つくばウェイ 〜 筑波大OB & OGの生き様をみちしるべに 〜TSUKUBA WAY ロゴ画像

  1. つくばウェイinstagram
  2. つくばウェイtwitter
  3. つくばウェイFacebook
sawadaスライダー

世界に胸を張って「自分は日本人だ」と言える国作りを

Professional
2018/04/23
インタビュー
  • 104
外務省 経済局 経済連携課 兼 投資政策室 首席事務官
澤田 修孝
(国際総合学類 1996年入学)

大学に入るまでは何も考えない、大好きな水球ができればよい、そんな青年だった。ところが、たまたま入った国際交流学類で国際経験豊かな学友たちに触れたことが、飛躍のきっかけに。卒業後、外務省に入省し東日本大震災、ISによる人質事件対応に尽力。その活躍の裏には大学時代、思わず目を背けたくなる自身のコンプレックスに向き合った経験が活きているようだ。

国際経験豊かな学友に触れ、コンプレックスを抱いた

筑波大を目指したきっかけを教えて下さい。

高校時代は部活動の水球に熱中していたので、高校3年の秋に引退してから大学受験にとりかかったのですが、勉強が追い付かず、このままでは行ける大学が絞られてしまうなと。そんな時、筑波大第三学類国際総合学群の後期試験なら二次試験は小論文と面接だけというのが目に留まって。これはいいなと思ったのが筑波大を受験したきっかけです。

国際関係は、興味のあった分野だったのでしょうか?

いいえ、特に高尚な志望動機があったわけではなく、なんとなく楽しそうだなといった程度でした。広島出身の私の目には、東京から程近いつくばは魅力的に映りましたし。だから、大学に入った当初は「しまった!」という感じでしたよ。自分の地元よりも田舎で、しかも当時はTXがなかったので、東京駅から高速バスに乗っていく“陸の孤島”のような場所でしたから。

国際総合学類に入学してみて、いかがでしたか。

授業の三分の一は英語だったにもかかわらず、私は英語が得意ではなかったので帰国子女や留学生に対してコンプレックスを抱きました。当時の自分からすると、周囲は経験豊かな人たちばかりで、自分の小ささを実感させられたんです。いかに自分がものを知らないか、考えてこなかったかと。

それが理由であまり学群のイベントには参加せず、水泳同好会であるとか他の学類の授業を取って、国際総合学類とはやや距離を置いた大学生活を送っていましたね。

距離を置くことで何か見えてきたものはありますか。

日本国外に目を向けていた同級生に反発するかのように、自分の内面を掘り下げていくことに興味を持ちました。「自分はどういう人間なんだろう?」と、自我、自意識を掘り下げることに意識が向いている、かなり内省的な学生だったと思います。

将来についてどう考えていましたか?

それまで何も考えていない学生でしたが、大学の授業で日本国外には違った文化や社会の中で生きている人がいて,理想論やきれい事だけでは済まない国際政治の現実を学び、そこで得た知識を卒業後に生かせるような仕事に就きたいと思うようになりました。

また,広島県出身ということもあり、仕事を通じてより平和な世界の実現に貢献したい、さらに英語に対する苦手意識も克服したいなど色々考え抜いた末、外務省を目指すことに。大学2年の頃に決めて勉強を始めました。

無事、試験に合格。外務省に入省して最初の赴任先は、中東アフリカ局ですね。

中東地域と日本との関係を扱う中東アフリカ局で、エジプト、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、ヨルダン、シリア、レバノン、イスラエル、パレスチナを担当する第一課に配属されました。そこで中東和平に関わる業務に携わった他、2003年にアメリカの対イラク武力行使が起きた後は、それを受けて中東地域との対話をどのように進めるのかといった業務をしていました。

2年後にシリアへ。

在外研修といって、外務省に入った際に割り振られた語学、私の場合はアラビア語でしたけど、それを学ぶためシリアに2年間滞在しました。

アラビア語は英語みたいにアルファベットではないので、文字を一個一個覚えることはとても大変でしたね。教材として幼稚園向けの絵本を使っていたんですよ。2年間でなんとかニュースを聞いたり、新聞を読んだり、日常生活ができる程度になりました。

その後は?

