「ハンドボールの日本代表になりたい」との夢を抱いて筑波大進学に胸を膨らませていたが、入学直前、事故で右足を切断。1年間のリハビリ生活で絶望することなく、「陸上でなら、まだ可能性はある」と、パラリンピックを目指すこととなった。その夢は瞬く間に実現し、以降、リオに至るまで5回連続でパラリンピックに出場。競技者として、「まだ成長の余地はある」と2020年東京も視野に入れている。スポーツの持つ力は偉大だ。
中学時代に始めたハンドボールで、高校時代に国体3位という成績を収めたことで筑波大から推薦をいただきました。筑波大ハンドボール部は常に1部をキープしている強いチームでしたから、ここで鍛えて、いずれ日本代表になりたいという目標を持っていました。
推薦が12月に決まり、高校の卒業を1週間前に控えた時のことです。朝から晩までアルバイトをして疲れたまま友人たちとドライブに行き、僕の居眠り運転が原因でガードレールに突っ込んでしまいました。同乗者は軽傷で、自分だけが大きなケガだったのがせめてもの救いですが、その時に右足が壊死してしまって切断しなければいけなくなりました。
当時は全く知識がなかったので、3か月ぐらいすれば復帰できるだろうと思っていたら、リハビリが半年になり、1年になり……。心が折れそうになったこともありましたね。当時はハンドボールをやるつもりでリハビリをしていましたが、1年間考える中でハンドボールを続けることは現実的に難しいだろうと。義足となっても、陸上なら可能性があるのではないかと考えるようになりました。
入学手続きは済んでいたので、足のリハビリに専念するために1年間休学という形をとることを先生方が提案して下さいました。僕としてはハンドボール推薦で入学が決まっていたから、入学を断られるのではないかと覚悟していましたが、高校時代の先生と一緒に筑波大のハンドボール部の先生に謝りに行ったところ、「ハンドボール部のマネージャーもいいけれど、他に好きなことがあったらやってみなさい」と言って下さって。陸上部で練習をさせてもらえる道が拓けました。
当時、障がい者スポーツに理解がなかった時代に、筑波大には点字ブロックがあったり、一般の学群には電動車いすを使っている学生がいるなど、すでに受け入れ態勢が整っていたように思います。とはいえ体育専門学群で僕のような障がいを持った学生は初めてだったので、授業の実技はどうするかなど手探り状態でしたが、色んな先生方が協力して下さって何とか乗り越えることができました。
休学が明ける1カ月前に初めて走り高跳びに挑戦してみたら、たった1時間の練習で、当時の日本記録150㎝を上回る165㎝を超えることができたんです。これなら、パラリンピックも夢ではないと希望が湧きました。
思い返せば、小・中学時代に学校で開催された陸上記録会での成績が良かったので、県大会に出場したことがあったんですね。中学時代は県で2番ぐらいの成績でした。その経験のおかげでもともと背面跳びが出来ていたので、走り高跳びに抵抗なく入っていけたのかもしれません。
まさか競技を始めた年に日本代表としてパラリンピックに出場できるとは思わず、ただひたすらパラリンピック参加標準記録の173㎝を目指して練習していたら、始めてから3か月であっという間に185㎝まで記録が伸びました。今思えば、陸上部の先生が「障がいとか関係なく教えるから」と厳しく指導して下さったことや、インターハイ優勝者の先輩方など強い人たちに囲まれて練習に取り組めたことが、僕の競技レベルを上げてくれたのだと思います。
入部はできましたけど、練習にはついていけませんでしたよ。義足を付けたばっかりだったから、たいして走れなかったし、1年間トレーニングをしていなかったので女子に走りもウェイトも負けていたほどでした。3年生になって、ようやくみんなに追いついてきたという感じです。
教員免許を取りましたが、これは事故がなければ取ろうとは思わなかったでしょうね。ずっとハンドボール選手として生きていこうと思っていたので、教員免許は要らないと思っていたし、事故がなければ、おそらく授業は後ろのほうで適当に聞いていたと思います(笑)。でも1年間休学した時に「まさかということは起こるんだ」と気付いて、将来、指導者になる可能性もあるかもしれないと。だから、大学時代はかなり熱心に勉強した記憶があります。図書館に行って調べものをしたり、分からないことがあれば先生の所に聞きに行ったり。
