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宗田スライダー

日本女性のヘルスリテラシーを向上させたい

Professional
2017/04/10
インタビュー
  • 77
医療法人社団HiROO 理事長 / 広尾レディース 院長
宗田 聡
(医学専門学群 1982年入学)

もとは教員志望だったが、運命に導かれるように医者の道へ。新人時代は、3日間ほとんど眠れなくても大変だとは思わなかったと当時を振り返るが、アメリカ留学などを経て、日本人の働き方やヘルスリテラシーについて疑問を抱くように。現在、個人クリニックの経営と並行して本の執筆やウェブサイトの監修を手掛ける中で、彼が伝えたいこととは何だろう?

血や生き物が苦手だった私が医者に

筑波大を目指したきっかけを教えて下さい。

私は茨城県の水戸第一高等学校出身で、先日芥川賞を受賞した恩田陸さんは1年後輩にあたりますが、小学校の頃は親の転勤で土浦に住んでいたこともあります。亡くなった父は常陽銀行の研究学園都市支店の支店長でした。

当時、小学生だった私は、できたばかりの筑波大の陸上グラウンドで凧揚げして遊ぶなど馴染みがあり、筑波大の存在を身近に感じていたことがのちのち大学選びの中で筑波大を志したきっかけになっていると思います。

医学専門学群に入学されていますが、いつ頃から医者を目指そうと?

もともとは小学校の教師希望だったので、大学受験では教育系の学部を中心に考えていました。共通一次試験(現センター試験)の結果が自分が思っていたよりも良い成績だったので、国立大では医学部に挑戦してみようと無謀に思ったんです。もちろん、少しでも合格できるチャンスを考えて、当時、筑波大医学専門学群の二次試験が小論文だけだったこともあり、駄目元で受験したら受かってしまったという感じですね。

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小論文の内容とは?

アメリカの科学雑誌『サイエンス』やイギリスの学術誌『ネイチャー』の日本語訳の記事を読んで、それについて答える小論文でした。高校でも習わないような最先端の記事でしたから、思考能力さえあれば、専門的な知識がなくても良かったというか。むしろ知識がない人のほうが、自由な発想で小論文が書けたのではないかと思います。

その後、2日目に個人面接、3日目の集団面接ではグループ内での協調性をチェックされて、無事合格。そういった面白い試験を経ているので、私の学年の前後には独創的な学生が多かったように思います。

印象に残っている学生はいますか。

3学年上には、現在、筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構長を務めている柳沢正史先生がいらっしゃって学生の頃から超秀才との噂が我々の学年まで届いていました。体育専門学群でいうと後輩にあたる学年にサッカーの井原正巳さん、中山雅史さんが在籍するなど個性の強い学生がひしめきあっていたイメージがありますね。

当時、新設されて約10年の医学専門学群はどんな雰囲気だったのでしょう?

1、2年目は寮でしたし、一般教養の授業では体育や芸術の人とも一緒になりましたから、医学だけでなく、他学類との横のつながりも強かったですね。医学専門学群自体も上下の学年の交流が意外と多く、学年を超えて顔を知ったり、クラブの先輩後輩で一緒に食事や飲みにいったりと非常に連体感も強かったように記憶しています。平砂宿舎の近くに当時医学の学生がよく溜まっていたお店もあって、そこに教授なども現れて一緒に飲んだりしていましたね。

将来については、どう考えていましたか。

もともと医者を目指したわけではなかったですし、そもそも血や生き物が苦手で魚釣りすらできないほどでしたから、将来が不安でしたよ(笑)。

いわゆる医者がダメだったら違う道、例えば映画『ジュラシック・パーク』の原作者で医学ドラマ『ER』を書いた作家であるマイケル・クライアントが医学部出身だと知っていたので、彼のようにテレビや映画制作のほうにいくのもいいなとも考えていました。彼は医学博士号を取得してハーバードを卒業してるんです。ただ、なぜか人の血だけはきれいだなと思えて、結局はそのまま医学の道に進むことにしました。

