企業で働きながら筑波大学大学院に通う毎日は、「感動の連続だった」と相原さん。恩師の背中を追うように自らも研究者の道を志し、恩師がそうであったように、東京オリンピック・パラリンピック招致に尽力するなど社会と接点を持つことに重点を置いているという。「夢を与えられる大人でいたい」と今度は自らが手本になる立場として、夢と希望に溢れた背中を学生に見せている。
電通パブリックリレーションズで働いていた30歳の頃、仕事を任される立場になり、やりがいを感じながらも時間に忙殺される日々を送っていました。会社では飲料、自動車、建築、製薬会社など色んな業種のクライアントと仕事をしていましたが、よくよく考えてみると「自分の専門って、一体何だろう?」と。そして先輩や上司の姿を見て「自分が40歳になった時、彼らのようになるのかな」と思うと、何か物足りなさを感じてキャリアアップを考えるようになりました。
サッカービジネスの修士論文を書いてMBAを取ろうと願書を取りに行った時、ふと目にしたポスターで田嶋幸三さん(日本サッカー協会会長・FIFA理事)が筑波大で教えていることを知りました。田嶋先生と言えば“ドーハの悲劇”でNHKの解説をされていた方だという印象を強く持っていたので、「彼の教え子になれるチャンスだ」と。すぐに願書を取り換えて、体育研究科のスポーツ健康システム・マネジメント専攻に進むことにしました。
修士論文を書く時期に、僕が在籍していた田嶋先生のゼミと河野一郎先生(東京オリンピック・パラリンピック組織委員会副会長)のゼミが合同で論文に取り組むことになったのですが、当時2人共にJOC(日本オリンピック委員会)の理事などで、多忙を極めながらも、世界で体験してきたことを惜しみなく教えて下さいました。河野先生の授業で印象に残っているのは、今後の日本スポーツを語る中で、当時まだオリンピックのオの字も出ていない2006年にすでに東京オリンピックについて考えていたこと。国家の一大イベントを興そうとしている先生の構想を目の当たりにし、感銘を受けたことを今でも覚えています。
さらに驚いたことに2人とも日本を代表して世界を飛び回る多忙な業務をこなす中、学生に対して嫌な顔ひとつ見せずフェアに接して下さいました。そのような姿勢が備わっているからこそ、世界を相手にしっかりとしたネゴシエーションとコミュニケーションで信頼関係を築くことができるのだなと。2人の生き様に接したことは、なによりも最高の教材でした。
そうですね。しかも、今をときめくサッカー監督である井原正巳さん(アビスパ福岡監督)、三浦泰年さん(カターレ富山監督)が学生としてS級(日本サッカー協会指導者ライセンス)を取りに来ていたので、授業で一緒になることもあったんです。授業では、「国交のない国で開催されるサッカーの試合に、いかに円滑に選手を送り出すか」など印象的なテーマについて話し合うなど、みんな一生懸命に課題に取り組んでいましたし、あの経験があるからこそ今の私があると思います。
仕事を早めに切り上げて、18時20分開始の授業に間に合うよう学校に行っていました。同級生には省庁職員や公務員、病院関係者もいましたし、僕のような企業人もいて。仕事を通じて出会うと絶対に本音では交じり合わない職種の人たちが、同じ釜の飯といいますか、同じ課題を一緒に解決することでチームワークを築き、そして授業の後には必ず飲みニケ―ション(笑)。壁はすぐに取れて、年齢も職業も超えた本音トークができたことは本当に貴重でしたし、青春時代の仲間とつるむ感覚をもう一度味わえた経験となりました。
12時まで飲んで、次の日は朝から仕事、そしてまた18時20分の授業に参加する生活を繰り返した中で、効率よく仕事をすることも身につきましたしね。
会社で仕事をしている場合じゃないと思うほど授業が楽しかったのと、修士論文を書く頃、1冊目の本を出せることが決まり、執筆に時間をかけたかったので退職を決意しました。
古田敦也さんが選手兼任監督になった時に始まったプロジェクトで、5人呼ばれた民間人のうち、僕は集客マーケティングを担当しました。大学院の論文で日本スポーツのCSR(企業の社会的責任)について書いていたので、それをもとに実践したのが“Make Friends”。神宮球場の空席を子供たちに提供するために東京都の“いじめ撲滅プロジェクト”に声をかけ、東京都や小学校のPTAに声をかけて集客をしました。
