ハンドボール選手としては珍しく、海外、しかも世界最高峰のハンガリーリーグ・スペインリーグでプレーをした経験を持つ。現在は日本リーグに復帰し、プロとして活躍しながら大学の教員やインストラクター、そして解説者としてハンドボールの普及に務めている。ハンドボール界で唯一無二の存在である銘苅さんは大学時代、どんな生活を送っていたのだろうか?
スポーツに真剣に取り組み始めたのは、10歳の頃、少年野球が始まりでした。九州大会で準優勝したほどだったのですが、中学に入るとあまり練習しなくなって。ポテンシャルの高い選手揃いでしたが、1人のミスのせいで連帯責任を取らされるなど納得のいかないことが多くて、皆のモチベーションが下がっていったんですね。
「ここにいたらダメだ」と危機感を感じていた中学1年の終わりに、たまたま雨の日にハンドボール部の顧問の先生と校内ですれ違って、「雨で野球部の練習がないんだったら、体育館においで。ハンドボールは練習してるから」と誘われました。
いえ、全く。でも1年だから先生の誘いを断れなくて体育館に行ってみたんです。そしたら、「君が3年の時に全国大会が沖縄で開催される。君がハンドボール部にいたら全国大会に出られるかもしれない」と言われて、「野球を続けても未来がないし、ハンドボールをやってみよう」と。
あの日が晴れだったら体育館には行かなかったことを思えば、ものすごいタイミングだったと思いますし、その先生との出会いも僕の人生にとって大きな転機になりました。
練習は厳しかったですけど、“未来にこうなるために”という明確なビジョンを掲げて練習してくれたので、結果としてもJOCジュニアオリンピックカップで優勝、そしてオリンピック有望候補選手に選出されるなど、とてもやりがいがありました。
指導で特に印象に残っているのは、僕は中学2年で身長が179㎝あって学年で2番目ぐらいに大きかったにもかかわらず、先生は「世界では背が低いんだからな」と言って、ずっとアンダーハンドシュートを練習させられたことです。
身長の低い選手が得意とする、背の高い選手の足元を狙って打つシュートです。当時は「背の高い僕が、どうしてこのシュートを?」と疑問に思うこともありましたが、社会人になって、ハンガリーで背の高い選手に囲まれてプレーするようになった時にこのシュートが僕の武器となり、活躍することができたのは先生のおかげです。
はい。当時の基準で、推薦で筑波大にいくなら全国大会で8位以上でなければいけない条件を早い段階で知っていたので、推薦が取れる可能性の高い県立那覇西高校への進学を選びました。高校時代は1年と2年でインターハイに出場し、1年の時は3位になり、U-16の日本代表に選出。推薦の条件を満たすことができました。
スポーツだけではなく勉強面でも、オール5をとって筑波大にいくことを目標にしていましたから、決して手は抜かず。高校時代は4をとったことがないんですよ。
筑波大に進んで、大西武三教授(前ハンドボール部監督)が“文武合一”だとおっしゃっていたことが印象的でした。ようは「コート上で疑問に思ったことを机上で学び、机上で学んだことをコートで生かす」ということなのですが、高校時代を振り返って合点がいきましたし、大学時代はその言葉を意識しながら練習と勉強を両立させました。
ハンドボールを軸に生きていたことは間違いないですね。大学1年の時、トップレベルの選手と圧倒的な差を感じて、「この人と一緒に同じ次元でやったら、きっと楽しいだろう」と、試合に出たい一心で毎日朝練をするようになって。ハンドボールコートは大学4年間で、僕が一番長くいたと自負しています。
つくばエクスプレスに乗る時は試合前でもエスカレーターを使わず、地下3階から階段で上がって、「これもトレーニングだ。2週間後の僕は絶対今より良くなってる!」と言い聞かせて。未来に強くなることを見越して、トレーニングに励んでいました。
なかなか成果が出なかったので、「ハンドボールを辞めようか」と考えたこともありますよ。でもそんな時、女子部の水上一先生が「どんな天才でもコツコツやるやつには敵わないんだぞ。よくなってるじゃん」と励ましてくれて、ようやく3年の時、ケガをした先輩の代わりに試合に出たら、大爆発。それからは僕が左バックのエースをやるようになりました。
朝練を毎日すると決めたんだったら、最後までやり抜く。自分との約束を破るぐらいだったら、しょうもない人間だなと。そんな思いでした。
地元・沖縄にいる母親や恩師が僕のことを信じて応援してくれていたからです。そういった人たちの存在が「自分はこれをする」「これはしてはいけない」といった判断基準を作ってくれて、苦しい時に僕の支えになってくれたのだと思います。
もともと教員になる目標を持っていたので、会社に入る前に「大学院に行きたい」とお話して岐阜大学の大学院へ。選手としてはハンドボール部に4年在籍した間、全日本総合優勝、日本リーグ2位という成績でした。
そのうち海外でコーチングを学びたい意欲が湧いてきて、僕が筑波大にいた際に研究生としてハンガリーから来ていたハンドボール関係者に連絡をしてみると「コーチングに絞るのは早い。プレイヤーとしてやったほうがいい」とアドバイスを受け、ハンガリー一部チームに移籍しました。
ハンガリーリーグは世界で5本の指に入るハンドボール強豪国。大学時代と同じように「誰よりも練習すれば必ず結果は出る」と信じて、3年目にはレギュラーシーズンで得点王をとり、海外5年目にはスペインリーグでプレーしました。
ずっと日本代表には縁がなかったのですが、リオデジャネイロ五輪後、日本代表の監督に就任したスペイン人の監督は僕がハンガリーでプレーをしていた頃、別のハンガリーのチームの監督を務めていたことがあって。僕のチームと対戦したことを覚えていてくれたようで、日本代表入りしました。
