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バスケ漬けの僕を「バカだなぁ」と笑った筑波の仲間のおかげで、人として成長できたと思います

Sportsperson
2016/04/22
インタビュー
  • 10
大阪府立東住吉総合高等学校 バスケ部顧問
元プロバスケットボール選手
清水 耕介
(体育専門学群 2000年入学)

漫画『スラムダンク』の影響を受け、衝動的にバスケットボールの世界に飛び込んだ少年がここにもひとり。
ストリートで仲間と自由気ままにプレーする楽しさを覚え、高校時代には全国大会でベスト4入りを果たすまでに。
筑波大学卒業後はドイツに1年のバスケ留学、そしてドラフト指名を受けてbjリーグ入りと、メインストリームを歩んできた。
ところが突然、プロ生活にピリオドを打ち、現在は母校・大阪府立東住吉総合高等学校(当時は東住吉工業高校)バスケ部の顧問として、選手を育成する側に回っている。
「一生バスケに携わりたい」からこそ、プロの道を捨てた彼の信念は実に骨太だ。

大学時代の出会いが僕を変えた

バスケを始めたきっかけは?

小学6年生のとき、友達の家で『スラムダンク』を読んだのがきっかけです。当時はバリバリの野球少年で、体格もよくピッチャーで4番を任され、リトルリーグの監督から勧誘されてもいたので中学でも野球を続けるつもりだったんですが、マンガの影響で公園のバスケットボールリングでスラムダンクの真似をしてみたらすごく面白くて。野球を続けて欲しいという親の反対を押し切って、中学ではバスケ部に入部しました。ストリートで友達と楽しみながらプレーするっていう、最初の入り口が良かったんだと思いますね。

中学校での成績は?

中学2年の時に大阪府選抜に選出されて、ジュニアオールスターという全国大会に出場しました。そこにはミニバスからずっとバスケをしてきた同世代の仲間がいたので、プレーはもちろん、彼らと将来について話を交わすことが刺激的でしたね。
とくに、松藤という同じ年の友達はバスケだけじゃなく勉強もできて、「将来の夢は教師になること」なんて言うから驚きました。僕を含め、当時中学生でバスケをしてた人のほとんどが「実業団やNBAでプレイしたい」という少年らしい夢を持っていましたから、「なんで教師なんかになりたいんだろう?」と。

彼の意見はこうでした。「(当時)バスケには野球のようにプロリーグがないし、実業団に行けるのはほんの一握り。行けたとしても30代で引退して、その後、企業に残ればバスケに関われない人生を定年まで過ごさなきゃいけない。でも教師ならバスケにずっと携われる」と。その手があったか!と衝撃を受け、僕も教師を志すことにしました。
その後、彼は進学校に進み、今は企業でバリバリ働きながら実業団でバスケを続けています。一方、彼に影響を受けた僕が教師をしているから、人生って不思議なものですね。

中学時代の印象的な出会いを経て、バスケの強豪校だった東住吉工業高校に進学。

当時の東住吉工業高校は全国ベスト8に必ず入る、大阪府ではダントツ1位の強豪校でした。僕の在籍時の最高成績は全国ベスト4。3年生のときに副キャプテンとして臨んだウィンターカップでチーム過去最高成績を収め、しかも優秀な選手に贈られるベスト5にも選ばれました。

その後、推薦で筑波大学へ。大学ではどんな活躍をされましたか?

高校時代に結果を残した自信もあって、すぐに試合に出られるだろうと思っていたら1年目はまったく試合に出る機会をもらえなくて。先輩たちがスゴすぎて、僕なんて全く必要とされていなかったんです。「高校でベスト4に行けたのは、自分の実力じゃなくチームメイトに恵まれていただけなんだ」と思い知らされて、ホームシックにもなりました。同じ推薦枠で入部した清水太志郎(ライジング福岡所属のプロ選手)をはじめ、同級生にも実力を見せつけられましたしね。

そんな時、高校時代の同級生たちが関西で活躍するニュースが耳に入ってきました。バスケは関東の大学のほうがレベルが高いんですが、僕の同級生は僕以外全員、関西の大学に進んだので、当然彼らは1年のうちからレギュラーとして活躍していて。インカレで久々に会ったら、向こうはレギュラーなのに僕はベンチに座ってるだけ。ものすごく悔しかったです。どう頑張ったら試合に出られるだろうって悩んで苦しんだ1年でしたし、悩むばっかりでスキルが上がらなかった1年でもありました。

その状況をどう打破したんですか?