筑波大時代にお世話になった河野先生にお声をかけていただきました。2016年招致の事務総長として先生が神宮球場にプロモーションに来られた時、突然、僕の携帯が鳴りまして「今、神宮球場にいるから会いに来なさい」と言うんです。急いで駆けつけると「オリンピック招致の手伝いをしないか」と。こっちは願ったり叶ったり、もう泣きそうなぐらい嬉しかったですよ。
開催地決定まで2年間と時間は限られていましたが、日本全国の祭り会場で東京オリンピックのプロモーションをする担当として、高知のよさこい祭り、青森のねぶた祭り、札幌の雪祭りなど全国各地に足を運びました。
発表されるまでは絶対に勝つ気でいて、会場のあるコペンハーゲンに2週間前から先陣を切って乗り込んで準備をしていたんですが、今考えると甘い部分がいっぱいありました。50年前に一度開催したとはいえ、現代のオリンピックは様相が変わってきていますから、1からしっかり戦略を組むには時間も足りませんでしたし、ロビー活動も十分ではなかったなと。
発表当日、コペンハーゲンの市庁舎前には各国の応援団が詰めかけてパブリックビューイングが行われていたのですが、東京が負けたという情報が流れると、日本の応援団や一部の招致関係者はパニック状態に陥っていました。マスコミ対応や祝勝会を残念会へ変更するなどの緊急オペレーションを施し、しばらく混沌としていましたが、石原知事が登壇すると、応援団が「石原さん、もう1回やってくれ!」と熱いメッセージを送るなど、次に向けてのすごく良いイベントになりました。
その場は泣く暇もないほど忙しかったんですけど、帰りの飛行機で憔悴しながら「どうすれば勝てたのだろう? 次はどうやったら勝てるだろうか」と、ひたすら考えていましたね。
2012年から福山大学経済学部准教授を務めていたので参加する予定はなかったのですが、招致委員会が福山大学へ就任要請の依頼状を送付してくれたので、2013年7月、出向という形で東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会特別アドバイザーに就任しました。
その年の9月に開催地が決定するまでの約2か月間で、一番印象に残っているのは東京都庁で開かれた出陣式を演出したことですね。
開催地が発表されるブエノスアイレスでの総会に送り出すために、安倍(晋三)首相、猪瀬(直樹)東京都知事、滝川クリステルさんなどが都庁の会議室に来るとなった時に、各省庁など政財界、スポーツ界の方々をどう配置するかが大きな問題で。政界は政界、財界は財界、スポーツ界はスポーツ界である程度の並び順は決まっているのかもしれませんが、それが一同に揃うことはあまりない機会です。各部署の担当者と毎日話し合いながら、これだ!という配置を決めたことはとても印象深い経験でしたし、それ以降もその配置が使われていたのを見ると、我ながら「良い仕事をしたな」と(笑)。
安倍首相自ら率先してトップセールスを行い、政治主導にしたこと。それに伴って政治家や官僚が動いたこと、産業界、それに大学にいた僕のような学者まで呼んでオールジャパン体制で臨んだことが勝因でしょうね。
もう一度思い返して欲しいのは、なぜ東京に招致をしたかということです。東京に再びオリンピックを!との声が上がった2008年の日本は、1991年から経済低迷が続いた「失われた20年」の真っ只中で、日本国中に閉塞感があった頃です。生まれてから一度も経済成長したことがない社会しか知らない学生は、夢も希望もあったもんじゃなかったですし、若者の趣味が“貯金”という時代。それに対して大人は「夢を見なさい」なんて無責任に言う、とても強引な社会でした。それほどまで“陰”な空気が渦巻いていた時代に、日本の首都・東京でオリンピック開催の目標を掲げることは、すごく“陽”な戦略のはずだったんです。