大学時代、バックパッカーでヨーロッパへ行かれていますね。

21歳の時、バックパッカーの旅から帰ってきた先輩の影響でヨーロッパを周遊しました。それまで国内でも飛行機に乗ったことがありませんでしたが、必死にアルバイトをして夏休みに1か月半、イギリス、フランス、ドイツ、ベネルクス3国、イタリア、オーストリア、スイスを回り、宿泊費を浮かせるために3日に1回は夜行列車で移動。この初めての旅は衝撃的で、大学卒業の年にもう一度行きました。

その時に、観光案内をしながらその日暮らしをしている日本人ガイドに出会って「私もこういった生き方をしてみたい」と憧れましたが、父に「本気で海外に住むなら、一度日本に帰って荷物をまとめて行け」と言われて、渋々帰国。でも一度日本に戻ると簡単には出ていけないもので、そのまま先輩方に誘われるがまま医者として働くことになりました。

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なぜ産婦人科医になろうと?

消去法と言ったら怒られるかもしれませんが、外科系は体力が必要で、特に消化器外科には柔道部出身の先生が集まっていたので、雰囲気も怖くて私はついていけないなと。内科には頭の良い先生が多いので、出来の悪い私はそこにもついていけない。耳鼻科や眼科には細かさや几帳面さが必要とされますが、私は大雑把でだらしない(笑)。最後に残った選択肢は泌尿器科と産婦人科だったので、産婦人科にしたといったところです。もちろん、産婦人科であれば女性を対象にスポーツ医学から予防医学、子供から年配の方まで全部なんでも見ることができる魅力もありました。

その後、1992年から95年まで大学院へ。

大学院を卒業してから、96年から2004年までは筑波大の講師として医学生の授業を担当したり、若いお医者さんの手術や診療の指導をしていました。今のお医者さんは自分の日常生活を大事にする人も多いですが、当時は自分が担当している患者さんを最後まで見るのが普通だったので、週に何日も家に帰れなかったり、とにかく忙しく働いていた記憶しかありません。

それは大変だったでしょうね。

いや、とにかくやりがいがありましたから、3日間まともに眠れていなくても大変とは感じなかったです。当時は自分だけでなく、同僚や後輩たち皆なが、勤務時間外でも興味のある緊急手術があれば自主的に残って手伝いをしていましたから。

まさにプロの仕事。

自分が仕事としていることに関しては、誰かに言われてやるのではなく、分からなければ分かるように調べること。対価をもらっている以上、相手に満足してもらえるように時間外であっても自分のスキルに磨きをかけること。そのことが大変なこととは一切思いませんし、これはどんな職業にも当てはまることではないでしょうか。

上司や先輩からの指示を待って受け身でいることは、「プロフェッショナルではない」と私は思います。

アメリカ留学を通して知る“日本”

36~37歳でアメリカ・ボストン留学は自らの意思で?

はい。バックパッカーをして以来、ずっと留学願望を持っていました。大学の医学部によっては年齢順に留学ができることもありますが、当時、筑波大の産婦人科教室では留学する先生が少なく、自らチャンスを作らなければ海外に行く機会を得られなかったので、せっせと年に一度の国際学会に演題をだしては参加していました。講師として働いていた時に、文部省在外研究員という明治時代から続いている制度にアプライするチャンスをいただき、それまで毎年参加していた国際学会で知り合った海外の先生方との縁も重なって、留学することができました。

留学先のボスだったビアンキ教授は、国際学会で知り合ってから仲良くなり、私の留学先として歓迎してくれたことで、ボストンのTufts大学に遺伝医学特別研究員として在籍することになりました。

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どんな生活を送っていましたか。

医者の海外留学というと、20代後半から30歳の若いお医者さんが自らの実績を上げるために行くことが多く、真面目に研究室にこもって実験や研究をして論文を書いている人がほとんどです。私の場合はすでに医学博士もあり、講師としてのポジションを得ていたので、ほとんど家族と過ごす時間やアメリカ生活の探求に費やしていましたね(笑)。

アメリカ人が9時~17時でパッと仕事を切り上げるのは有名な話ですが、そんな現地の人から「君は我々より先に帰るよね」と言われたほどです。

とはいえ、異文化に身を置いて学んだことも多かったのでは?