研修の一環として、一年間ボストンのタフツ大学フレッチャー法律外交大学院に留学しました。研修が終わった後はサウジアラビアの大使館勤務になりました。

その時はどんな仕事をされていたのでしょう?

情報収集が主です。東京にある外務省の本省と大使館の関係は、企業でいうと本店と支店のような感じで、外交政策の方針を作るのは本省、その政策を作るための判断材料となる情報を収集するのが大使館の役割です。

例えばサウジアラビアとの二国間関係を考える時、そもそもサウジアラビアが何を考えているか分からないことには政策は作れませんよね。サウジアラビアが政治分野、経済分野、社会分野でどういう政策なのか、アジア地域に対してどういうスタンスで臨んでいるのかといった情報を集めてから、外務省が政策を立てるといった流れです。

どんなご苦労がありましたか?

サウジアラビアは他の国と違って王国なので、あらゆる意思決定は全て王族が握っています。しかし、王族には非常にアプローチしづらい。彼らから情報を得ることは大変苦労しました。

どんな風にアプローチしたのか、興味があるのですが。

大使館で勤務していると、現地のアメリカ大使館やイギリス大使館のパーティに招待をされて、そこにはサウジアラビア人も来ています。最初は挨拶から、そして気が合いそうだと思えば自宅に招待をしてお酒をふるまいます。

パーティの来るようなサウジアラビア人は海外経験のある人が多く、なかにはお酒が好きな人もいるので、自宅でお酒を酌み交わしながら最初は気楽な話から。そして、数カ月が経った頃に政治の話を。それが第一歩といった感じですね。

勉強ができる、仕事ができるといった能力だけじゃない、コミュニケーション力が求められる仕事ですね。

私自身、学生時代に海外に行ってコミュニケーションをとってきたわけではなかったので、最初は苦労しました。それに、プライベートと仕事の境目がないので気が休まる瞬間がありません。それでも一度、時間をかけて作り上げた人間関係が歯車のように回り出すと面白さがあって。先輩からも「ハマれば楽しいよ」と言われていましたが、その通りでした。

東日本大震災で情報の集約と対策を担当

これまでの仕事を通して、特に大変だったことはありますか。

まずは2011年、総合外交政策局にいた頃に経験した、東日本大震災です。地震の翌日、映画『シン・ゴジラ』にも出てきた危機管理センターという、総理官邸の地下にある一室に各省庁の連絡役(リエゾン)が集められ、私は情報の集約と対策を担当しました。

その時、外務省が求められていた業務の一つが東北地方に住んでいる外国人の安否確認です。とはいえ被災地の情報が全然入ってこないので、情報収集には苦労しましたし、現地の様子が分からない中で、各国が派遣した緊急援助隊の現場での受け皿をどうするかを考えることは事情に苦労しました。

日本中が大混乱の中、その渦中にいたのですね。

断片的に深刻な情報が入ってくるだけで、全体像が見えない。それにどう対応すれば良いのか考えることは、なかなか大変でした。

特に福島の原発に関しては、各国から「日本は大丈夫なのか」と問い合わせがあったので、海外向けの説明を日々アップデートしながら伝えなければいけません。先が見えないながらも、海外に対しては彼らが納得、安心できる説明をしないといけませんから、そこが非常に難しいところでした。

それは大変な任務でしたね。

もう一つ大変だったことは、2013年に再び中東アフリカ局勤務になった時に起こったISによる邦人の人質事件です。速報でニュースが入ってきた瞬間から、物事がものすごいスピードで動いていきました。ISという前例のない組織による拉致誘拐事件、先が見通せない厳しい状況の中、人の命がかかっている――そういったプレッシャーを感じたのは初めての経験でした。

これまで色んなご経験をされていますが、仕事でのこだわりを教えて下さい。

バランスですね。この仕事に就いたきっかけが、そもそも英語に対する苦手意識を克服したいという思いだったように、私自身ものすごく自分に強みがあるとか、これは誰にも負けないというものは、特にありません。

それでも自分の中で心がけてきたのは、“仕事は総合力”だということ。色んなもののバランスを上手く図りながら、物事を進めていく。これが仕事においては大事なことだと思います。

