東京オリンピック・パラリンピック招致委員会の理事を務め、2020年の開催をつかみ取った立役者のひとり。教員志望で筑波大に入学したが、スポーツ社会学を学ぶうちに「もっと広い世界が見たい」と日本体育協会に就職。そこから独立した組織である日本オリンピック委員会で海外経験を積むにつれ、「日本のスタンダードは世界に通用しない」との現実を目の当たりにした。日本人が苦手といわれるロビー活動に必死に取り組むなど、彼の話からはアスリート越しではない、もうひとつのオリンピックが見えてくる。
中学・高校時代は陸上部に在籍し、110メートルハードルの選手としてそれなりの成績を収めていました。このまま陸上を続けるのであれば、目指すところは国立大の体育のトップである筑波大だなと。当時の教授陣には、メキシコオリンピックに陸上で出場された永井純先生や村木征人先生がいらして、そういったトップの指導者から指導を受けられること、そして陸上だけでなく色んな分野でトップの教員がいることも魅力のひとつでした。卒業後は教員になりたいという目標もありましたので、筑波大で教員免許を取ることも視野に入れていました。
最初に戸惑ったのは、大学の広さと不便さです(笑)。私が入学した1981年はつくば万博が開催される前でしたから、東京までの高速道路は途中までしか開通していませんでしたし、最寄りの駅を利用するにも、常磐線の荒川沖駅か土浦駅までバスで行かなければいけませんでした。そういった不便さに戸惑いを感じていましたが、大学内でスポーツと勉学に勤しむには最適な環境だと思いました。
3年生の時にスポーツ社会学を選択したのですが、当時、日本ではスポーツ社会学の世界的な研究者がそれほど多くはなかったので、授業ではアメリカの文献研究を使っていました。先生は、スポーツ社会学の権威である佐伯年詩雄先生。アメリカの文献を使った授業では、当然、授業のほとんどは英語で進んでいくので、ゼミに出る前に2日間ぐらい徹夜して、まずは英語を解読しなければならないなど大変さはありました。ただ、その時に英語を修得できたことは、その後、海外で仕事をするようになって非常に役立ったと感謝しています。
スポーツは社会の中でどういう位置づけで、地域住民や国民にどういう役割を果たしているのかといったことや、スポーツが日本や世界に与えるインパクトについて学びました。
一番印象に残っているのは、スポーツは政治に左右されてはいけないとの純粋な思いでいた学生の私に、先生方が、“スポーツがもたらす外交”といった現実的な話をしてくれたことです。例えば、1980年に開催されたモスクワオリンピックでは、アメリカや日本などの国が出場をボイコットしました。逆に、1984年のロサンゼルスオリンピックではソビエト連邦をはじめとする東側の国々が逆ボイコットをする。政治にスポーツが利用されることはオリンピックだけでなく、他の地域や大会でもたくさん起こっているのだと知り、それまで私が抱いていたスポーツに対する考え方や発想が180度変わっていきました。
自分から取りに行くと何でも手に入ることです。筑波大ならスポーツでも勉強でも、自分が学びたいという意欲さえあれば、かなりトップレベルの先生方から学ぶことができます。でも、たいていの学生は社会人になってから、「もっと色んな先生方とお付き合いをしておけば良かった」と気付くことになると思います。人間というのは、後輩や頼ってくる人に対しては教えたくなるものですから、積極的に先生方に聞きに行く姿勢、学びに行く姿勢を持って欲しいですし、私自身も、もっと積極的になっていれば授業料が有効に使えたなと卒業してから分かりました(笑)。
ずっと教員を目指していたのですが、スポーツ社会学での学びを通して視野が広がったのか、「もっと広い世界を見てみたい」という気持ちが芽生えてきました。当時、日本オリンピック委員会(以下、JOC)は日体協の一部で、日本のスポーツの全てを取りまとめていたのは日体協でしたから、「スポーツ政策を動かしていく立場になりたい」と日体協に入ることにしました。
