器械体操選手として日本のトップに上り詰めたこともある大畠佑紀さん。新卒採用された会社を半年で退社し、次に勤めた会社では、元アスリートとしての負けん気の強さを「生意気だ」と叱られることもあったという。ところが今はシンガポールを拠点に起業し、クーポンサイトの運営企業を発展させ、IT業界では注目の経営者となりつつある。彼女が輝かしいセカンド・キャリアを築いた背景には、上司の“ある教え”を地道に実践した彼女のひたむきさがある。
器械体操の振付師だった叔母に連れられて、体育館で体を動かすうちにどんどんのめり込んでいったという感じですね。始めた当初から強化選手のようなポジションに置かれていましたし、持ち前の負けず嫌いな性格もあって、どんどん結果がついてくるようになりました。
中学生の大会だと常にトップの成績でしたから、社会人を含めた全選手が出場する全日本選手権でも「きっと優勝するだろう」と周囲に思われていたほど、心身共に充実していた時期でしたね。高校2年生の時には日本代表としてアジア大会に出場し、団体2位の成績を収めることもできました。
ところがチャンピオンという肩書きにプレッシャーを感じてしまうと、一度の優勝以降は個人戦で思うような成績が出せず。指導者との方針の違いに悩み、モチベーションが下がってもいたこともあって高校卒業と同時に引退。オリンピックに出場したいという夢は叶いませんでした。
常に第一線で活躍したことで、正直、色んなやっかみがありましたが(笑)、それにも負けない精神的な強さ。そして体力も含めて、今、経営者として生きている私の糧になっています。十代のうちに、あんなにも熱中できるものがあって良かったですし、私の原点は全て体操にあるといっても過言ではないです。
それまでの人生で体操しかしてこなかったので、体操を辞めた高校卒業後は「私の将来はどうなっちゃうんだろう」と不安を感じていました。そんな時、両親からのアドバイスで筑波大に自己推薦で挑戦してみることに。筑波大の体育専門学群なら、現役選手だけではなく、選手だった人間の経験や知識を生かして学べる環境があると思ったのです。
それから小論文の勉強を始めて、過去の経歴をすべてまとめて、いざ面接。10人ぐらいの先生を前に「これまでの経験を無駄にしないためにも、筑波大に入りたいです」と熱心に伝えたところ、「この大学は、あなたのような人の未来の可能性を広げる場所です」との考えを持っている先生がいたおかげで、無事筑波大に入学。あの時は救われたような思いでしたね。
結局、勉強よりもダンスに明け暮れてしまいました(笑)。大学に入るまでは学校と体育館の往復で、友達と遊ぶことを経験しなかったですし、常に体重制限をしていた生活でしたから、その反動が一気に出たんだと思います。夜中にラジカセを持ってみんなで踊って「イエーイ!」ってハシャいだり、週末は東京のクラブに繰り出してステージでダンスを披露していたことが大学時代の一番の思い出です。
その会社が丸の内にあったので、「丸の内OLになれる!」という不純な動機で入社してしまったので、結局、6か月で辞めてしまいました。今思えば、当時は「こういう仕事がやりたい」よりも、「カッコいい女になってバリバリ働きたい」というイメージだけが先行していたように思います。
年齢によってカッコいい女性像のイメージは変わってきますが、就職して働き始めたばかりの頃は「35歳になったらエルメスのバーキンを持って、高級車に乗って、高層マンションに住めるようになりたい」という表面的なカッコ良さにとらわれていました。ところが今、35歳が近い年齢になってみると、エルメスのバーキンを持って歩いている女性に対して「あんなものを持って何の役に立つんだろう?」と思っている私がいます。
いまだに“真のカッコいい女性”がどういう女性なのか、答えは出せずにいますが、いつか私がカッコいい女になれた時に「これだ」と思えるのかもしれませんね。
社長と私、2人だけの小さな会社でしたので実質ナンバー2として働いていました。あの2年間はとにかく忙しくて、毎日7~8件の打ち合わせが入っていることは当然でしたし、もともとコーチングを得意としている社長だったので、何か相談しても「君はどう思う?」と聞き返されて、自分で答えを出さなければいけませんでした。あの環境の中で、社会人としての私は育てられたと思います。