僕が1年生のとき、一部リーグから二部リーグに落ちてしまったんですね。それは筑波大バスケ部にとって史上初か2回目かというぐらい珍しいことでした。
そこで、筑波大OBの日高哲朗先生(千葉大学教授)をヘッドコーチとしてお招きすることになって。その日高先生との出会いが、僕のターニングポイントです。
先生が僕を3ポイントシューターとして育てて下さり、それを武器に2年目でようやく試合に出られるようになりました。2年生になってからは春のトーナメント、秋のリーグをぶっちぎりで優勝して、二部の1位になり、一部に返り咲くことができました。インカレでは、一部リーグの1位に君臨していた青山学院に勝ってベスト8になりました。

良い指導者との出会いで、眠っていた能力に気付くことができたんですね。

そうですね。とはいえ、そう上手くいかせてくれないのが人生で、3年生になったときに選手生活の中で一番の挫折を経験しました。「3ポイントを磨け」というチームのコンセプトに反して、僕は「もう3ポイントは修得したから」と、別の技も身につけようと欲張りになってしまって。結局、どれも中途半端になってしまい、ポジション争いに負けてしまいました。1年間はほとんど試合に出られず、あれほど落ち込んだことはないです。仲間も僕に気を遣って「頑張れよ」という言葉すらかけづらいほどでしたから。

ただ、落ちるとこまで落ちたら、とにかく練習するしかない!と気持ちを切り替えて、それからは猛練習しましたよ。体重も8キロ絞って、人生で一番必死に努力した時期だと思います。そのぶん体力的にはギリギリだったけど、ダンクができるようになるなど、とにかくストイックでした。ちょうどコーチが変わるタイミングでもあったので、新しいコーチにアピールできるよう必死にあがいてましたね。

筑波大学での送った生活を振り返って、いかがですか?

バスケばっかりやってましたけど、当時、僕の部屋に遊びに来た父に言われて印象に残っているのは、「人として成長した。まず読んでる本が変わった」と。たとえばバスケ部の仲間に勧められて村上春樹を読んだように、筑波にはスポーツだけじゃなく勉強や読書することにも力を入れて、物事を深く考えている人が多いんです。

もし僕がどこかの体育大学に行って、どっぷりバスケ漬けになっていたら競技成績はもっと良かったのかもしれないけど、一方で広い視野を持つ友人に出会うことはなかったかもしれません。バスケ部のメンバーでいうと、8割以上が一般入試で入った生徒。バスケしかやってこなかった僕は物事を知らなくて、みんなに「バカだなぁ」って笑われたりもしまたけど、そこで恥ずかしい思いをしたことが僕を人として成長させてくれたと思います。

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生徒の前で「俺、日本一獲るよ」と宣言

大学卒業後、ドイツにバスケ留学することになった経緯を教えてもらえますか

大学2年のとき、トースティン・ロイブルというドイツ人コーチとの出会いがありました。筑波大に招いて練習を教えてもらったのをきっかけに、在学時に3週間ほどドイツのケムニッツ99ersというプロチームの練習に参加する機会を与えてもらったんです。そして卒業後にトースティンを頼ってドイツへ。卒業の翌年に日本でbjリーグが設立されるという話があったので、その間、武者修行のような気持ちで海を渡りました。

ケムニッツ99ersにはアメリカ人選手も在籍し、チーム内の共通言語は英語。言葉には困らなかったし、「遠い日本からよく来たね」って最初は歓迎もされたけど、みんな完全なプロ集団で実力主義。公式戦シーズンになって僕の実力がみんなのレベルに達していないと、あからさまにバスが回ってこないというニガい経験もしましたね。

1年後、日本でbjリーグのトライアウトを受け、埼玉ブロンコスに入団。ドイツでの経験が活かされたと実感したことは?

