「今の人たちは、日本代表がW杯へいくことは当たり前だと思っているんでしょうね」。 その一言に、井原氏のサッカー人生がにじむ。サッカー少年で、ただボールを蹴ることが 好きだった時代にJリーグはなく、W杯は夢のまた夢。1998年、日本が初めてW杯に出場 した際には主将を務めた。「激動の時代だった」と振り返る、貴重なお話を聞く。
地元はサッカーが盛んな地域で、小学校低学年の頃から休み時間にサッカーをしたり、兄が入っていたスポーツ少年団に遊びに行くなどしていました。小学1年の時には柔道教室にも入っていましたが、サッカーほど夢中になれなくて。
通常は小学4年から入れるスポーツ少年団に、特例として3年から入れてもらって練習していました。
最大の魅力は、やはりゴールを入れた時の快感だと思います。チームスポーツではありますが、自分でボールを持っている時は相手を交わしたり抜いていったりしながら、ゴールを決めた時は嬉しくて。その喜びや楽しさのとりこになりました。
当時はJリーグもなく、日本代表がW杯にいったこともなかった時代でしたが、生涯、サッカーに携われる仕事がしたいと思っていたので、当初は教員を目指して筑波大に進学しました。教員なら、好きなサッカーを教えながらずっとサッカーに携われるかなと。
筑波大の存在を知ったのは、中学時代、教育実習に来られたのが筑波大の方で、その時に初めて桐の葉のジャージを見たところから始まり、高校時代の担任が筑波大出身だった影響もあってトライしてみることにしました。
そうなんです。教育実習にもいきましたよ。教員ということは常に持ちながら過ごしましたし、卒業後、社会人として就職し、実業団チームの日産FCでプレーしながらも、もし道が断たれてしまったら教員採用試験を受けて教員を目指そう、という考えでした。
関西出身なので、筑波大がどこにあるか分からないまま進学して、東京に近いのかと思っていたら実際はものすごく遠くてびっくりしました(笑)。当時はつくば市じゃなく、村でしたから村民になったような気分で。
でも学生の街としての環境は素晴らしいという印象でした。遊ぶところもそれほどなく、勉強と、自分の場合はサッカーに集中できる環境がある。やりたいことができる素晴らしい環境に恵まれたと思いました。
初めて親元を離れて、最初の1年は筑波の寮に入ったことも良い思い出です。
サッカー中心でしたが、ちゃんと授業に出てレポートもしっかり書かないといけませんでしたから、一般の学生たちと同じように4年間みっちり勉強しました。
1年の時は追越のセブンイレブンでアルバイトをしていたんですよ。僕とゴン中山(雅史)と、バレーボールの中垣内祐一も一緒に。
大学生活と並行してそういった社会勉強をやらせてもらえたのは、人間的な成長につながったと思います。
2年の時、総理大臣杯で優勝したこと、リーグ戦を2回優勝したことは印象深いです。
それよりももっと印象に残っているのは、入学した当初のフレッシュマン期間ですね。朝一で朝練をして、毎朝トラックで走ったりしつつ、フレッシュマン期間の最後は筑波山の登山をして締めくくるという。
かなり走るので苦しかったですけど、登山の時には「やっとこれで朝練が終わる!」と、すがすがしい気持ちでした。
サッカーで上を目指す仲間と出会えたことですね。2つ上には長谷川健太さん(つくばウェイvol.19で紹介。FC東京監督)、同級生には元日本代表のゴン中山、U-18日本代表監督の影山雅永のように情熱のある先輩や同年代がいて、1つ下にはU-17日本代表ゴールキーパーコーチの川俣則幸がいました。
部員数が多く、皆がライバルとして競い合うことは刺激的でしたし、大学院からは学生コーチとして田嶋幸三さん(日本サッカー協会会長)、小野武さん(FC今治監督。日本サッカー協会技術委員会委員)がいらっしゃったので、指導者にも恵まれていたなと今振り返って思います。
そうですね。大学4年間の友達は一生の友達ですし、親元を離れたことで親のありがたみであったり、アルバイトを通してお金の重みを知ったり。将来に向かっての自分の進路をじっくり考えられた4年間でした。
プロリーグができたことで、自分を取り巻く環境が大きく変わりました。社会人リーグでは観客は何百人、何千人しか集まらない、日本代表の試合でさえお客さんが集まらない経験をしましたが、それがJリーグ人気で一気に観客数が増えて。