選手時代に培った負けん気の強さもあって、当時の私にはとげとげしさがあったようで、学生さんも私の言うことを聞いてくれなければ、取引先の会社の方にも「小娘のくせに生意気だ」と、よく叱られていました。そんな時、社長がこんなことを教えてくれました。「大畠さん、世の中で活躍している人はいつも笑顔で明るくて、みんなが会いたいと思う人ですよ」。
一瞬で目が覚めたような気分でしたね。それからは態度を改めて、お客さんに電話する時には大きな声で「おはようございます!」と挨拶をするなど、可愛がられる人間になれるよう心がけました。あの時に大事なことを教えてくれた社長は、私の恩人です。
選手時代に海外遠征に行く機会が多かったので、昔から漠然と「いつか海外で生活したい」という夢を持っていたのですが、ある時、一軒家に外国人ばかりが集まって働いているモバイルのベンチャー企業に営業に行って「なんだか面白そうな会社だな」と興味を抱きました。その後も、好奇心から何度も営業に通い続けていたら、ある時「今、営業を探しているから来ませんか」とイギリス人の社長に誘っていただきました。
当時、まだ英語が喋れませんでしたが、社長に「みんな日本語が喋れるから大丈夫」と言われて行ってみたら、朝のミーティングは全て英語(笑)。言葉も分からなければ、ずっと人材畑で働いていた私はIT関連の用語も分かりませんでしたから、とにかく必死でしたね。しかも5~6人の従業員のうち、営業職は私ひとり。最初の案件を取ってくるまでに半年かかりましたが、2000万円の収益をもたらすことができました。
ところが1年後の2008年、アメリカで起きたリーマンショックの影響を受けてイギリス人の社長が日本から引き揚げてしまうことに。実質、私が従業員の生活を支える立場として会社を引っ張るようになったことで、「自分がやりたいことを実現するには、どうすればいいだろう」と、少しずつ考えるようになりました。
従業員からは私が社長を担って欲しいと言われたのですが、その時はまだ経営者になる覚悟ができていなかったので、一番最初に入社した人材派遣会社時代の同期が社長になってくれて、ガプスモバイルという会社を立ち上げました。
GPSの位置情報を使って誰が何に興味を示しているかをリサーチし、それぞれのユーザーが必要としている情報を送るというものです。今でこそ珍しくはないですが、当時まだガラケーを使っていた時代にしては最先端でしたので、シダックスやアフタヌーンティー、オリエンタルランドなど大手企業と取引をすることができました。約3年で、あっという間に売上1億円を超えましたね。
しばらくは順風満帆でしたが、2011年に起こった東日本大震災の影響で日本の経済が一時的にストップ。地震直後のケータイのお知らせは地震予測以外はすべてストップとなっていました。だからといって会社の動きを止めるわけにはいかないですから「海外進出しよう」との話になり、2011年4月にシンガポールに視察に行くことになりました。
とはいえアテがあるわけでもないので、インターネットで現地の会社を検索し、「来週シンガポールに行くので、お時間を取っていただけませんか」と電話でアポ取り。日本では当たり前になりつつあった携帯マーケティング事業もシンガポールでは目新しかったようで、皆さん快く応対してくれましたよ。
はい。シンガポールを訪問して2か月後には単身で1か月、シンガポール、マレーシア、インドネシア、タイなど4か国を回ってリサーチし、その時に出会った企業の方々と2011年10月、シンガポールのマリーナベイサンズで『アジア・モバイル・サミット』を開催。そこで培われた人脈と経験が、のちの起業へと結びついていきます。
ラテン語で“女王”を意味する“Reginaa(レジーナ)”という会社をシンガポールに立ち上げました。起業するにあたり「アジアの女王になりたい。トップにいきたい!」という想いが由来になっています。
最初はひとりでシンガポールにある日本企業、例えばモスバーガーやフランフランなどのモバイルサイトを作成するなど、コンサルティング業務を行っていましたが、シンガポールに店舗を持つ日本企業の場合、ウェブサイトにかける費用はそれほど大きな額ではありません。それなら、それぞれのサイトをひとまとめにして提供したほうが私としても、そしてユーザーにとっても便利だろうなと。
そこで、2013年12月に『J PASSPORT』というサイトを立ち上げ、日本食レストランなど約200店舗で使用できるクーポンを、約15万人の会員に向けて発行するサービスをスタートしました。事業の拡大に伴って現在は6名の社員と4名のアルバイト、加えてハノイに開発チームを抱え、現地の日系メディアとしては最大規模を誇っています。
