筑波大時代は箱根駅伝で区間2位になるなど、選手として活躍。卒業後は実業団で選手やコーチとして活躍し、同じく陸上選手であった妻と二人三脚で3度のオリンピック出場を果たした。昨年、その手腕を買われて『筑波大学箱根駅伝復活プロジェクト』を実現させるべく駅伝監督に就任。約半年で選手の自己記録更新率90%を達成させたコーチング技術は、一体どのように培われたのだろうか?
中学の頃は野球部に所属していたのですが、校内マラソン大会でも速かったので、中学の代表選手として真岡市一周駅伝に駆り出され、エース区間で区間2位という成績を収めたのです。その結果を受けて、栃木県郡市対抗駅伝の代表候補選手として真岡市の練習に参加するようになりました。そこでは実業団から中学生までが一緒に練習していましたから、どんどん鍛えられていきました。速くなっていくことがリアルタイムに実感ができ、タイムが走力の指標となるランニングのダイレクトな感覚は新鮮で楽しくもありました。結局は、市の代表選手に選ばれ、出場した県郡市対校駅伝では区間2番になりました。一緒に出場したメンバーで「同じ高校に進学して、一緒に陸上やろう」となり、その時に、陸上競技に打ち込むことを決意しました。
高校3年の春に急激に伸びて、国体で県の代表に。その国体での成績は1500mで7番になったのですが、この時のことを思い出すと苦虫を噛み潰したような気分になります。というのも、実は、陸上部の顧問が長距離専門ではなかったので、他の先生に組んでもらった厳しいメニューを1人でこなして力を付け、自信を持って臨んだ大会でした。しかし、決勝のラスト1周でポケットされてしまい、最後方に下がってしまったのです。スローペースでしたから7位に押し上げるのが精一杯でした。予選も楽々トップで通過し、本気で優勝を狙っていたので、今振り返っても「人生で一番悔しい大会」です。優勝していたら、他の大学に進学していたかもしれないと思うと、これもまた、ドラマですよね。
1年生の時、県の高校駅伝では、途中から繰り上げスタートとなるような弱小チームでした。2年生の時、驚くことに、顧問の先生が突然「来年、京都(全国高校駅伝)に行くぞ」と言い出して、選手勧誘を始め、私が3年になるとチームを厳しく指導し始めました。それまでは生徒が自主的に朝練習をするなど、各自がしっかり取り組んでいたので、私は「先生に管理されなくても、自分たちはきちんとできます」と激しく反論しました。キャプテンでありながら練習日誌も出さず、先生に反発したことを懐かしく思い出します。
先生は、やると決めたら徹底的にやる人でしたが、一方で、合宿では夜遅くまで一緒にトランプをするなど友達感覚を持って接してくれて、そういったオンオフの使い分けが上手い先生にみんな感化されていって。最終的には、県高校駅伝のアンカー勝負を制して、なんと4秒差で勝利したのです。その時は、選手はもちろん先生も号泣しました。皆の想いを襷に込めて勝負の駅伝で勝利する貴重な経験は「競技人生で最も思い出に残る大会」です。
県高校駅伝で優勝して京都に行った経験は人生における思い出ですが、悔しい思いをした国体とともに学ぶことは多かったです。
恩師が「京都(全国高校駅伝)に行くぞ!」と言い出さなかったら、絶対に行くことはなかったと思いますし、自主性を重んじる自尊心が強い私がキャプテンを務めるチームが、県で優勝することもなかったと思います。チームメイトの思いを受け止め、日々変化する体調を考慮してメニューを調整する人がいたからこそ、駅伝で勝負することができたのです。
何より、秋に入って、チームは駅伝に向けた練習が始まっていました。しかし、私は国体の代表選手に決まっていましたから、中距離である1500mを狙うことになります。そこで、他校の長距離の先生にメニューを立ててもらい練習したのですが、それが量も多く半端なく厳しい練習でした。チームとは別で、駅伝に向けた練習以上に負荷の高いトレーニングを1ヶ月間一人で黙々と消化したわけです。
肉体的にはもちろん、精神的にも強くなったと思います。国体で優勝を狙うくらいまでの心身になっていたわけですからね。その国体が終わって、キャプテンである私はチームに戻り、先生に反発することになるのですが、結局は掌で踊らされていただけだったのかもしれません。“中距離を狙う”といいながら、私のことは練習量の多い指導をする他校の先生に任せ、他のメンバーの指導をしっかりとすることで、二つの全国大会の両方が上手くいく方法を選択していたのだと思います。
全国高校駅伝が終わって高校を卒業する頃。高校時代を振り返ってみると、良い意味で先生に操られていたのだなと思いました。出身高校は、文武両道を唱う進学校でした。選手の高い自主性だけで、ある程度はやれていましたし、自信もありました。それくらいのプライドは持っていました。しかし、複数の他人がチームとなる駅伝で戦うことは、ちょっと次元が違うのです。指導者の存在は、大きいことを思い知らされましたね。