そういえば図書館で陸上競技マガジンのバックナンバーをひたすら読みましたね。それと、先生方が書いたトレーニング方法をコピーして練習に生かしていました。
卒業した年にアテネパラリンピックが開催されたので、練習環境を変えないように科目等履修生として大学に残り、大学の施設を使わせていただきました。そしてアテネで結果が出せたら、プロのスポーツ選手になるためにスポンサー集めをしようと目論んでいたのですが、結果は6位。メダルを取ることができず、アピール材料が少ないながらも四季報を見ながら、ひたすら企業の広報に電話してメールしたんですよ。100社以上連絡した中で、実際会ってもらえたのは5社ぐらいでした。
大阪のインターネット会社に所属することになり、アディダスからはウェア提供、大塚ベバレジ(現:大塚食品)からはドリンク提供をしていただけることになりました。その3社の協力を得て、2005年4月から新たにスタート。引き続き、筑波大に在籍しながら競技を続けることにしました。
目標の1つだったので、とてもうれしかったですね。でも、周りの反応はいまいちだったかな(笑)。というのも、2004年のアテネまではそれほど世間に障がい者スポーツが浸透していなかったんです。ようやく2008年の北京パラリンピックぐらいから、記録を出せばマスコミに報じられるという環境になったのではないでしょうか。
中学・高校と陸上を本格的にやっていなかったから、同期と比べてまだ余力があったのかもしれません。それに当時は、いつ選手生活を終えようかなんて一切考えもせず、「もっと活躍して世間に僕のことを、そして障がい者スポーツの存在を知ってもらいたい」という気持ちしかありませんでした。
開幕式と閉幕式で旗手を務めさせていただいたので「メダルを獲らなきゃ」というプレッシャーで臨みましたが、数年前から患っていたジャンパー膝が完治せず、5位に終わってしまいました。でも、もしメダルを獲っていたら陸上を辞めていたかもしれないな、と思うんです。あの時まだ気持ちが途切れなかったからこそ、次のロンドンを目指そうと思えたのだと思います。
探求心や冒険心を持って、常に新しいことに挑戦することですね。同じやり方に固執せず、遊び心を持って実験するように色々なことを試した結果として、今の僕があります。例えば、今実践していることとして、サプリメントを取らないこと、スポーツドリンクを飲まないことなど。みんながやってるからやるではなく、自分に合うか合わないかを見極めることが何よりも大事だと思っています。
いえ、まだまだ。最近また新たな発見があって、アップ時間を以前の1時間から10分に短縮しました。これを思い付いたのは、ある日、子供を連れて動物園に行った時のこと。動物にワーッと注目する子供たちの横で、僕は冷静に動物の足を観察しながら「どうして彼らは肉離れしないのに、人間はするんだろう?」と考えてみたんですね。その時、「そうだ。人間は頭で考えるからだ」と。考えながら体を動かすと、どうしても動きにズレが生じますから、無心になって、なんならアップしないで試合に臨んだら結果が出せるのではないかという気持ちで、アップ時間の短縮を試みることにしました。
もうひとつ実践しているのは、年齢的に体力が下がってくることにあらがってウエイトトレーニングをやるよりも、コーナーの走り方をひたすら練習するなど技術トレーニングに力をいれることです。下がっていく体力を維持し、強化するよりも、上がっていく可能性のある技術をひたすら磨いたほうがいいですから。こうして16年、いつも新しいことに挑戦してきたからこそ、36歳でもいまだに現役を続けられるのだと思います。
やはり金銭面では苦労しました。2008年1月にメインスポンサーになってくれていた会社が倒産して、実質的な収入がゼロになったんです。講演会で全国を回るなどしていましたが、その年の3月に子供が生まれて。プロでやっていくと決めた以上、アルバイトをしてたまるかと意地を張っていた時期もありましたが、さすがにその時はプライドを捨て、クロネコヤマトのメール便の仕分けアルバイトなどをしたこともあります。スポーツで食べていく難しさを身にしみて感じた1年でした。
母校である駿台甲府高校系列の駿河台大学が、ハンドボールに力を入れるということでお話をいただきました。その頃、ロンドンパラリンピックを目指していましたが、ロンドンが終わったら32歳という年齢のことも考えて第二の人生を歩もうと。セカンドキャリアのためにハンドボール部の監督をするのは良い経験になると、快く引き受けました。
