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洋田スライダー

今の仕事のスタートは筑波大にあり

Professional
2017/09/25
インタビュー
  • 91
作曲家、映像プロデューサー
吉川 洋一郎
(自然学類 1976年入学)

大学時代に舞踏グループ「山海塾」と出会い、ワールドツアーに同行。理系専攻を経て、作曲家・映像プロデューサーとして幅広く活躍する。「仕事のスタートは筑波大」といい、現在は筑波大のブランディングにも関わる吉川洋一郎さんから見る筑波大の魅力とは?

「山海塾」に出会い音楽の道へ

筑波大を目指したきっかけは?

大学案内を見て、楽しそうだったのが1つと、実家が四国なのでとにかく東京圏の大学に行きたかったんです。その時は関東の事情を全然知らず、東京教育大の大塚キャンパスで試験があったので「大学に入ったらここに通うんだな」と思っていました。

当時、つくばではなく大塚に通うと思って受験した人が多かったと聞きます。

東京の真ん中だし楽しそうだなと。友達も東工大とか慶應を受けていたので「じゃあ、東京に行ったら会おうぜ」なんて言っていましたね。

いつ頃、違うと気付いたんですか?

入学式に向かう時、牛久沼の横を電車で通りまして「あれ、違うぞ」と。一度も下見をしていなかったんです。てっきり試験を受けた茗荷谷だと思って入学を決めて、入学式に向かったら、すごい原野の中に入っていって…。当時のつくばは、まだ工事中の道があったり、ぬかるみがありましたから。

宿舎は追越の学生宿舎で、初めての夜は筑波おろしの「ヒュ〜」という風の音を聞きながら「淋しい〜」と思いました(笑)。

筑波大では自然学類で、地球科学を専攻。授業で印象に残っていることは?

地球科学専攻ということで、筑波山の奥の洞窟に柘榴石を取りに行ったり、千葉の海岸で長靴を履いて地層を掘って、貝の化石を取り出して泥だらけになったことを覚えています。

授業以外では、サークル活動で筑音協(筑波音楽協会)に入って、仲間とバンドを組んでいました。

3歳からピアノを習っていたそうですね。

自宅にテープレコーダーや多重録音装置があったので、中学生くらいから作曲を始めて。のちにソニーでプレイステーション2の2波長集積レーザーを開発した、高校の1つ上の先輩と曲を作って聽かせ合ったり。そんな中・高生時代でした。

幼い頃から親しんだ音楽とはあまり関係のなさそうな、理系の学問を専攻した理由は?

音楽って理系というかすごくロジカルで、音符とか譜面って数式に近いんです。意外と、理系出身の音楽家って多いんですよ。

在学中から「山海塾」と共演。その経緯を教えて下さい。

総合造形という芸術の授業で、“空間劇場”という総合的な踊りもあり音楽もありのイベントを大学会館前広場でやることになり、それに参加したんです。芸術学群の石原くん(現・株式会社ポケモン代表取締役社長)や、体育専門学群のダンスチームなど、いろいろな学群の人が集まっていました。そのイベント企画で山海塾を呼ぼうという話になったのです。

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気軽に呼べるものなのですか?

当時は山海塾もできたばかりで。メンバーも僕らと同世代でまだ学生団体的な雰囲気だったので「じゃあ共演しよう」と意気投合した感じでした。

その頃、進路など将来についてどう考えていましたか?

音楽でやっていこうと思っていました。在学中にもジャズクラブでピアノを弾いて、音楽でお金をもらったりしていたんです。

ちょうど山海塾がワールドツアーをスタートするという時で「お前も一緒に行く?」と。いきなり給料をもらってヨーロッパ公演に行かせてもらいました。1年間という長期間ツアーで大変でしたけど。

どんなツアーだったのでしょう?

ヨーロッパの10数ヵ国で、1年間110ステージの公演をしました。最少人数でのツアーだったので、舞台を作って公演してバラして積んで移動して……を繰り返しながら。

そのツアーに他の筑波大の方は?

先輩の一人が、そのヨーロッパツアーにも一緒に行く予定だったのですが、直前に「俺は教員になるから行かない」と言い出して。僕を引きずり込んだ張本人なのに、彼は行かなかったんです。それが、岩下徹さん。結局は今も山海塾で踊っているし、舞踏ダンサーになっているんですけれど、当時は、一旦は迷いがあったようですね。

ご両親は音楽の道に進むことに対して、どんな思いを?