なるほど。

それと、仕事はチームプレーで行うものなので、自分以外の人が気持ちよく仕事できることも大切にしています。特に役所の仕事は意見がぶつかってケンカ腰になることもあるのですが、相手を言い負かしたり論破した時点で仕事としては失敗。相手に、物事をうまく勧められたと満足してもらえるように仕事を進めることが大事です。

お互いが良い思いをすることも大切です。例えばこちらが80を取って、向こうが20というまとめ方は上手くないやり方。理想はこちらが52、53くらい取って、向こうが46、47を取る。そして相手に60ぐらい取ったと思わせることが、上手いまとめ方だと思います。

相手を負かすことが必ずしも正解ではない。

人は論理では動きません。人を最後に動かすのは“感情”なので、たとえ論理で勝ったとしても相手に感情的なしこりが残ってしまっては良くないですよね。それよりは、論理はかっちりしてなくても、相手がその気になって乗ってきてくれるようなやり方が大事なのではないかと、これまでの経験から学びました。

なぜなら、仕事で関わっている人たちはパートナーですから。同じゴールを目指して仕事をしているはずなので、もちろんこちらとしても譲れない部分は大切にしつつ、折り合いを取っていくことが大事かなと思います。

今後のビジョンを教えて下さい。

今の日本は、私が幼少時代のように常に右肩上がりという時代ではありません。人口という数字でいうと縮んでいくことが見えている中で、その国に住む人として世界に胸を張って「自分は日本人だ」と言える、そういう国作りがしたいです。次世代にもこの国を誇りに思ってもらえるような環境を残せていけたらいいなと思います。

今振り返って、筑波大で良かったことはありますか。

国際交流学類は日本と海外の関係や、海外で様々な活動をすること、外に目を向けるきっかけを作ってくれましたが、それではなく、私の場合は自分自身に対する気づきといいますか。色んな友人との出会いにより、彼らが私の合わせ鏡となって私自身の人格や価値観の輪郭、自分が何者であるか、一体どういうものを大事にして、何が譲れないかを考えさせてくれました。

最初は地元の広島より田舎で愕然としましたが、田舎にある大学だからこそ、自分自身を掘り下げて考えられる場所と時間がふんだんに提供されたのかもしれないなと。今振り返れば、そう思います。

あなたの“つくばウェイ”とは?

自分を知る。自分自身を意識し、自分は何者なのかを考えさせてくれた、大人になるためのステップでした。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

自分では意識していない可能性に気付かせてくれる環境なので、目的がはっきりしている学生はもちろん、まだ自分の可能性に気付いていない人にこそ筑波大に来てもらいたいですね。

プロフィール
sawadaプロフィール
澤田 修孝(さわだのぶたか)
1978年生まれ、広島県出身。私立広島学院高等学校を卒業後、筑波大学第三学群国際総合類に進学。高校時代に水球をしていた経験から在学中は水泳同好会に所属。卒業後は外務省に入省。入省後は中東アフリカ局中東第一課、在サウジアラビア大使館、総合外交政策局国連企画調整課、軍縮不拡散科学部軍備管理軍縮課、中東アフリカ局中東第二課で国際環境の整備を図る役割を担う。現在、外務省 経済局 経済連携課 兼 投資政策室 首席事務官。
基本情報
所属:外務省 経済局 経済連携課 兼 投資政策室
役職:首席事務官
出生年:1978年
血液型:B型
出身地:広島県広島市
出身高校:私立広島学院高校
出身大学:筑波大学
出身大学院:タフツ大学フレッチャー法律外交大学院
筑波関連
学部:国際総合学類
研究室:中川八洋ゼミ
住んでいた場所:天久保三丁目
行きつけのお店:香辛飯屋
プライベート
ニックネーム:ジュリー
趣味:水泳
尊敬する人:勝海舟
年間読書数:20冊
心に残った本:一瞬の光(白石一文),快挙(白石一文),村田エフェンディ滞土録(梨木香歩)
心に残った映画:Before sunrise, Before sunset, Before midnight
好きなマンガ:寄生獣(岩明均),マスターキートン(浦沢直樹)
好きなスポーツ:水泳,スキー
好きな食べ物:ミートソース,カレー
訪れた国:30カ国程度
大切な習慣:寝起き寝る前のストレッチ
口癖は?:なかなか難しいよねえ-。
座右の銘
  • 人間万事塞翁が馬

New Column

Facebook