サッカーの名門、前橋商業高校でプレーをした後、Jリーグの誘いを断り筑波大蹴球部へ。在学中にユニバーシアードで金メダルを獲得し卒業後はJリーガー、と順風満帆に歩んでいたが、ある日突然、チームが消滅することを言い渡されてしまう。約9年のプロ生活で在籍したのは、なんと7チーム。京都、大分、広島とチームを渡り歩く中で“サッカー人”として力をつけた経験が、今、指導者として生きる彼を一層輝かせている。
小学5年でサッカー部に入りましたが、そこに至るには経緯がありまして。それまで体操を習ったり、野球、水泳、体を動かすことが好きで色んなスポーツをやっていたのですが、やんちゃで習い事が長く続かなかったんです。先輩と喧嘩して体操を辞めたり、野球は監督が自分の名前を覚えてくれないとか難癖つけて辞めてしまいました(笑)。
じゃあ他のスポーツとなると、あとはサッカーとバスケぐらいしか入れる部活が残っていなくて。当時から身長が高くなかったので、バスケではなくサッカーだろうという理由がサッカーを始めたきっかけです。
群馬県内で優勝争いできるぐらいのチームだったので注目度が高く、僕は足だけは速かったので群馬県のトレセン(ナショナルトレーニングセンター制度)や県の選抜、中学では関東選抜に選んでいただきました。僕が通った片岡中学はサッカーのレベルが高く、先輩には山口素弘さん(現・U-17日本代表監督)、後輩では石原直樹(現・浦和レッズ)など何人かJリーガーを輩出していて、サッカーでプロになることが身近な環境だったと思います。
小学6年で未来の自分に宛てたメッセージとして「サッカー選手になっていますか?」と書きましたが、当時はまだプロ制度がなかったので、海外でもプレーされていた奥寺康彦さんのような選手になりたいと、漠然とした憧れを持っていましたね。中学ではちゃんと勉強もやって、生徒会長も務めるなど学業とサッカーを両立していました。
中学3年の時、前橋商業が全国ベスト4に入った試合を生で観て感動し、「よし、サッカーに賭けよう」と。一層サッカーに力を入れるようになり、高校では年代別の代表、今でいうU-18、U-17に選抜されました。
心の強さや、どんなことがあってもブレずに前に進んでいく力は高校時代に養われたと思います。当時、練習前に「赤城山の鳥居まで行ってこい」と監督に言われて片道7キロの距離を行って帰って、それから練習がスタート。シュートが入らなかったら自分で走ってボールを取りに行くだとか、もう毎日へとへとでしたけれど、今、指導者として尊敬しているのは高校時代の監督です。厳し過ぎて一時期は顔も見たくないほどでしたが(笑)、監督のおかげで、その後の未来につながったと思います。
僕が入学した1993年はJリーグ元年で、いくつかのチームから声をかていただきました。同級生の中にはそのままプロになった選手もいましたが、Jリーグは発足したばかりで果たして上手くいくのか、まだ先が見えませんでしたし、もしサッカーで活躍できなくても社会人としてやっていける道を考えた時に、やはり教員免許を取得しようと思いました。
サッカーの指導者や色んな分野で活躍しているOBも多く、僕が1年の時の4年生には後にJリーガーになられた服部浩紀さん(現・ザスパクサツ群馬監督)、藤田俊哉さん(現・VVVフェンロコーチ)、木山隆之さんなどが在籍している強豪チームでした。その環境でみっちり4年間、サッカーをすれば4年後にもう一度Jリーグのお話が頂けるのではないかと思いましたし、もし声がかからなければそこまでの実力なのだろうと考えていたので、大学にいくかプロになるかに関してそれほど迷いはありませんでした。
1年の夏から試合に出させてもらって、1年、2年では関東大学サッカーリーグで優勝。ただ、2年の後半からはケガが増えて体調面で不安を抱えていた思い出があります。高校時代と比べて筑波大では比較的自由な生活でしたから、不摂生が影響したのだと思います。普段の生活をきちんと組み立てられないと、これだけピッチに影響するのかと。自分の考えの甘さに気付いてからは、監督から言われたことだけをやっていては成長できない、プロになりたければ主体性をもってサッカーに取り組まなければと考えるようになりました。
たくさんのサポートを受けながら、地元開催というプレッシャーもある中で目標を達成していくプロセスを体験して、「優勝すれば、こんなにも多くの人が喜んでくれる」「結果を出すことはこんなに重要なんだ」と初めて実感した機会でした。それまで大学の大会で優勝しても、自分が「やったー!」だけで終わりでしたから。