大反対でした。何やってるんだか分からなかったんでしょう。田舎に住んでいて、音楽や芸能界の情報は全くない時代でしたから。だから、28歳のときにNHKの大きな番組音楽を担当するまでは、僕は「ヨーロッパ留学している」ということになっていたみたいです(笑)。

そのNHKのお仕事はどういうご縁で?

『地球大紀行』というNHKスペシャルの番組です。出版企画会社に勤めていた筑波大の1つ上の先輩がNHKからの依頼で作曲家を探していて。僕に声がかかってコンペで通りました。

その仕事依頼に対して、どんな気持ちでしたか。

びっくりしましたけど、その当時は戸川純さんとバンド(「ヤプーズ」)をやっていて、すでにある程度、業界では認知されていました。彼女はテレビ番組『笑っていいとも』にレギュラーで出演していたりと、とても活躍していて、彼女のユニットということで『朝日ジャーナル:新人類の旗手』など雑誌の特集記事になったり。僕自身、戸川純さんと一緒に活動している人と認識されていたように思います。

それが1985年。その頃、山海塾のツアーは?

その頃にはもう作曲家として活動していました。山海塾も85〜86年頃には、2年に一度、パリ市立劇場と組んで新作を制作発表するようになったので、新作制作の時は約3ヶ月くらいかけて作品を作って。曲作りには参加していましたけど、その後のワールドツアー全部には一緒に回らなくなりました。

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『地球大紀行』テーマ曲は番組放送後に全世界で放送され、数年後に印税売り上げが日本一に。そのことに対し、1992年JASRAC賞国際賞を受賞。当時、これほどまでに大きな反響になることを予想していましたか。

いやいや、作った時はもう必死でヘロヘロでしたから、全く予想していませんでした。ちなみに、その時のJASRAC賞国内賞はチャゲ&飛鳥さんの『SAY YES』だったことを覚えています。

開かれた大学で培われた国際感覚

これまでのお仕事で印象に残っていることは?

ロンドンフィルとレコーディングの仕事をした時、ヴァイオリニストがものすごくいい音のする楽器を持っていたんです。「これは17世紀のもので、300年間もうちに伝わるヴァイオリンなんだ。曾おじいちゃんの前の前の前の時代から代々ヴァイオリニストで」と。

日本の僕らの知っている音楽の歴史とは違って、西洋音楽の人達は伝統や守っているものが違うのだなと。実際に“モノ”で見せられると、なかなか敵うものではないことを実感させられました。

西洋音楽と日本音楽の違いに気付いた。

僕らは僕らでできることがあるんじゃないかと。ずっと関わっている舞踏は、日本の能や歌舞伎など伝統的なものもルーツとして持っているので、それはそれで全世界に波及していく力があります。そうしてお互いに、ワールドツアーなどでいろいろな影響を与え合って。すごく面白い時代になったと思います。

ヨーロッパ経験が、ご自分の作曲に影響を与えた?

現地のオーケストラに友人が大勢いるので、「レコーディングでこういうことをしたい」と話すと「じゃあコーディネートしてあげるから来れば」と言ってくれる。そういう友達付き合いで音楽が作れるようになって良かったと思っています。

コンタクトをとるのは今でこそネットで簡単になったけれど、もう何十年も前から電話で相談をしたり、直接、現地で「一緒にやろうよ」みたいに気軽な付き合いができているのは嬉しいことです。

筑波大のブランディングにも関わられ、メッセージソング「IMAGINE THE FUTURE.」の作曲を担当。

震災後の5月に発表で、その1年ちょっと前から動いていました。曲を作って、シンガーソングライターの村上ゆきさんにデモを歌ってもらって。それを聴いた広報室の方が「せっかくだから式典で演奏できるよう管弦楽団用に」ということで、そのためのスコアも書きました。

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作詞の一倉宏さんは一期生で、当時の筑波大をイメージして詞にしたそうです。吉川さんのイメージは?

在学中から留学生の友達もいましたし、筑波大には国際的なイメージがあったので、国を問わず皆で合唱できる曲にしたいなと。「IMAGINE THE FUTURE.」の英語ヴァージョンなど、後々、様々な言語で歌われることを期待して、どの国の人も自然に歌える曲にしたいと思って作曲をしました。

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筑波大の非常勤講師も担当。ご自身が学生だった頃との違いは?

担当授業は全学群が共通で受けられるので、複数の学群の人が集まって、一緒になってワイワイやっているのは昔から変わらないな、筑波大的だなと思って見ています。変わったことといえば、やはりTXができて便利になった、東京から通えるというのが一番ですね。

筑波大で良かったと思うことは?

