中学時代から陸上競技界の第一線で活躍。筑波大の大学院時代に初めて100m走日本一を勝ち取るが、足首関節のケガで実力が発揮できずオリンピックの道は断たれてしまう。ところが一発逆転。冬季五輪の競技であるボブスレーに転向し、なんと2014年のソチオリンピックに出場。「勝てる場所で勝つのがアスリート」、「勝てば、後から好きはついてくる」との哲学の裏には、どんな思いが潜んでいるのだろう?
小さい頃から水泳を習っていたのですが、通っていた中学校には水泳部がなくて。自分の身体能力や持久力が活かせる競技は何だろう?と考えた時に、足が速かったので、サッカー部や野球部もいいなと思ったんですが、適正を考え陸上のほうが自分に向いていると思って、陸上部に入りました。
中学1年生の時は3000m、1500mの選手でした。周りも長距離の選手ばかりで、駅伝シーズンになると、みんな駅伝に参加していましたね。短距離の練習はしていなかったんですが、初めて100m走に出場してみたら、なんと1年生100mの県で2番。自分は短距離が速かったんだと、その日初めて知りました(笑)。
短距離が速いことを自覚して、試しに1500mと短距離の中間ぐらいの400mを走ってみたら52秒台が出せたんですね。当時、全日本中学陸上への参加標準記録が51秒9ぐらいでしたから、練習すればいけるかもしれないと1日200を20本ぐらい毎日走って、中学3年生の時に全日本中学陸上で優勝。もともと長距離だったから、練習で1万メートルを走ったり、15㎞のビルドアップ走をすることが習慣になっていたので、試合で400m走った時はラクに感じられました。
中学校の時に限界まで練習した実感があったのと、100m、200mで活躍する選手たちと比べて自分には陸上のセンスがないと感じて、高校で陸上を辞めようと思っていたんです。ところが親に反対されて、結局、また陸上部に入部しました。必死に練習はしていましたが、結果がなかなか出ず、ようやくスランプを抜けたのは高校3年生の時。国体の400mで4位になりました。その時は高校最後だからと先生にお願いして、それまでと大きく違うメニューを取り入れたんです。ウエイトトレーニングにも力を入れたので、体を壊さないようにメンテナンスの意味合いで水泳や治療院に通うなど、陸上で結果を出すことに集中していた高校時代でした。
その当時はスポーツの勉強がしたい、体育の先生になりたいなどの思惑はありませんでした。ただ、早稲田大学に進学したいという気持ちを固めてくれたのが、大学でお世話になった大沢コーチでした。松山高校の先輩でもある大沢知宏さん(ソウル五輪出場, 2016年4月急逝)に勧誘していただいた事が、早稲田に進学を決めた1番の理由です。大沢コーチに出会ってなければ今の自分は無かったと思います。競技に対する考え方や、物事に対する姿勢の基本を学びなおしました。高校入学の時とは違って、早稲田に入った時は「絶対トップに立ってやる」と決意していました。学生で競技を続けていく限りは日本一を目指すべきだと思ったからです。その考えはコーチとなった今でも変わりません。私を本当の意味で陸上の道に引き入れてくれた大沢コーチに心から感謝しています。
肉離れを2回ぐらいして練習も出来ず、走れない時期が続きました。結果、そこには戦績がなく、実業団にも入れない、普通の社会人になるほかないという現実がありました。ただ、その現実は私自身受け入れることはできなかったので、フリーターとなって走り続ける決意をしました。自宅に近い東洋大学で練習に参加させてもらって、その1年間は早稲田アカデミーで塾講師のアルバイトをしながら、陸上に集中する時間を作りました。その間、自己ベストを更新し続けました。その間、ボクシングジムにも通い、自らの体を違う視点から動かす訓練も行いました。
東洋大の先生に「そんなに陸上が好きなら、研究が進んでいる筑波大で研究をしてみたら」と勧められ、試しに筑波大に見学に行ってみると、先生たちがみんな陸上マニアなんじゃないかと思うほど競技の理論に精通していて、あらゆる質問に答えてくれたので、これは今までにない面白い環境だと思って進学を決めました。
走っている時、体幹の運動が矢状面と水平面と前額面でどういう反応があるのかを研究していました。これまでは特に理論を学ばず、体を動かすトレーニングだけで鍛えていたところがあったので、「研究すると、ここまで感覚が違うのか」と驚きましたし、色々と考えた結果、新しい方法として“ゆっくり動く”トレーニングを取り入れたりしました。