そうですね。ユニバーシアードを終えた後、何チームからかお話をいただきました。蓋を開けてみればJリーグは日本中から注目を集めて、サッカーブームに。高校卒業後Jリーグに進んだ同級生はみんな羽振りが良くなって、高級車で筑波に遊びに来たりして(笑)。僕は貧乏学生でしたから、それを見た時は「プロになっとけば良かったなぁ」なんて一瞬後悔しましたよ(笑)。
奥さんとは筑波大の同級生として出会いました。彼女は体専で陸上をやっていて。筑波で出会って、そのまま結婚に至りました。
当時ブラジル代表クラスのチームメイトがいましたから、そのレベルに慣れることに必死でしたし、チームは、大卒である僕のことを即戦力として獲得してくれたのだと思うと、早く試合に絡んでいかなければと。でも、なかなか出番がなくて難しかったです。
チームの中にスター選手がいて、そういった選手たちがポジションを確保しているので、そこに割って入るには実力が飛び抜けていたり、引きが強くないと難しいなと。ようやく1年目の夏に試合に出られるようになって、年末は天皇杯で準優勝。2年目はコンスタントにレギュラーとして出られるようになったのですが、これからだという時にチームが無くなってしまいました。
朝からミーティングがあると言われていた日に、朝のワイドショーで「チームが横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)に吸収合併される」と知って。いや、まさかという気持ちでミーティングにいったら報道陣がたくさんいて、幹部にチームが消滅することを知らされました。あとにも先にもJリーグのクラブで消滅したのは、横浜フリューゲルスだけ。しかも横浜F・マリノスにいけるのは4~5人と言われて……顔面蒼白でしたね。その頃、奥さんが妊娠していたので「これからどうしよう⁉」と。
ラッキーと言えばラッキーでしたが、横浜F・マリノスは選手層が厚かったので、なかなか活躍できるチャンスが巡ってきませんでした。
全7チームに在籍し、色んな経験をさせていただきました。14~5人の指導者に出会えたこと、トップ選手や若手選手に揉まれてプレーができたこと、そしてJリーグの優勝、天皇杯の優勝、J2降格……。色んなチームの経営を見られたことやその土地土地で築いた人脈、各都市の風土に触れたことも良い経験だったと思います。おかげで、今どのチームいっても知り合いがいないチームがないほどです(笑)。
やはり最初に入った横浜フリューゲルスですね。あの消滅があったからこそ、崖っぷちを経験しても自分の強さ、信念さえあれば道が開けることを学びましたから。
例えばその後に在籍したチームをクビになるタイミングで、別のチームから引き抜きがなくても、自らトライアウトを受けて採用されたこともありましたし、チームで試合に出られない時期が続いても、毅然とした態度で競技と向き合っていく、バカみたいに頑張る。そういった姿勢を評価してくれるチームが多かったから、トップ選手としてずっと駆け抜けたわけではないにせよ、自分の実力以上のトップチームに所属できたのかなと思っています。
指導者のライセンスを28、29歳ぐらいから取り始めて、引退する31歳の年にB級ライセンスを取得。サッカーの指導者になるのは狭き門でしたが、選手と指導者は全く別物だと考えて、指導者としてやっていける人間性を身に付けようと選手時代から考えて行動をしていました。
筑波大出身で、現在はU-15の代表監督を務めている森山佳郎さんとはフリューゲルス時代のチームメイトで、かつ僕が広島でプレーしていた時に森山さんが広島のユースで監督をされていたご縁があって。ありがたいことに、引退をした年にユースのコーチにならないかと声をかけて頂きました。
日本サッカー協会の仕事( JFAナショナルトレセンコーチ)して、中国地区5県のチーフとして講習会を開くなどしていました。現場でチームを見つつ協会の仕事にも携われるという、指導者の入りとしては最高の環境を与えて頂いたと思います。その頃、S級ライセンスを取得し、2012年からFC東京U-18のコーチを2年間務め、現在は監督として3年目になります。