「大学でも陸上を続けたい」そして「体育の教員になりたい」と思うようになったのは、その先生の影響でした。先生と接していく中で、“指導者1人の力で人の人生は変わる”ことを実感しましたし、学校の教員というのは「人の人生の一部を担う責任重大な仕事なのだ」なと、憧れを抱くようになりました。その恩師が東京教育大出身で、「お前が筑波大を出て戻ってきたら、顧問の座を譲るから筑波大学に行きなさい」と強く勧めてくれました。「他の大学に行ったら縁を切る」と半分脅しもありましたが(笑)。恩師の半強制的な勧めで筑波大を目指すことにした経緯があったのですが、今は心から感謝しています。
推薦入試を受けたのですが、同期でインターハイや国体で良い成績を収めている人が結構いたので推薦はもらえず、一般で再受験して合格。いざ練習に参加すると、高校の時とは練習の質も量も違うので驚きました。1年の時は自分の実力からいって「将来は教員に」との思いが強かったのですが、2年で記録が伸びて箱根駅伝で区間2位になると、実業団で自分の力を試したいと卒業後の進路を考えるようになりました。
中長距離のコーチにあまり力を入れて指導してもらえず、主に大学院の先輩に指導をしてもらっていたのです。それが3年生の時に大学院の先輩のやり方に従ったことで、1500mの記録は伸びたのですが、長距離の結果が付いてこなくなって・・・最悪なことに、箱根駅伝で最下位に。「人任せにしてダメになるのは嫌だな」と、4年になる時に自分で長距離のキャプテンを務めたいと申し出て、チームの再建を図りました。所謂、プレイングコーチのようなものです。この時の経験が、その後のコーチとしての活動に活きていると思います。
大学3年の時に合宿に参加したことがきっかけで声をかけていただき、資生堂に就職することにしましたが、当時男子選手は少なく、コーチもいない環境でとても苦労しました。1年目は別府大分毎日マラソンで3位、2年目は福岡国際マラソンで2位という成績を収めましたが、やはりコーチ無しで世界を目指すのは無理な話。入社して3年が過ぎた頃に、同僚だった妻(弘山晴美)と結婚し、選手兼コーチになりました。彼女は、世界を目指せる選手で、私よりも明らかにオリンピックのメダルが近かったので、妻の指導を優先し、自分のことは二の次にしていました。夫婦二人三脚で1993年の世界陸上から始まり、3度のオリンピック代表、4度の世界陸上代表を果たし、世界に挑戦し続けました。
コーチとはいっても夫婦ですから、やはりケンカもあります。でも彼女は絶対に折れないので、「向こうが悪いのに」と納得がいっていなくても私が謝るしかない(笑)。常に良い関係を保つことに関しては、特に気遣っていましたね。
会社から突然、契約を延長しないと言われ、路頭に迷う中で、いろいろとありましたが、結局は、夫婦で“EVOLU(エボーリュ)”という会社を興して、ジュニア層から市民ランナー、トップアスリートまでが所属できるようなランニングクラブを作る目標を掲げました。将来的には、引退した選手が、企業の健康管理、商品やシステムの開発、未来を担う子供の知育・体育のお手伝い、超高齢社会に対抗する健康づくり、スポーツイベントやマラソン大会の企画・運営をするなど、選手のセカンドキャリアに繋がるような会社を目指しています。今は、妻が代表として頑張っています。
筑波大学は、1994年を最後に遠ざかっている箱根駅伝に再び出場するために、2011年、“箱根駅伝復活プロジェクト”を発足させました。私は、2015年に特命教員として招聘され、プロジェクトの業務が主な仕事となります。しかし、アシスタントコーチもいなければ、マネージャーもいないし、勧誘担当もいないので、1人で何役も担っています。学生の指導だけではなく、支援要請のためにOBOG訪問をし、高校生のスカウトに行き、シューズの発注からホームページの更新などありとあらゆる雑務をこなし、会計業務までしています。実業団にいた頃からは想像できないほど、今が人生で一番忙しいです(笑)。
就任直後は、私が筑波大にいた頃からは想像できないような練習風景が広がっていて驚きました。選手の中には、練習を途中でやめる者もいれば、遅れたら1本抜かしてゴールする者もいて「このままでは永遠に箱根駅伝には出場できない」というのが最初の感想です。かなりの危機感を覚えましたね。当時は学生主導で、もちろん上手くいっていればそれでいいのですが、レベルの高い現在の箱根駅伝予選会では100%通用しましせん。ある程度のレベルまでは、指導者が導いてあげることが必要です。1ヶ月半ほどは様子を見ていましたが、さすがに「これでは無理だな」と思い「同じ人間なのだから、君たちにも出来る。本気で予選会を目指そう!」と選手を引っ張っていくことから始めました。最初の頃は、私が課す厳しいトレーニングについていけない感じでしたが、体力が高まるに従い、心も頭も高い次元に突入していきました。