しかも、デザインがどうだ、建築がどうだといったスポーツ業界から離れた問題が頻出している。スポーツをやっている人にとっては、ようやく日本に最高のスタジアムができるはずだったんです。コンサートもスポーツもできる可動式の屋根をつけて、世界のスタジアムがそうであるようにVIPルームや冷房を完備し、最高のスタジアムを見せつけることで、アジアの人たちに「日本のようなスタジアムが欲しい」と思わせれば、それを輸出するなどいくらでも展開できたはず。それなのに、目の前のお金の話で最高のスタジアムを作ろうとしていた志を失ってしまうのか?と。
日本のスポーツ界にとって千載一遇のチャンスを、一部のメディアやネット民の意見に負けて諦めてしまうなんて、おかしなことだと思いながら見ているのが私の本音です。
2019年のラグビーW杯、2020年の東京オリンピック・パラリンピック、そして2021年はワールドマスターズゲームが関西で開催されることになり、しかもアジアで初めての開催となります。スポーツ トリプルイヤーと呼ばれるゴールデンイヤーを世界で初めて迎えるわけですから、日本人のスポーツに対する意識を加速させることが大切ですし、関西における都市魅力を推進することが今の課題。ビジョンとしては、スポーツをきっかけに人、モノ、お金を呼び込める強い大阪を作ることが私の目標です。
2015年4月から大阪経済大学人間科学部准教授に就任したので、大阪市の経済戦略局スポーツ部門に話を聞きに行ったところ、ぜひ協力して欲しいと要請がありました。大阪市だけではなく、大阪府からも就任依頼状で要請を受けました。在阪1年目で、まだ44歳の僕に任せてくれた大阪には今すごく勢いがありますから、オリンピック・パラリンピックの後に「思い切りやってやろう!」と一丸となっています。それにしても、東京オリンピック・パラリンピック招致委員会以降、偉い方から就任依頼状をいただく機会が増えましたね(笑)。
あまり日本だとか、東京に対抗する大阪という内向きな視点で考えてはいませんね。これからの時代はもっとグローバルに考えなければ、世界で存在感を示しているアジア諸国に負けてしまうと思います。関西の狭いコミュニティ内で潤えばいい、関西色を打ち出すといった考え方を捨てて、日本の大阪ではなく“アジアの大阪”としてグローバル競争に勝ち抜く。2021年が、そのきっかけになればと考えています。そうでないと、いつまでも東京の2番手に甘んじてしまいます。
柔道家であり、教育者である嘉納治五郎先生の言葉、“自他共栄”の精神を胸に、これからも実践的な行動をしていきたいです。自分の心身の力を価値あることに使い、自分も他人も共に栄えていくという意味を持つこの言葉は、大学教員として学生と接する機会を得たことで、より心に沁みるようになりました。
筑波大の恩師たちが背中で見せてくれたように、研究者でありながら社会と深く関わっていくことは不可能ではないので、今後は大学とは違う世界でいかに成長できるかが重要だと思っています。理論だけを語る型にはまった学者でなく、実践経験が伴った学者となり、筑波大の恩師にして頂いたように、私の経験を学生に余すところなく教えて自他共栄を目指していきたいです。
フロンティアスピリットです。スポーツや勉強など学ぶ目的を持って門をくぐってくる人が多いので尊敬できるし、私も何か新しいことをしなければと刺激を受けました。
筑波大生は群れない強さを持っているので、卒業生と出会うのは“希少価値”。これから社会で活躍していく筑波大出身者と出会う機会を楽しみにしています。
所属: | 大阪経済大学 |
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役職: | 准教授 |
出生年: | 1971年 |
血液型: | AB型 |
出身地: | 東京都北区 |
出身大学院: | 筑波大学大学院 |
学部: | 筑波大学大学院 体育研究科 (2004年入学) |
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研究室: | スポーツ健康システム・マネジメント専攻 |
心に残った本: | 燃えよ剣(司馬遼太郎著) |
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好きなマンガ: | スラムダンク(井上雄彦著) |
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