強い選手を集めて7部リーグからスタートしたハンドボール部が、どんどん上に上がっていくことは指導者としてやりがいがありました。ただ、どうしても昔の感覚がよみがえってハンドボールへの熱が強くなり、僕自身の陸上の練習がおろそかになってしまいましたが(笑)。
筑波大は自ら学ぶ場としてすごく良い環境なので、今度は障がい者スポーツの勉強をしたいとの思いで大学院に進むことにしました。選手として生きていると、自分の種目以外の情報がなかなか入ってこないので、将来的なことを考えて、もっと広く情報や知識を持つことが大事だと思いました。
「陸上の基礎は、どのスポーツにも適応できる」ということは、バルセロナオリンピックで活躍された陸上の杉本龍勇さんが、選手引退後にJリーグの清水エスパルスのフィジカルコーチに就任されたり、サッカー日本代表の岡崎慎司の専属コーチを担当していることで、改めて実感しています。筋肉をいかに動かしてパフォーマンスを上げていくかという技術面に関しては、陸上競技の研究が進んでいるのだと思います。駿河台大学のハンドボール部で指導していた時も、僕が陸上で修得した筋肉の使い方を生徒に指導したら、球が速く投げられるようになるなど成果が出ました。陸上競技の基礎は、すべての競技の基礎になることを思えば、これまで培った経験は僕にとって財産だと思います。
競技面では、東京パラリンピックまで選手を続けていたい。連続6回出場を果たして、40歳になる2020年に2m以上跳べる実力をつけていたいという目標を持っています。それ以降は2つの道を考えていて、陸上のパラリンピックのナショナルコーチとして後に続く選手を育てたいということ、もうひとつは、小学生の子を持つ親としてジュニアの指導に興味があります。
講演会で学校に行くと、最近は運動ができる子供、できない子供が二極化しているなと感じます。やればできる――というのは、うちの子供は3月生まれで、4月生まれの子供と比べてると一回り成長が遅いので、マラソン大会では60人中40番くらいでしたが、1年陸上をやっただけで10番台にまで上がりました。最初から「できない」と諦めるのではなく、やってみることで目に見える成果が出ることを、たくさんの子供たちに知ってもらいたいですし、スポーツを通して大きく成長させてもらった僕としては、全ての子が選手にならなくとも、支える側でも見る側でもいいから「スポーツは楽しい」という気持ちを残したまま、大人になって欲しいと思います。
あの素晴らしい環境を有意義に使えるかどうかは、本人次第。僕は大学時代から今に至るまで、日本一の環境で学べていると実感しています。
大学入学当初に「良い意味で、大学の先生を使ってください」と言われたことが印象に残っています。大学では、中学・高校と違って先生方から声をかけてくれることは少ないので、自ら歩み寄って欲しいと思います。
所属: | SMBC日興証券株式会社 |
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出生年: | 1980年 |
血液型: | A型 |
出身地: | 山梨県山梨市 |
出身高校: | 駿台甲府高等学校 |
出身大学: | 筑波大学 |
学部: | 体育専門学群 |
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研究室: | バイオメカニクス研究室 / アダプテッドスポーツ研究室 |
部活動: | 陸上競技部 |
住んでいた場所: | 春日四丁目 |
行きつけのお店: | ランラン、夢屋 |
ニックネーム: | とおるさん、とおるちゃん |
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趣味: | ゴルフ、スノーボード |
特技: | 球技 |
尊敬する人: | 三浦知良、イチロー |
年間読書数: | 20〜30冊 |
心に残った本: | 青春漂流 |
心に残った映画: | ラストサムライ |
好きなマンガ: | スラムダンク |
好きなスポーツ: | 陸上、サッカー、バスケ、ゴルフ |
好きな食べ物: | 焼肉、寿司 |
嫌いな食べ物: | 生野菜 |
訪れた国: | 20カ国 |
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