筑波大の学生は基本的に真面目です。ですが、自分で殻を破る術を知らないという気がしています。コーチの役割は多岐にわたりますが、最も重要な役割は、選手が自らモチベーションを高める手助けをしてあげることであり、高次の目標を掲げ、高い志を持ったメンバーでチームを結成するスパイスを注いであげることです。その意味を理解し、実行していく能力が筑波大学の学生は有しています。私の指導に反応してくれる学生との呼応は、とても気持ちの良いものです。
就任後から数ヶ月経って感じたことは、頭で競技するみたいな雰囲気があるわりに、成功パターンの練習しかしなかったり、掲げる目標が低かったり、何となくチグハグな感じが否めませんでした。だから、学生に言いました。「考えたり計算することは悪いことではないが、競技レベルが低い中でいくら考えたって大したものは生まれない」と。例えば5000mを15分切るかどうかの時点で、効率よく走るにはどうしたらいいだろうと作戦を立てたってしょうがないのです。その学生のゴールが15分を切ることならば、それでもいいのですが、そんな夢のない競技をしても面白くないですよ。
頭でっかちになっている選手を、“体でっかち”にしないと、体ができていないのに頭だけ大きいとバランスが取れずにすぐに倒れます。「考えるのはもっと後でいいから、もっと練習しよう」と呼び掛けて、それからは練習量を増やしました。最初は当然、私の提案に不満の声を漏らしていた学生たちも次第に本気で取り組むようになって、昨年は自己記録更新率が90%を超えました。
当然、チームの雰囲気はとても良くなりました。自己記録を更新すると新たな次の目標が現れます。必然的に思考レベルは高まるものです。全員が自己記録を更新し続けることで、ぼんやりとしていた箱根駅伝が、手の届く位置に近づいてくると思っています。そのレベルに達してきた時が、考える時であり、筑波大学の本領を発揮するところです。
ただ、昨年10月の予選会では思うような結果が出ず、49校中22位でした。まあ、当然でしょうね。改革途上というか発展途上のチームですから。本気で取り組むことで生まれる重圧にも慣れていないですしね。しかし、順位は悪くとも、中身は全然違ってきていることが証明されました。「試合で負けて泣いたのは初めてです」と何人もの学生が悔し泣きをしていました。悔し涙は、本気であることの証拠です。「予選会で負けたことも、選手を成長させてくれる糧になっている」と前向きに捉えることができましたし、予選会までの昨年半年間の取り組みで、本気で箱根駅伝を目指せるチームになってきていることは実感できました。
文武両道を貫きながら、試合に勝つことですね。筑波大にはスポーツと勉強を両方したい学生が入ってきます。ですから、「競技と勉強のどちらを優先するのか」という考えではなく、「如何にして己を高めようとするか」に導くことが指導者としての役割です。というのも、スポーツ競技は高いモチベーションを生み出し、行動の原動力を増幅させます。部活動は「何のために生きるのか」「何のために勉強するのか」という自分を奮い立たせる“生活の核”になり得ると思っています。学生の研究活動の質も高いのですが、研究活動に勤しむ学生が昨年の全日本インカレで7位に入賞し、生物系の研究室に入り浸るほど研究熱心な学生が箱根駅伝の学連選抜チームに選出され、最近では、医学部の選手がどんどん力を付けていて、関東インカレにも出場したんですよ。大学が唱える文武両道を具現化している学生は多いと思います。
そして国立大は、潤沢な資金がある私学とは違って、学生の部活動に予算を充てることができないので、7月にはREADY FOR?というクラウドファンディングを使って258万円もの資金を集めました。また、主に筑波大OB、OGから寄付をしていただいて周囲の期待を感じるようになりましたし、学生にも責任感や皆さんへの感謝の気持ちが芽生えています。これが良い意味でプレッシャーとなって結果に結びついてくれるといいですね。
資金面についてもそうですが、人はそれほど恵まれていない環境にいると自然に「創意工夫の精神」が育まれます。努力でカバーしなければならないからです。努力の成果が表れると「もっと上を目指したい」と向上心が駆り立てられます。逆に、あまりにも整った環境にいると、つい甘えてしまって成長が止まってしまう状況に陥りやすいもの。だから今の駅伝チームが置かれている環境は、“人間力”や“野心”を育てるには良い環境だと思うわけです。しかし一方では、練習だけをひたすら頑張っても箱根駅伝には近づかないので、やはり栄養面のサポートだとかアイテム、身体ケアなどのコンディショニングサポートで最低限必要なものを揃えてあげることが必須。そのためにクラウドファウンディングで資金集めをした経緯があります。