クラブによっては全寮で全員同じ高校に行かせて、選手をしっかりと管理しながら指導しているところもありますが、東京の場合は私立の学校に通う選手、公立の学校に通う選手、寮生もいれば、自宅通いなど様々な選手がいる中で、練習3~4時間で一定の成果を出さなければいけない。時間が自由に使えるからといってプライベートが怠慢になっている選手はどんどん淘汰されていきますから、色んな誘惑がある東京で、自分で自分を律することの厳しさを常々言い聞かせています。
特に今は高円宮杯U-18サッカーリーグ2016プレミアリーグEASTで首位を守っている時期(9月6日時点)なので、「エンブレムに誇りと自覚を持ちなさい。仲間を裏切る行為をしたらアウトだ」と言っています。
とにかくサッカーが大好きな選手ですね。皆より早く来てボールを蹴っていたり、練習が終わってからもボールを蹴ったり、サッカーの話が大好きだったり。そういった情熱を持っていること以外に、実はインテリジェンスが必要だと感じています。それは勉強ができてサッカーへの理解が深いというだけではなく、物事を多角的に捉えて、それをあるべき方向に持っていく力といいますか。サッカーへの情熱をきちんと動かせる賢さを持っている選手が、これからの時代、日本が目指すサッカーにマッチしていくのだろうと。
究極は「なんでも楽しむこと」が大事だと思います。これまでの経験から、勝ちにこだわり過ぎて針が触り切れてしまった時は勝ちが逃げてしまうことが多かったので、できるだけ「良い加減に、いい加減」でいようと。フラットな状態で素直に勝負に臨んだ時に限って、勝ちが転がってくるものなんですよ。勝負の世界にいると苦しい、悲しいなど感情が大きく動くことが多いですが、できるだけ針が振れ過ぎない状態でブレずに仕事をしようと心がけています。
プレッシャーはありますが楽しんでいます。素晴らしいチームで素晴らしい選手たちに毎日向き合えています。いいおっさんが、高校生とバカ騒ぎしてます(笑)。
指導者としてやっている以上、Jリーグの監督も視野に入れていますし、海外で成功できる指導者にもなりたい。海外で活躍している指導者になかなか日本人が少ないので、もっと上を目指して頑張りたいです。
もう1つは、大学に恩返しをすることですね。僕がユースで指導した選手の中に、今、筑波大蹴球部で頑張ってくれている子がいますが、もっと大学に貢献できないかなと。そんな思いにさせてくれる大学だったと思います。
OBのネットワークが強いことが筑波大の良さですね。サッカー協会会長の田嶋幸三さんには卒論の相談をさせていただいた思い出がありますし、FC東京にも筑波大OBがたくさんいらっしゃいます。学校の先生も多くて、例えば今、神奈川県の国体の監督さんは、僕が1年の時の4年生です。
先輩、同級生、そして後輩たちが卒業後も活躍している姿を見ると、僕も筑波大の名に恥じない行動をしなければ、と強く思わされます。
考える力、考えて行動する力といった色んなパワーを動かすには、インテリジェンスが必要だということを学びました。
同級生や仲間は一生の付き合いになるので、学部を超えて人脈を広げて欲しい。それが自分の将来の手助けになると思います。
所属: | FC東京 |
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役職: | U-18監督 |
出生年: | 1974年 |
血液型: | A型 |
出身地: | 群馬県高崎市 |
出身高校: | 群馬県立前橋商業高校 |
出身大学: | 筑波大学、体育専門学群 |
学部: | 体育専門学群 1993年入学 |
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研究室: | サッカー方法論 |
部活動: | 蹴球部 |
住んでいた場所: | 天久保 |
行きつけのお店: | カクタス |
ニックネーム: | カズキ |
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趣味: | 温泉、カフェ |
特技: | 自動車名当て |
尊敬する人: | 妻 |
年間読書数: | 12冊 |
好きなスポーツ: | サッカー、テニス(観戦) |
好きな食べ物: | カレー |
嫌いな食べ物: | パクチー |
訪れた国: | 24か国 |
大切な習慣: | 何事もいい加減(良い加減) |
口癖は?: | ブラボー! |
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