しましたが、それでも入学する価値のある大学だと思っています。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

スポーツ界においては筑波大卒という経歴を持つことで世間から認められるチャンスが増える反面、下手なことは言えないプレッシャ―も感じるはず。大学の名に恥じないようにしっかり勉強し、日本や世界のスポーツ界に貢献しましょう!

プロフィール
立花龍司プロフィール
立花 龍司(たちばなりゅうじ)
1964年生まれ、大阪府堺市出身。少年時代から野球を始め、15歳で中学生年代の日本代表に選ばれる。全国優勝の経験を持つ強豪の浪商高校野球部に入部したが、在籍中に過重な練習による酷使から右肩を痛め、その後は大阪商業大学経済学部に進学したが、肩の痛みが抜けず大学3年の時に現役続行を断念し、コンディショニングコーチを志す。その後、天理大学体育学部でスポーツ医学の単位取得。学生時代から勤務した医療法人貴島会ダイナミックスポーツ研究所では、多くのプロ野球選手を育てた。1989年、コンディショニングコーチとして近鉄バファローズに入団。1994〜96年はロッテ、97年1月にメジャーリーグのNYメッツコーチ契約(日本人初のメジャーリーグコーチ)。同年オフに帰国し、ロッテと再契約。2000年10月末にロッテを退団し、2001年4月より大阪府堺市・阪堺病院SCA(ストレングス&コンディショニングアカデミー)での活動を中心に、講演・各メディア出演により、野球を中心とした幅広い層へコンディショニングの重要性について普及活動を始める。2004年には筑波大学大学院に入学し、スポーツ医学の研究にも携わる。2006〜07年、東北楽天ゴールデンイーグルスのコンディショニングディレクター、2007〜09年は千葉ロッテマリーンズのヘッドコンディショニングディレクターを務める。2011年11月より、「タチリュウコンディショニングジム」を主宰している。 タチリュウコンディショニングジムHP http://tachiryugym.com/
基本情報
所属:株式会社スポーツカンパニー
役職:コンディショニングコーチ
出生年:1964年
出身地:大阪府堺市
出身高校:浪商高等学校
出身大学:大阪商業大学
出身大学院:筑波大学大学院
所属団体、肩書き等
  • コンディショニングコーチ
筑波関連
学部:筑波大学大学院 2004年入学
プライベート
ニックネーム:タチ
趣味:自分のトレーニング、スポーツの映画を集めること
特技:アンチエイジング
尊敬する人:仰木彬、ボビー・バレンタイン
心に残った映画:アゲイン 28年目の甲子園、ルディ 涙のウイニング・ラン
好きなマンガ:水島新司の作品(「ドカベン プロ野球編」に登場したことがあります)
好きなスポーツ:野球
好きな食べ物:体に良さそうなもの
嫌いな食べ物:体に悪そうなもの
訪れた国:3カ国
大切な習慣:自分自身のトレーニング
座右の銘
  • なりたい自分を明確に

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