ドイツで身についた“自己主張”が試合の中で活きました。昔、サッカーの岡田武史さんがインタビューで「日本のスポーツ選手はもっと自己主張をしたほうが良い」と言っていたことを思い出しましたが、ドイツ帰りの僕は、日本人選手には珍しく自己主張ができるようになっていて。それがプレースタイルにも表れたし、試合中、瞬時に自分の頭で考えて行動することもできました。結果、1年目でbjリーグの日本人得点王になることができたので、ドイツに行ったことは間違いではなかった、と。

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とはいえ、プロ生活には4年でピリオドを打ちました。選手としてはピークのタイミングだったと思うんですが。

僕は、大学生活の“4年”というサイクルは、人が次のステップに進むためにちょうど良い年月だと思ってるんです。だから卒業後、ドイツで1年、bjリーグで3年、プロとして計4年が経つ頃に今後の人生と日本のバスケの現状を見ながら「プロとして残るか、次の道へ進むか」を、とことん考えました。そこで僕が出した結論は、中学時代の友達が教えてくれたように「一生バスケと携わる道を進もう」。教員試験に向けて勉強を始めて、一発合格しました。

バスケ部の指導者としては順風満帆でしたか?

いえ、それが全然。僕としては母校の東住吉に戻って、当時弱くなっていたバスケ部を立て直そうと勝手に意気込んでたんですけど、公立高校の人事は僕の希望通りに行くわけもなく。いざ蓋を開けてみたら「阪南市の泉鳥取高校に赴任しなさい」と。正直「それ、どこ!?」というぐらいノーマークの学校でしたから(笑)、インターネットで調べてみたらバスケ部も強くない学校だったので、大きな不安を抱えて教員生活に飛び込みました。最終的に6年間赴任しましたが、あの時の泉鳥取での経験がなければ今の僕はなかったと思えるほどの出会いに恵まれました。

その出会いとは?

まず、尊敬できる先輩との出会いですね。僕より30歳も年上の先輩たちが保護者や学校と戦いながら、生徒と真剣に向き合っている姿を見て、教師とは何たるかを学んだ気がします。

教師って、楽しいことよりツラいことのほうが多い職業だと思うんです。教員同士の関係性に悩むこともあるし、期待をかけていた生徒が突然やる気をなくしてしまって、ショックを受けたこともありました。でも不思議なことに9回嫌なことがあっても、たった1回、生徒から嬉しい思いをさせてもらうことで全てが良い思い出になるんです。その1回に励まされながら、なんとかここまでやって来れました。

その1回が、すべてのモチベーションになるんですね。

その通りです。モチベーションでいうと、僕が今、東住吉でバスケ部を指導しながら「絶対日本一になる!」と意気込んでいるのは、その泉鳥取で出会ったバスケ部の部員との約束を果たすためなんです。

僕が泉鳥取に赴任してバスケ部の顧問になったとき、部員はたったの2人でした。どれだけ体が動かせるのか様子を見ようと、まずはストレッチをさせてみたらやり方も知らずにめちゃくちゃ。その時は笑う余裕もなく、「ゼロから教えなきゃいけないのか……」と愕然としましたよ。そして翌年、入部してきた9人の生徒が、僕がバスケの指導者として生きる道を指し示してくれました。個性も強くて色々問題もある子揃いでしたけど、バスケを指導するには、まず心のキャッチボールが必要なんだと気付かせてくれたのは彼らです。

彼らの引退試合の日、どうしても勝たせたい試合がありました。相手は8ヶ月前に一度敗れた強豪校。これに勝てばチーム史上最高のベスト16という試合だったんですけど、周囲の前評判を裏切って前半はうちが20点のリード。「いける」と余裕で迎えた後半戦でじょじょに点差を縮められ、残り2分で同点……そして残り1分半で逆転されてしまいました。

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試合に負けたときの生徒の様子は?

恥ずかしい話ですが、僕が一番大泣きしていました。でも、悔し泣きをしていたのは僕だけで、部員たちは口々に「悔いはありません」と、すがすがしい涙を流してましたね。そして、ある部員がこう言ったんです。「以前、先生はこう教えてくれました。勝ち負けにこだわることは大切だけれど、それ以上に自分のベストを尽くせたかどうかが一番大事だということを。今日の試合に負けて、めっちゃ悔しいけれど、自分のベストは尽くせたと思う。だから後悔は無いです。ありがとうございました」。その言葉を聞いて、僕が今まで指導してきたことは間違いじゃなかったということと、もう彼らと一緒にバスケができないということを実感して、「もう一度バスケを通して、この生徒たちとつながりたい」という気持ちが湧いてきました。そして、どうすれば彼らと、またつながれるだろう?と。