思い返せば、塾講師をやっていた時に通っていたボクシングジムで、アマチュアのボクサーが鏡を見ながらゆっくり基本動作をやっていたなと。その理由は、骨盤、肩、腰が一直線になるのを見ることと、ゆっくり動作を行うことで脳に理解をさせるためなのだそうです。脳が体に対して「この角度です。この速度です」という信号を出すトレーニングをやっておくと、いざ体を速く動かした時に骨盤、肩、腰がズレないのだと教わりました。筑波大に入ってから「ボクシングジムでやっていたことは、そういう理由があったのか」と合点がいき、僕の場合は坂を低速で走るといったトレーニングを実践するようになりました。低速は高速と異なる神経系の負荷がかかるという考えは、いまでもコーチングに役立っています。
初めて100m走で全国タイトルを獲ることができました。ところが、翌年に足首を圧迫捻挫し、2年目は思うように活躍ができませんでした。医者の見立てでは、自分が出せる出力が上がりすぎで関節がついてこれなくなった、ということです
型にはまらず、自分の型を見つけることができたことですね。特に筑波大の大学院は体育の最高峰ですから、色んな大学からやって来た学生たちが、おのおのが大学で学んだことを情報交換する場になっていたんです。そして大学院の先生は大学の先生と違って、これをやりなさいと出来上がったものを押し付けず、ただただプロフェッショナルな知識を提供してくれる。そういった色んなものの断片で、それを組み合わせて自分の型が形成されたと思います。
いわゆる天才型の天性と、自分の理論を戦わせることができて、「凡人の理論と努力は天才に通用する」と自信を持つことができました。その理論にのっとって自分の動きをいかに完璧にこなすかに集中し始めると、特に陸上の100mではアップの時に相手の動きが気になったりするものなのですが、それを無視できるようになったというか。試合の時にブレないでいられることは、結果に大きく響いてくると思いました。
例えば、メジャーリーグのイチロー選手を見ていて「個人種目のような理論を持っている人だな」と感じることがあるのですが、それが後々チームの役に立つのであれば、彼のように自分のやるべきことに集中できる能力というのは大きな強みになると考えています。
陸上部のコーチに就任し、選手時代の経験に基づいた「こういう練習をして欲しかった」ことを生徒に指導していきました。長距離の石田和久監督に教員としてのノウハウをご指導いただき、コーチ就任3年目には5種目の選手をインターハイに出場させることができました。
大東文化大学の青葉昌幸先生からご紹介いただき、採用枠に出願させて頂きました。ただ、受かるかどうか分からない時点で、勤めていた高校には「辞めます」と言っていたので、受からなかったらマズイことになるところでした。僕は楽観的な性格なので、何とか生きていけるかなとは思っていましたが。フィジカル90%、メンタル5%、インテリジェンス5%で、どこでも生きていけるものだ、と海外を回っていた友人も言っていました。フリーター時代も健全に生きていたので、その辺は経験済みでしたので不安はありませんでしたが、採用されてよかったです(笑)。
陸上部のコーチをしながら、僕自身もオリンピック出場を目指して100mを9秒台で走ることを目標としていましたが、大学院時代の足首のケガの影響で長い距離を思うように走ることはできませんでした。そんな時、ソチオリンピックまであと1年という頃に、ボブスレーのトライアウトが開催されることを知って、自分がどれぐらいの力が発揮できるか試してみたいという気持ちでテストを受けることに。もし受かったとしても、日本が世界ランク30番以内に入らない限りオリンピックには出られませんから、同じく陸上で僕より実力のある宮崎久選手(パリ世界陸上選手権日本代表)を誘ったら、テストの結果、宮崎が1番で僕が2番になりました。その後、長野で訓練を受けてオリンピック予選に臨みました。
走る距離も50m程度と短いので足首への影響も思いの外軽く、陸上よりも力を発揮することができました。
結果として、選ばれた僕たちと、仙台大学の黒岩俊喜選手、そしてボブスレーで20年日本のトップに君臨している鈴木寛選手の4人でオリンピックの前哨戦であるノースアメリカズカップに出場しました。僕と宮崎選手の2人は、オリンピック予選の氷上の実戦ほとんどぶっつけ本番だったんですよ(笑)。しかし、そこはチームのサポートスタッフのおかげで、4人乗りでなんとか良い成績を収めて、オリンピック出場を果たすことができました。