最初はスポーツ指導者の養成事業を担当していました。一時期、日体協公認のスポーツ指導者制度が国の事業認定制度に変わった時は、カリキュラムを全部見返すなどスポーツ医学から社会学、生理学から歴史まで全てを勉強しましたし、陸上競技だけではなく、全40団体もの指導者を相手にしていましたから、それぞれの競技の専門性をとことん勉強する機会を得ました。あの時は、大学の時より勉強したのではないでしょうか(笑)。そして、各分野のスペシャリストの先生方と試行錯誤をしながら新しいカリキュラムとテキストを作成しました。
JOCが日体協から独立することになり、どちらに行くか希望を聞かれた際に、それまでは国内のスポーツに目を向けていましたから、今度は国際的なことに挑戦してみたいとJOC行きを決断。当初は選手強化を担当として、予算の配分や政策的な提案をしましたし、のちにスポーツ医科学を担当した際には筑波大の先生方と接点を持つこともできました。大学時代はそれほど色んな先生方と交流が持つことができなかったので、社会人になって改めて、先生方から学びを得ることができて嬉しかったですね。
それまで国内でしか仕事をしてこなかった私の常識が打ち破られました。海外に行かせていただく機会が増えるにつれ、私のスタンダードが海外の人には通用しないのだと実感させられましたし、海外と一言で言っても東南アジアやヨーロッパ、アメリカやラテンの国々などによって、それぞれ考え方が違っていて、宗教によっても変わってくるのだなと。
逆に世界で学んだ常識が日本で通用するのかというと、それも難しい。海外では会議でバシバシ発言しないと存在が認められないので、私も必ず手を挙げて発言していますが、日本では目上の人を前に自分の意見を言い過ぎると、「なんて無礼なんだ」と思われてしまいます。そういった日本と世界の価値観を理解し、経験を積み重ねた集大成がオリンピックの招致活動だったと思います。
最初の招致活動で足りなかったのは、世界にいる約100人もの国際オリンピック委員会(以下、IOC)の委員と信頼関係を築けなかったことです。オリンピック招致は2年間で完結する特殊なミッションです。組織作りに始まり、大会計画を作って、それを売り込んでいくというマニュアル通りのことだけをやっていたのでは、招致を成功させることはできません。なぜなら最後に投票するのは国ではなく、IOCに所属する委員個人だからです。国の政策に関わらず、個人が自由にどの国が開催地にふさわしいかを見極めてボタンを押しますから、いかに個人と親密になるか、どうやったら理解してもらえるのかということが重要になってきます。
2020年の招致の時は、最後の1年間、IOC本部のあるスイス・ローザンヌに拠点を移しました。IOC委員である約100人は75カ国に散らばっていますが、そのうちの4割は欧州出身者。IOC本部を訪問する機会もありますから、そこを狙って彼らが滞在するホテルに足を運びました。事前にIOC委員それぞれの国の環境や仕事、宗教といった背景を理解し、さらには経歴や家族構成、趣味など徹底的に調べた上で、いざ会話に臨むと必ず共通項が見つかります。
例えば具体的に実践したこととしては、アフリカのIOC委員と打ち解けるために、彼らと同じ民族衣装を着用して心の壁を取り払ったこと。そして、欧米社会では家族付き合いをしないと信頼関係が築けないので、家内に1年間、休職してもらって、ローザンヌを拠点として2人で活動をしました。家内はフランス語と英語が堪能ですので、英語でのやり取りを好まないフランス人の委員から好意的に見ていただけたと思います。
男性同士はけん制し合ってなかなか本音を打ち明けませんが、ガールズトークという言葉があるように、家内と女性の委員や、男性委員の奥様方とざっくばらんにファッションや料理の話で盛り上がるうちに、「主人(委員)が、こういうこと言っていた」と誘致に関連することを教えてくれたことも多々あります。
こういったロビー活動が必要不可欠だということは、マニュアル通りにしかできなかった2016年誘致の失敗があったからこそだと思います。
はい。後ろのほうの席に座っていました。「トーキョー」という言葉を聞いたときは、嬉しさよりも「やっと終わった……」という安堵の気持ちのほうが大きかったですね。最後の2ヶ月間はほとんど毎日、飛行機で移動しながらロビー活動をしていましたから。時差ボケが何なのか分からなくなるぐらい、あっちこっちへ移動してヘトヘトだったんです。会場にいた家内からは「もう少し喜んだら?」と言われましたよ(笑)。