現在は怪我等もあり代表から外れているのですが、東京オリンピックに何らかの形で参加出来たら最高ですね。しかし、僕自身はそこにピークを置いていないというか、なりたい自分になるための延長線上であり、通過点だと思っています。
言葉が完璧に通じないからこそ、プレーの姿勢や日頃の取り組みが言語に変わる存在になるということですね。例えばパス一本が通れば、それが僕の言葉になる。
ただプレーが上手いだけではなく、「姿勢が大事だ」とはトヨタ車体の監督にも言われました。「シュート決めたら走ってガッツポーズをしながら戻ってくる、それが君の魅力だ。トップリーグの選手は皆の憧れの存在にならなきゃいけないし、点数を取ってチームを盛り上げなければいけない。ただ点を取ればいいというものではない」と。
講習会では年間3000~4000人の小学生から大学生たちと一緒にハンドボールの魅力に触れています。講習会がきっかけでハンドボールを始めた子もいますし、ある子は、ひきこもりがちだったけれど、ハンドボールに夢中になってほとんど家にいなくなったと聞いた時は嬉しかったですね。
スポーツは自分を含め見ている人も幸せにすることができますから、子供たちにいつも言っているのは、「ニコニコしながらプレーして」ということ。子供たちが楽しそうにプレーをすればたくさんの人がハンドボールに興味を持ってくれますし、なによりも身近な存在である家族が幸せな気持ちになります。
2018年の前期に福井県立大学の非常勤講師としてハンドボールを教えた際には、実技の授業で「評価の6割は顔」と学生に話しました。
学生にとって、人生でハンドボールに関わるのはこれが最後でしょうから、上手くできるかできないかは関係ない。ちょっと朝早くてつらくても、ハンドボールが苦手でも前向きにニコニコして取り組んで欲しいと、そんな思いでした。
日本においてハンドボールはまだ非日常。高校まで一生懸命にプレーをしても、その先の未来が描けず、卒業後にハンドボールを辞める人がほとんどです。一方でサッカーやフットサルは競技人口も多く、色んな所にコートがあって部活動を引退しても趣味として長く続けられますよね。
ハンドボールもいつかサッカーのように日本の文化になって、胸を張って「ハンドボールをしていた」と言えるスポーツになるといいなと思います。
そうですね。サッカーがこうして日本の文化になったのも“Jリーグ100年構想”があったからだと、大学時代に受けた田嶋幸三さん(筑波大出身。日本サッカー協会会長)の講義で知りました。何もせずに今の盛り上がりがあるわけではなく、未来を見据えて戦略を立てたからこそ今があるのだそうです。
そのお話には感銘を受けて、僕も“日本ハンドボールの50年構想(裏)”を勝手に考えてみたんですよ(笑)。
僕が国内外でプレーをした経験やその時々で感じたことを、もっと多くの子供たちに直接教えてあげられればベストですけど、それが難しいのであれば、大学で指導者を養成する講義を持ちたいです。
中学・高校ハンドボール部の顧問の先生はそれまでハンドボールに携わったことがない人が多いので、まずは先生たちにハンドボールをおもしろいと思ってもらうこと、より良い学びの機会を提供することで、その先にいる子供たちが楽しみながらプレーをできるようになるのではないかと。そういった環境が作れるよう働きかけて、ゆくゆくは大学で教員になることも視野に入れています。
学ぼうと思えばいくらでも学べる、やろうと思えばいくらでもやれる。でもあっという間に時が過ぎていく、【精神と時の部屋】のような環境に身を置いて、自分を高めるための時間を過ごせたこと。
時間もお金も自分にどんどん投資して下さい。一生懸命に取り組んで結果が出なくても、そこに費やしたエネルギーが皆さんの顔を輝かせます。その輝きに在学中も卒業後もたくさんの仲間が集まってきます。そしてその仲間との思い出が一番の財産です!
所属: | 北陸電力ブルーサンダー |
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役職: | ハンドボール選手 |
出生年: | めかる あつし |
出身地: | 沖縄県浦添市 |
出身高校: | 沖縄県立那覇西高校 |
出身大学: | 筑波大学体育専門学群 |
出身大学院: | 岐阜大学大学院 |
研究室: | ハンドボール研究室 |
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部活動: | ハンドボール部 |
住んでいた場所: | 天久保2丁目 |
行きつけのお店: | あじよし |
ニックネーム: | めかる |
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趣味: | 献血 |
特技: | しゃべること |
尊敬する人: | 母 |
心に残った本: | 武士道(新渡戸稲造) |
心に残った映画: | 魔法にかけられて Sound of Music |
好きなマンガ: | わたるがぴゅん |
好きなスポーツ: | バレーボール、テニス |
好きな食べ物: | いもくりかぼちゃ。アップルパイ |
嫌いな食べ物: | 辛いもの |
訪れた国: | 18か国 |
大切な習慣: | 挨拶とありがとうは目を見て言う。履物をそろえる。 |
口癖は?: | Bravo!!Bien!! |
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