中学生の頃から死ぬ気で頑張っていた陸上でオリンピックに出られなかったことで、中学の恩師から「お前は出られると思ってたんだけどなぁ」という言葉をいただいたり、自分の中でもずっと残念な思いを抱えていたので、オリンピックに出られてすっきりしたというか。自分の身体を使い切ったスッキリ感はありました。今は経験した全てが財産だなと感じています。種目をトランスファーすることには、さまざまな意見があるかもしれませんが、オリンピックの経験が私の人生や指導に大きく影響をもたらしたと思います。まずは、 “勝てる場所で勝つ”ということが私のアスリートとしての矜持です。私の場合、いつでも、“好き”は後からついてきました。
そうですね。好きで選んだのではなく、勝てる種目だったから400mを選びました。誰でも自分が勝てるものってそんなに多くはないと思うんですね。スポーツだけじゃなく勉強でも1位になる人はすごいし、ピアノをやっている人、手先の器用な職人さんなど、どんな人でも自分にセンスがあることを自覚して、勝てる場所でやっている人は強い、結果はまっていくという形もあります。自分が好きだからといって、不得手なカテゴリーに行っても結果は残せませんから、まず適性のあるカテゴリーに行って、そこで勝つことは大事だと思います。勝てば、好きという感情は後からついてくるものです。どのジャンルにおいても、成功体験は自己肯定感と自信を作り上げます。“私はできる”という感情が次の積極的なチャレンジに繋がり、成功が連鎖していきます。
そうだといいですね。とにかく伸び悩んでいる人は、扉を閉ざしたままにしないでトランスファーの可能性も視野に入れてみるといいかもしれません。体育学生の鍛えられた精神と身体は、一つのジャンルにとどまらず、可能性は広く、さまざまな未来につながっているはずです。自らの可能性を伸ばせる環境、種目を柔軟的に考えて良いはずです。思いもよらない突破口がそこには存在していて、自分が気付いていないだけなのかもしれませんよ。
自分自身が競技環境で苦労した分、学生の大学からの出口についての活動もしっかり行っていきたいと思いっています。アスリートは競技人口に対して出口が狭いので、選手の受け皿になるような実業団を増やすことや、社会的能力が高い学生の輩出を同時に行って、結果、「こういう選手は企業にプラスになる」というシステム作りやイベント作りがしたいですね。
もうひとつは、最高の競技力を持っている選手を養成する場である大学に、もっと外国人選手を招いて活性化させること。それが日本人選手への刺激になるだろうし、インカレ優勝が最終目標ではなく、世界標準の選手になりたいと思えるような環境作りを推進していくことが、僕の密かな目標です。
最高の知識に触れ、柔軟的に自分の形を創造する場所です。
他大学が目指す存在として、高い次元の競技、研究のモデルを示してもらい、そこに向かって我々が追い抜く努力をする対象であり続けてもらいたいと思います。
所属: | 大東文化大学 |
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役職: | スポーツ・健康科学部 専任講師 |
出生年: | 1980年 |
血液型: | AB型 |
出身地: | 埼玉県鶴ケ島市 |
出身高校: | 埼玉県立松山高等学校 |
出身大学: | 早稲田大学人間科学部スポーツ科学科 |
出身大学院: | 筑波大学大学院体育研究科コーチ学専攻 |
研究室: | 陸上競技研究室 |
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部活動: | 陸上競技部 |
住んでいた場所: | 天久保 |
行きつけのお店: | 百香亭 , フィンラガン |
ニックネーム: | シンタロウ |
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趣味: | 選手の育成, トレーニングの研究 |
特技: | 選手の育成, トレーニングの研究 |
尊敬する人: | 両親 |
年間読書数: | 30冊 |
心に残った本: | 敦煌, 氷壁 |
心に残った映画: | コーチカーター , インビクタス(負けざる者たち) |
好きなマンガ: | スラムダンク |
好きなスポーツ: | 陸上競技, ボブスレー |
好きな食べ物: | 果物類 |
訪れた国: | アメリカ、カナダ、ロシア、ベルギー、スイス、イギリス、フランス、ドイツ、中国、韓国 |
大切な習慣: | 早朝に学ぶ事。夜は早く寝ること。 |
口癖は?: | 全然、大丈夫でしょ。 |
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