収入面の待遇が良くなった反面、プロという、いつクビになってもおかしくない厳しい状況の中で「激動のサッカー界の中に入ったな」と感じました。
何がプロか分からない状態でしたから、外国人の監督や選手に、プロとはなんぞや、というものを教えてもらったり、サポーターの存在を考えるようになったり。
激動の時代でしたけど、W杯にもいけましたし楽しいことばかりで、まさかサッカーでプロになれると思っていませんでしたから、時代の流れに乗らせてもらえてありがたいなと。
選手としては、自己管理をして良いプレーをすることを考えながらやっていましたけど、キャプテンになり、キャプテンマークを腕に巻くことで、自分のことだけではなくてチーム全体のことを見ながら「勝つための集団になるには、何が必要か」と考えるようになりました。
それまで色んなキャプテンに接してきたので、キャプテンのふるまいや言動を見て感じたことが自分の糧になりました。ただ、あの人のようにやってみようと思っても、それはその人のパーソナリティがあってこそできることであって、僕がやっても説得力がない。
キャプテンとはこうでなければいけないと断言することはできませんし、正解は1つではないと思いますね。
特に代表のキャプテンは責任が重いですし、とにかく押し潰されないように「できないものはしようがない!」と開き直ることも大事でしたし、自分の本来持っているパーソナリティを出すことがチームとしての向上につながればと、そんな気持ちでキャプテンを務めていました。
現役で色んな経験をさせてもらったので、それを生かしていく仕事といったら指導者ではないかと。サッカー界の指導者ライセンスを現役の時から取得しつつ、将来の準備をしていました。解説などメディアの仕事も経験させてもらえて、選手時代とは違う角度からサッカーを見ることができました。
S級ライセンス取得中の2004年から2005年にかけては筑波大でコーチを務めていました。当時筑波大の蹴球部は、平山相太(元日本代表)や藤本淳吾(元日本代表、ガンバ大阪)、阿部翔平(元日本代表)がいた時期でしたね。
その後Jリーグの柏レイソルでコーチを務めることになり、指導者として上を目指すことにしました。
その時に置かれた状況の中で、何がベストかを考えること。それは受け持ったチームやチームのビジョンにもよりますし、カテゴリーによっても違いますが、例えばJリーグであれば勝つことを求められるので、「勝つためには」と常に考えています。
ただ、どの状況にも共通するのは指導の哲学である「練習は嘘をつかない」です。いかに本番に向けて準備をするか、人事を尽くして天命を待つ――そのような普段の取り組みが一番大事だと思いながら、日々取り組んでいます。
指導者の難しさはライセンスを取る時から感じていましたけど、最初に2006年北京オリンピックでアシスタントコーチを務めた時に、より、全体をオーガナイズする指導の難しさを実感しました。
2015年から4年間アビスパ福岡で監督をやらせてもらうなど指導者として経験を積ませていただいていますが、「指導者に正解はない」と言われるように、やはり「何が正解か」を導き出すことは難しい。そういったことを自問自答しながら、いつか“自分流”の指導法を見つけていきたいと思います。
チャレンジ。どんなことにもチャレンジできる環境が整った筑波大での4年間は、大きな財産になっています。チャレンジ精神を持って、「当たって砕けろ」「険しいところにあえて飛び込んでいく」、そういった気持ちは今でも持ち続けています。
大学4年間は色んなことにトライできますし、失敗も将来の財産になると思うので、とにかくチャレンジあるのみ! そういった4年間にして欲しいです。
所属: | 柏レイソル |
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役職: | ヘッドコーチ |
出生年: | 1967年 |
血液型: | O型 |
出身地: | 滋賀県 |
出身高校: | 滋賀県立守山高校 |
出身大学: | 筑波大学 |
学部: | 体育専門学群 |
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部活動: | 蹴球部 |
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