私の会社には日本人だけではなくシンガポール人、インドネシア人、フィリピン人といった違う文化を持った人が一緒に働いているので、とにかく誰に対してもフェアでオープンであることは心がけていますね。分かりやすいところで言うと、どこからお金が入ってきて、誰が何にお金を使っているかをクリアにし、社員みんなが閲覧できるようにしています。
この取り組みをすることで、各々が経営状況に関して責任を持つようになったこと、そして経営者である私と社員との信頼関係を築くことにもつながりました。その甲斐あってか、私が何か問題を抱えたり、大きなことを打ち出そうとする時には、みんなが全力でサポートしてくれるので、とても心強いです。
それまでずっと社員の立場で働いていた私が、経営者になったばかりの頃はどう社員と向き合えば良いのか悩むことも多かったです。が、今こうして良い関係性が築けるようになったのは、社員に支えられていることは大前提ですが、もうひとつの側面として、社員ひとりひとりに執着しなくなったことが要因だと思いますね。
うちのような小さな会社において、「誰かが辞めたら困る」ということにばかり神経を注いでいたら、本来のやるべきことへの注意力が損なわれて会社がうまく回らなくなってしまいます。それなら、ある程度の業務はオペレーション化して社内のノウハウとして蓄積し、今後新しい人材が加わったとしても誰もが気持ちよく働ける環境を作ることで、いつも最大限のパフォーマンスが出せる状態にしておかなければいけません。
それに気付いてからは、ずいぶんラクになりました。社員はのびのびと働くようになりましたし、私も私で「あの人、また遅刻してきた」とか「そんなに有休取るの⁉」といった小さなことに煩わされなくなりましたから(笑)。
今後、もっと上を目指してシンガポールにおいて圧倒的なメディアになることを目標にしているので、そのためにはどこかと組んで事業を拡大するのもひとつですし、私の勢いをもって「えいっ!」と飛び越えることもひとつの方法かもしれないと、起業して5年目で岐路に立たされているところです。これまで私がやってきたことや、私のことを応援してくれた人、そして社員のことを考えると、ここでもうひと踏ん張りしなければいけないなと。
実は今年、結婚を控えているのでプライベートも充実していますし、週に一度、シンガポールのちびっこチアリーディングチームに体操を教えているのも息抜きになっていますね。前方回転を教えたり、側転を教えたり、昔、私が夢中になっていた体操をシンガポールの地で若い世代に教えることができて、「すべての経験は無駄ではない」ということを実感しています。
現役選手ではないからといってはじき出さず、私のポテンシャルを生かしながら育てて下さった先生方に感謝しています。
若い内はリスクもないし、失う物もないから、やりたいことがあるならやってみましょう! 私は“世の中は遊園地”というモットーで楽しみながら仕事をしていますが、働くことはワクワクすることだということを、いつまでも忘れないで欲しいですね。
所属: | Reginaa Pte Ltd. |
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役職: | Founder & CEO |
出生年: | 1982年 |
血液型: | A型 |
出身地: | 埼玉県さいたま市 |
出身高校: | 戸田高校 |
出身大学: | 筑波大学 |
学部: | 体育専門学群 |
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研究室: | スポーツ哲学 |
部活動: | リアルジャム |
住んでいた場所: | 天久保 |
ニックネーム: | Yuki |
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趣味: | 旦那 |
尊敬する人: | ママ |
年間読書数: | 50冊くらい??もっとかな? |
心に残った映画: | コヨーテアグリー |
好きなスポーツ: | ダンス |
好きな食べ物: | お寿司♡ |
訪れた国: | けっこうたくさん。 |
大切な習慣: | 笑う! |
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