その頃、いくら熱心に指導しても私学が強い今の時代、公立高が大阪で優勝するなんて無理だろうと諦めかけていたんですが、いつか日本一になれば、この生徒たちが「今、日本で一番強いチームを教えているバスケの先生に、僕たちは教わったんだ」って自慢できるようになりますよね。それが僕と彼らが将来、バスケを通してまたつながれる唯一のチャンスなんじゃないかと思って、「俺、日本一獲るよ」とみんなの前で宣言しました。

それが、日本一を目指す理由なんですね。

はい。それからはコーチングの技術を磨くために、学校に頼み込んで年休をもらい、自費でアメリカ・サンタバーバラのウェストモント大学に短期留学に行きました。帰国後は高校教員として働きながらも、自ら売り込んで採用されたつくばロケッツのアシスタントコーチとして1シーズン、毎週末、筑波に通ってコーチングの勉強をさせてもらいました。

僕がこだわりたいのは、とにかく誰よりも研究すること。現役選手時代は自主練だけは誰よりも負けないくらいやった自負があります。同じように、指導者としても誰にも負けないくらいの研究をしてやろうと思います。アメリカのコーチ留学や、つくばロボッツのコーチ経験で学んだことを活かして、毎回の練習をビデオ撮影して、編集したりもしています。もちろん生徒に見せてフィードバックするという目的もあるけれど、自分自身にたくさん発見がある。そういう積み重ねが勝負の場面で生きてくると思うから。毎朝4時に起きて登校前の7時まで編集するのが僕の毎日の日課になっています。

一時期は5人まで減った東住吉バスケ部も、今は大阪府の大会でベスト16に入れるぐらいまでに成長しました。日本一への道のりは険しいですが、コツコツと努力を積み重ねて、いつか泉鳥取の教え子たちに「やったぞ!」と言える日が来たらいいですね。

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あなたの“つくばウェイ”とは?

熱さ。熱くなることはカッコイイことなんだと、筑波の仲間に教わりました。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

生涯に一度しかない“羨ましい時間”を思う存分楽しんでください!

プロフィール
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清水 耕介(しみずこうすけ)
1981年生まれ。大阪府堺市出身。12歳のときにバスケットボールの面白さに目覚め、殿馬場中学時代は大阪府選抜に選ばれる。バスケの強豪校であった東住吉工業高校に進学し、全国ベスト4入り。推薦で筑波大学体育専門学群に入学。卒業後の2004年、ドイツ2部リーグのケムニッツ99ersに練習生として参加。翌年発足されたbj リーグでは埼玉ブロンコスに所属した。4年のプロ生活を経て、現在は母校である大阪府立東住吉総合高等学校のバスケ部で顧問を務める。
基本情報
所属:大阪府立東住吉総合高校
役職:保健体育科 教諭
出生年:1981年
血液型:O型
出身地:大阪府堺市
出身高校:大阪府立東住吉工業高校
出身大学:筑波大学
所属団体、肩書き等
  • 元プロバスケットボール選手(bjリーグ)
  • 元つくばロボッツアシスタントコーチ
筑波関連
学部:体育専門学群
研究室:バスケットボールコーチング論研究室
部活動:バスケットボール部
住んでいた場所:天久保2丁目(セブンイレブンの上)
行きつけのお店:純平(トンカツ屋)、クローバー
プライベート
ニックネーム:コウスケ
趣味:喫茶店巡り、映画、ランニング
特技:ビデオ編集
尊敬する人:恩塚亨さん(東京医療保健大学 監督)
渋谷照代さん(和歌山近畿大学付属高校教員、筑波大学OG)
年間読書数:5〜10冊
心に残った本:思考の整理学
心に残った映画:ショーシャンクの空に、バックトゥザフューチャー
好きなマンガ:スラムダンク
好きなスポーツ:バスケットボール
好きな食べ物:スパゲティ、ピザ、焼き肉
嫌いな食べ物:しいたけ
訪れた国:3カ国
大切な習慣:深く考える
口癖は?:よく聞いて(生徒によく言っています)
座右の銘
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