私がよく言っているのは「オリンピックは東京だけのものじゃない。オリンピックを利用して地域を活性化させていきましょう」ということ。トーチリレーも47都道府県を通りますから、じゃあ、誰にどこを走ってもらうだとか、合宿誘致にしても、どこの地域に、どこの国の何の競技の選手を招くのかといったことを、自治体からも積極的に提案していただくよう促しています。
思えば1964年の東京オリンピック後、日本は一気に高度成長に突き進みましたが、今はなかなか国民全員が1つの目標に向かって一丸となれる時代ではないですし、ハードばかりを作る時代でもない。開催地は東京だけれども、東北の人たちは震災からの復興、地方都市は経済の活性化を図るなど、もっと地方をアクティブにさせるためにオリンピックを利用して欲しいと思います。
ボランティアとして参加するのも良し、仕事のチャンスを探るのも良し、選手のサポートをするのも良し。同じ国で夏のオリンピックがもう一度開催されることは、自分たちが生きているうちにはもうないかもしれない、そんな歴史的な2020年に我々は生きてるんだと意識して、それぞれの人生の1ページを描いて欲しいですね。
日本のスポーツ界が国際化していくために、これまでの私の経験を活かしたいと思っています。これまでの封建的なやり方では世界に対抗できない、というのも、日本人が外交下手である1つの結果として、かつて1987年に国際卓球連盟の会長に就任した荻村伊智朗さん以降、日本人では国際競技連盟の会長が生まれていません。
意外と大事なのは、私がオリンピック招致で実践したような信頼関係の構築です。欧米人が交流の場として重要視しているレセプションやパーティでは、日本人同士で集まらない、パーティの途中で帰らないなど海外の方の姿勢を取り入れていくなど、もっと世界のスタンダードに目を向けて、日本の良さを生かしつつも新たなスタンダードを構築していくことが、今後さらに重要になってくると思います。
結果だけを出せばいいとの考え方ではなく、アスリートも指導者も人間性が伴っていることが大切なので、“ナショナル コーチ アカデミー”を立ち上げてトップの指導者養成をしています。その他にも“アスナビ”という、選手の就職支援やキャリアアップを支援するアカデミーを開催しています。選手として活躍した後の人生に不安感を抱えている選手は、ぜひ門を叩いて来て欲しいですし、私たちも力になりたいと思っています。
自由さ。自分が求めれば手に入る、素晴らしい環境が筑波大にありました。
人間は自分の好きなことには積極的ですが、嫌いなことには挑みません。でも、そこをブレイクスルーすることで、また違う展開が広がるので何事にも果敢にアタックして欲しいです。
所属: | 公益財団法人日本オリンピック委員会 |
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役職: | 広報・企画部 部長 / 東京2020開催準備室 室長 |
出生年: | 1961年 |
血液型: | AB型 |
出身地: | 愛知県豊川市 |
出身高校: | 愛知県立国府高等学校 |
出身大学: | 筑波大学体育専門学群 |
出身大学院: | 筑波大学大学院 |
学部: | 体育専門学群(1981年入学) |
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研究室: | スポーツ社会学 |
部活動: | 陸上競技 |
住んでいた場所: | 谷田部 |
行きつけのお店: | とんかつ太郎 |
ニックネーム: | やす |
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趣味: | ゴルフ、音楽鑑賞(クラシック) |
尊敬する人: | 佐伯聰夫(スポーツ社会学) |
年間読書数: | 100冊 |
心に残った映画: | 007シリーズ |
好きなマンガ: | ルパン三世 |
好きなスポーツ: | 陸上、ゴルフ |
好きな食べ物: | 和食 |
嫌いな食べ物: | 内臓系 |
訪れた国: | 70〜80カ国 |
大切な習慣: | ご先祖様にお祈りすること |
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