自ら「こうなりたい」「チームをこうしたい」、もっと言えば「大学をこうしたい」といったビジョンを持って行動を起こして欲しいですね。キャリアというものは、自分から動かない限り積み重なっていかないですから。自分の夢や理想像を思い描いて、その実現に向かって努力する中で人間性は磨かれていくのです。自らが掲げた目標に向かって、色々な行動を起こす中で課題が見つかって、それを解決するために勉強したり、創意工夫したり、試行錯誤を繰り返すことでキャリアが増幅されていき、さらには、高いレベルで上書きされていきます。その一瞬一瞬の言動がキャリアデザインそのものなので、もっと貪欲にやっていって欲しいです。
駅伝監督就任後すぐには難しいですが、できるだけ早く箱根駅伝に出場させたい。かなり厳しい道のりだとは思いますが、絶対に成し遂げて終わりたいですし、学生にも出場の喜びを味わわせてあげたいのです。
教員という立場を初めて経験してみて思うことは、実業団で教えているのはあくまでも高校や大学を出た社会人、つまり大人に対しての指導である一方、大学はこれから社会に巣立っていく学生を教育する場なのだということ。学生にとって大学は人生最後に学校での学びを得る場ですから、私自身、熱心な指導者となって、社会に出た後もリーダーシップをとって人に影響を与えられるような学生を育てたいです。私が高校の恩師から人生が変わるぐらいの影響を受けたように、学生が自然と高いところを目指すような生き方ができるように手助けしつつ、社会人としてのお手本になる、そんな存在になりたいと思っています。
私にとっての“つくばウェイ”は3つあると思っています。「筑波大学の学生時代」、「筑波大学で学んだことを活かして実業団スポーツで活動した時代」そして「教員として筑波大学に貢献する今」の思考や道のりです。
筑波大学は、多くの優秀な教員・研究者が教育の指揮を執り、質の高い学生もたくさん在籍しています。その素晴らしい環境で学び、その発展系として、実業団スポーツの陸上競技において、自身の競技と指導で知識を深めながら世界を目指して、競技を極めていきました。その過程において、独自の理論を実践し、ノウハウの構築を図りました。
まあ、ここまでは、よくある話。違うのは、母校に教員として帰り、プロスポーツの世界で得た見識を母校や後輩たちに注入できるところです。母校を箱根駅伝に復活させるという“難題”に取り組むことができることも喜びですし、教育やコーチングの対象は私にとっての可愛い後輩になるわけですから、これもまた喜びなのです。
自分自身が歩み続けている“つくばウェイ”と現役学生が歩み始めている“つくばウェイ”は今、同時に進んでいます。これから切り拓いていく学生の“つくばウェイ”を高い次元へと導いてあげることは、筑波大学の教員としての使命だと思っています。これは箱根駅伝復活プロジェクトの真の目的です。
さらに言うと、筑波大学を箱根駅伝に復活させることができたならば、この20数年の間に、箱根駅伝を目指しながら実現できなかったOBの志を結実させることができます。多くの現役学生や卒業生、現教員にも興奮や喜びを与えることができると思います。筑波大学に関係した方それぞれにある“つくばウェイ”に貢献できるかもしれないし、長距離のOBの“つくばウェイ”を延長させることができるかもしれない。そう思うと、今の仕事は責任重大ですが、最終章に近い私自身の“つくばウェイ”をやり甲斐を感じて楽しく歩んでいきたいと思います。
総合大学なのであらゆる分野の人との触れ合える機会がありますし、体育にしても色んな研究をしている人がいるので、勉学の結びつきと人との結びつきが生まれる大学でどん欲に学んで欲しいと思います。
出生年: | 1966年 |
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血液型: | A型 |
出身地: | 栃木県真岡市 |
出身高校: | 栃木県立真岡高等学校 |
出身大学: | 筑波大学 |
学部: | 体育専門学群 1985年入学 |
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研究室: | 栄養学・運動生化学研究室 |
部活動: | 陸上競技部 |
住んでいた場所: | 春日三丁目 |
行きつけのお店: | ヒロ |
ニックネーム: | ひろちゃん、ひろりん |
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趣味: | 読書、ゴルフ |
年間読書数: | 30冊くらい |
心に残った本: | 中原の虹(浅田次郎著) |
心に残った映画: | レオン |
好きなマンガ: | 風の大地 |
好きなスポーツ: | ゴルフ |
好きな食べ物: | ビール、コーヒー |
訪れた国: | 16か国 |
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