今の仕事のスタートは筑波大にあります。山海塾に出合ったのも、40年以上も一緒に仕事ができる仲間に出会えたのも全て筑波大から。おそらく都心の大学だったら、そういうことは起きなかったかもしれません。学校が終わった後も皆でワイワイ飲んで、それぞれ宿舎も近い。一緒にいる時間が長いので、そこから生まれる特別なものってあるんじゃないでしょうか。そこが筑波大らしさを生むのでしょうね。

今も同級生に会いますか。

しょっちゅう会いますよ。都内で映像会社をやっていたり、似た業界で仕事している人も多いので「何やってる? たまに飲もうよ」という付き合いができています。

今でも、楽しい筑波大ライフを送っているのですね。

はい(笑)。大学で授業もすることができ、これがまた楽しい。今年はこれを作ろうとか学生たちと一緒に盛り上がり、そんな作品が一昨年にはACC賞を取りました。今の20歳前後の人たちが何を考えているのかに接することができる機会は貴重だと感じています。

事前のアンケートで書いて頂いた“口ぐせ”が、「さあ、曲作るか」だそうですが。

音楽は子供の頃からずっと作っていたし、いまだに新しいものが次から次へと生まれ、変化し続けている。やっていて今も楽しいです。

産みの苦しみはあまりない?

長い曲を作る時には物理的な量で苦しむことはありますけど、基本的に曲作りに迷いはないです。曲を作る時、今はパソコンに向かっていますが、スイッチを入れて時間が経つと自動的にできている、という感じでしょうか。

特に悩むこともなくするするすると自然にできているので、「ああ楽しい」「今日はこんなのができた」の連続ですね。

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では、今後のビジョンを教えて下さい。

コーライティングという新しい最先端の作曲方法に挑戦しつつあります。インストゥルメンタル曲ではヒットがあるんですが、歌のヒットがまだない。NHK『みんなのうた』の『ラジャ・マハラジャー』とか少し知られた歌もあるけれど、歌ものの曲はバンドやっていた頃の5〜6曲しかなくて。だから、カラオケで皆が歌える曲を作ってみようかなと。それで大ヒットを出すのが近いところの目標です。

あなたの“つくばウェイ”とは?

“開かれた大学”。留学生がたくさんいて、オープンマインドで、あらゆる人種や文化の違う人たちと一緒にモノを作ることを学びました。今でもそうしたオープンさを持ち続けています。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

楽しいところです!本当に。

          

協力:アバコクリエイティブスタジオ

プロフィール
洋田プロフィール
吉川 洋一郎(よしかわよういちろう)
1957年生まれ、香川県出身。筑波大学第一学群自然学類に入学。筑波音楽協会に所属し、在学中から舞踏グループ「山海塾」の活動に参加。1980年初めての「山海塾」ワールドツアーに同行し、現在も舞台作品の音楽制作及び映像プロデュースを手がけるなど長きに渡り関わりを持つ。1985年にはNHK「地球大紀行」のテーマ曲を作曲し、世界で最も多く聞かれた日本の曲として1992年度のJASRAC賞国際賞を受賞。また2010年には母校・筑波大学のメッセージソング「IMAGINE THE FUTURE.」の作曲を手がけ母校のブランディングにも協力。現在IO-factory,inc.代表取締役、作曲家、映像プロデューサーとして活躍中。個人HP:http://www.yoichiroyoshikawa.com
基本情報
所属:有原会社アイオー・ファクトリー
役職:代表取締役
出生年:1957年
血液型:O型
出身地:香川県
出身高校:香川県立丸亀高校
出身大学:筑波大学
筑波関連
部活動:筑波音楽協会
行きつけのお店:筑波で初めてのジャズライブ喫茶「アクアク」を共同で主催していました。
プライベート
趣味:作曲・ゴルフ
特技:作曲
尊敬する人:モーリス・ラヴェル
年間読書数:150冊
心に残った本:村上春樹さんの初期の作品
心に残った映画:毎週2本は映画館で封切りの作品を見ているそのすべて。「生きる」黒澤明
好きなスポーツ:ゴルフ
好きな食べ物:カレー
嫌いな食べ物:納豆
訪れた国:40カ国以上
大切な習慣:作曲
口癖は?:さあて曲作るか
座右の銘
  • 毎年新しいジャンルの仕事に挑戦する

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