そうですね。まず、外から日本を知る機会にもなりましたし、アメリカには日本のように“察する”という文化がないので、はっきりと自分の意見を言わないと相手に通じない。でも、おおらかさがあって色んな人間を受け入れてくれる、そういった環境で生活できたことはとても良い経験になりました。また、近隣のMGH(マサチューセッツ総合病院)の女性医学教室の検討会に毎週参加させていただき、周産期メンタルヘルスといった女性の妊娠・出産・産後の心と体の医療に触れることができ、帰国後の女性の健康に関する医療の立ち上げにつながっていきました。

海外から日本を見て感じたこととは?

「日本人は働き過ぎ」と言われて、昨今では国がルールを作り、一律で働き方の習慣を変えようとしています。一方海外は、ベンチャー企業のアジア担当者で、サンフランシスコの自分のアパートに1年のうち10日ぐらいしか帰れないほど忙しく飛び回っている人もいれば、自分の時間や家族との時間を大切にしながら働いている人もいる。つまり働き方に多様性があるんですよね。

日本ももっと柔軟性をもって、キャリアアップしたい人はがむしゃらに働けばいいし、自分の時間が大切な人は9時~17時で働いて、その代わり「部長になりたい」なんて都合の良いことを言ってはいけないと思っています。最近の日本の風潮を見ながら、そんなことを感じています。

たしかに、日本はまだ働き方について模索をしている段階といえます。

先ほど、3日間ほとんど眠らずに働いても大変だと思ったことはないとお話しましたが、海外で生活をしたせいか、「日本の習慣」や「日本人の変化」については心を悩まさせることも多いです。

具体的には?

例えば2004年、県内の重症な妊婦さんが集中して搬送されてくる水戸の茨城県周産期センターのトップをしていたのですが、2年で退職に至った経緯にこんなことがありました。

その頃からとにかく産婦人科医が少なく、人が生きるか死ぬかの環境を3、4人で任されて、しかも私と組んでいたのはまだ専門医の資格(医者になって5年経って試験を受けてとれる資格)すら持っていない若手のみ。そのため月に20日以上は病院で寝泊まりしていました。そのことで、当時の大学教授には随分と人員増員を懇願してましたが、当時はまだその危険さや問題の大きさを教授ばかりか社会もあまり認識してなかったんですね。それでもやりがいがあれば苦にならなかったのですが、その頃から患者さんやご家族の多くが、お産を終えた後でさえ「ありがとう」と言ってくれなくなり、感謝や笑顔が消えていって権利主張やクレームが増えていって、どうも少しずつ日本、そして日本人は何かが変わってきたなと感じだしたのです。

そんなご経験があったのですね。

「私が年をとったからそんなことを感じるのだろうか」「時代の変化だから仕方がない」と言い聞かせても、やはり寂しいものです。しかも「ありがとう」は減って、かわりにクレームが多いのですから心が、気持ちがすり減らされていきます。きっとそれが産婦人科医のなり手が少ない要因でもあるかと思います。医療に対してお金を払って終わりではなく、やはり医者も人間ですから「感謝されて嬉しい」「人の役に立っている」と感じられないとモチベーションを上げて仕事を続けていくことができません。

それで退職をされて起業し、2012年には広尾クリニックを開業。

2年間の周産期センターでの激務は体調も崩し、心も疲弊して、続ける意欲がなくなっていました。退職後、警備保障会社の大手であるセコムさんから声をかけていただき女性専用のクリニックの院長として仕事を再開しました。震災後に、セコムさんがクリニックから撤退することになって、今の自分のクリニックを立ち上げました。現在はクリニックと並行して、ヘルスケア関連の企業さんのアドバイザリーや監修などもさせていただいており、例えば「ルナルナ」という生理周期を記録するアプリの会社でアドバイザーをしたり、セブン&アイのsaita(サイタ)というサイトのコンテンツの監修などもしています。

今の活動を通して伝えたいことは?

『31歳からの子宮の教科書』(ディスカバー、2012年刊)、『これからはじめる周産期メンタルヘルス~産後うつかな?と思ったら』(南山堂、2017年刊)など出版物にかかわる理由として、日本女性のヘルスリテラシーの向上をはかりたいと願っていることにあります。高学歴の人でも、日本人女性は自分の体や健康に関して著しく知識が低いですから、そのことに対して警鐘を鳴らしたいですし、もっと正しい健康知識をもってもらいたいとの思いを強く抱いています。

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そのために実践されていることはありますか?

先ほどお話したヘルスケア関連のアプリや企業のウェブサイトの監修もそうですし、2014年に設立されたベイビー&バースフレンドリー財団(BBFF)の理事として、まずは企業の働く女性に対する健康意識を変えるための働きかけをしています。

昨今は、妊娠、出産、子育てしながら働く女性が多いですから、そういった女性たちが健康で笑顔で働けるような環境作りをしていくためには、やはり企業にも努力してもらわなければと思っています。

あなたの“つくばウェイ”とは?

既成の枠がなかった当時の筑波大で、自由にわがままに、多くのことを学ばせてもらい、面白い学生との出会いも今の私を形成しています。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

大学で教えていた頃、学生たちを見ながら「もっと一歩を踏み出して何事にも挑戦して欲しい」と思っていました。周りには色んな学群や研究所などがありますから、枠や壁を自分で作らずに、もっと自由に行き来をしましょう!

プロフィール
宗田プロフィール
宗田 聡(そうださとし)
1963年生まれ、茨城県出身。茨城県立水戸第一高等学校を卒業後、筑波大学医学専門学群に進学。卒業後は産婦人科医として勤務。1996年には筑波大学の講師として臨床・研究・教育に力を注ぎ、1999年から2年間は文部省在外研究員としてアメリカに留学。帰国後は茨城県周産期センター長を歴任。2012年には都内に広尾レディースを開業し女性の健康に関する啓蒙活動も積極的に行う。著書は『31歳からの子宮の教科書』など多数。現在、広尾レディース院長。日本周産期メンタルヘルス学会評議員。また筑波大学、首都大学、東京慈恵会医科大学などの非常勤講師としても活躍。https://www.facebook.com/sato.sohda/
基本情報
所属:医療法人社団HiROO / 広尾レディース
役職:理事長 / 院長
出生年:1963年
血液型:O型
出身地:茨城県水戸市
出身高校:茨城県立水戸第一高等学校
出身大学:筑波大学
出身大学院:筑波大学大学院
所属団体、肩書き等
  • 筑波大学非常勤講師
  • 首都大学非常勤講師
  • 東京慈恵会医科大学非常勤講師
  • 医学博士
  • 日本産科婦人科学会認定医
筑波関連
学部:医学専門学群 1982年入学
研究室:大学院:遺伝医学教室(濱口研)
部活動:医学バドミントン部
住んでいた場所:春日4丁目
行きつけのお店:クラレット、大成軒、フライパン
プライベート
ニックネーム:さとさん
趣味:旅行
特技:速読
尊敬する人:坂本龍馬
年間読書数:200-300冊
心に残った本:砂の女(安倍公房)
心に残った映画:おくりびと
好きなマンガ:キングダム ( 原 泰久)
好きなスポーツ:テニス
好きな食べ物:肉全般、桃、卵料理、プリン
嫌いな食べ物:牡蠣
訪れた国:20数カ国
座右の銘
  • 【行雲流水】 こううんりゅうすい

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