1960年代後半。大学紛争に巻き込まれ、授業も部活も十分にできなかったという東京教育大学(現・筑波大学)時代。櫻井さんは、スポーツジャーナリストになる夢を叶えるべく就職活動に励むが、ご縁を紡いだのはアパレル業界大手のグンゼ株式会社。伝統ある老舗企業に革新を起こし社内ベンチャーとして起業、グンゼスポーツ(株)の代表取締役社長に昇り詰めた彼の半生は、時代を読むこと、そして運命に逆らわないことで、人の運・時の運に恵まれ、自然と道が切り拓かれたようだ。人生の先輩に聞く。
私は長野県飯田市の貧しい農家の次男坊として育ちました。家業を継ぐ長男以外は家を出なければならないことは自覚していましたが、進路に迷っていた高校時代、東京教育大学を卒業した新任の先生が、私が入学した飯田高校に保健体育の教諭として赴任しました。私は庭球部(軟式)に入部、先生はサッカー部の顧問でしたが、授業で教えていただくうちにその人柄に強い影響を受け、教育大に進みたいという気持ちが芽生えてきました。家が裕福ではなかったので国立大しか受けないと宣言し、憧れの東京へ出たいという気持ちもあって、東京教育大学を受験することにしました。
貧乏学生でしたね。東京・武蔵野市に飯田地方出身者向けの学生寮があり、2食付きで寮費は月額6,000円。国立大の授業料が当時は月1,000円で、私は月8,000円の特別奨学金をもらいながら、家庭教師のアルバイトもしていましたから、何とか仕送りなしで親に負担をかけることなく学生生活ができました。当時、大学の本部やテニスコートは大塚、体育学部は幡ヶ谷にあったので、両方への通学にも便利でしたね。大学では硬式テニス部に入部しました。硬式に転向して1年でレギュラーに抜擢され、春のリーグ戦で5時間にわたる試合を粘って勝ち、少し自信がついた気がしました。
ところが在学時の1960年後半は、大学紛争真っただ中。1年生の頃はまだ良かったのですが、2年、3年となるとロックアウトといって大学は封鎖され、テニスコートは鉄条網で囲まれ、授業も練習もできない状況になってしまいました。学校外のコートを探してあっちに行ったり、こっちに行ったり、渡り鳥のように練習していました。授業や練習を休み、クラスの仲間や部員同士でもずいぶん意見を戦わせました。教授陣の間でも意見が分かれ、大学全体が大いに揺れていましたね。70年安保闘争のデモに参加したテニス部の後輩が警察に捕まり、当時キャプテンだった私が東京拘置所まで面会に行ったこともありましたよ。
ほとんどの学生が教職課程を履修し、教育実習もしました。入学するとすぐ、地元の信州から「卒業したら教員として戻ってきなさい」と誘われていたのですが、大学紛争の途中から教育界に魅力を感じなくなっていました。もっと広く世界を知りたいと思い、スポーツジャーナリストになりたいと夢が変わっていきました。通信社や新聞社のスポーツ記者を受験しましたが、付け焼刃ではうまくいきません。大学院に行こうか悩んでいた時、4年前にグンゼ株式会社に入社した体育社会学の先輩が研究室を訪ねてきて、教授に「後輩をひとり、グンゼに入社させたい」と依頼したのです。
私を含め、就職が決まっていない5、6人が集められて説明会が開かれました。しかし、メーカーで働くことに興味がなかった私は、教授に誘われてただ顔を出しただけでした。「履歴書を出しなさい」と言われて一応出しましたが、誰か他の人に決まるだろうと軽く考えていました。しかし、大阪本社の面接に呼ばれたのは、私ただ一人。どうしよう、行く気もないのに困ったなぁと。
間が悪いというか、良いというか、グンゼの面接と同時期に大阪でテニスの全日本選手権大会が開催されていました。「そうか交通費タダで全日本大会が見に行けるぞ!」と不埒な考えをしました(笑)。その時は、就職活動の交通費を会社が負担してくれましたから。そんないい加減な気持ちで面接に行くと、事前に知らされなかった筆記試験があり、当然力が発揮できるわけもなくボロボロでした。翌日に面接を受けましたが、何を聞かれたのかあまり覚えていません。ただ、「大学受験は1校だけだったのか」、「高校・大学と主将をしていたのか」など、あまり仕事と関係ない質問があったことは覚えています。早々に面接を終えた私は、本命であるテニスの試合を楽しんで帰ったわけです。試験には他の国立大や早稲田・慶應の学生も多数来ていましたから、まさか選ばれるわけないと思っていませんでしたが、数日後『合格』という通知が届き驚きました。
肩の力が抜けて、私自身のありのままの姿を見ていただけたのが良かったのかもしれません。受かるつもりで本気で臨んだ会社には採用されなかったことを思えば、そこが大きな違いかなと思います。大学院進学や再チャレンジの道もありましたが、そうそう親に負担をかけられない状況でしたから、これも何かのご縁だと就職することを決断しました。また、学閥や縁故のないビジネスの世界で、思い切り実力を発揮したいと思ったのも決断した一因でしたね。その時心に誓ったのは、「入社したからには最後まで勤め上げる」こと、「何事にも手を抜かず全力を尽くす」ことの2点でした。
それが入社から2ヶ月ほど経った頃、大学で勉強したことが役に立つことを実感した出来事がありました。当時、創立75周年を迎えたグンゼは、全社員を対象に会社の将来について論文を募集していました。赴任地は宇都宮工場でまだ実習していましたが、工場長から「新入社員は何でもいいから論文を書いて出しなさい」と言われて、しょうがないなぁという気持ちで書いてみることに。ところが、仕事が終わってから男子寮に戻って、ウンウンと考えてはみたけれど、グンゼは繊維製品を生産するメーカーですから、何も知識のない新入社員の私がアパレルについて論文なんて書けるわけもないのです。
どうせ通らないことは目に見えているから、好きなことを書こうと開き直りました。そうだ、大学で学んだスポーツ社会学を生かして書いてみようと・・・。将来の人口推移から高齢化社会の到来や、健康保険や年金に対する不安が話題になっていました。また、世の中が高度成長期に入り、近い将来所得が増え経済的に豊かになるだろう期待感がありました。特に、欧米と並ぶ一流国家になるには「労働時間短縮、休日の増加」が緊急の課題となり、時代の流れは8時間労働への短縮、週休2日制にシフトする世相でした。「労働時間が少なくなれば余暇時間が増え、レジャーやスポーツで活動する時間が増えるだろう、そのためにだれでも安全にスポーツができる民間の総合施設を作りましょう」といった内容を論文で提案しました。それが、なんと入選してしまったのです。どうもグンゼという会社は、メーカーにはあまり役に立たない私を採用し、将来が分からないスポーツビジネスに参入しようと、不可解なところがある会社だなと思いました。
その頃の日本は、アメリカのスポーツクラブを参考にした施設が年間200店舗以上も出店する、第一次フィットネスブームでした。グンゼもスポーツ事業に参入し、尼崎市にオープンした1号店の立ち上げに参加。40名の社員のうち、本社からは社長、経理部門を除けば私と後輩の社員(筑波大大学院卒)が出向し、半数は体育系大学や専門学校からの新入社員に加えベテランの経験者半数と、かなり若い人員構成だったので勢いがありましたね。グンゼにとってサービス業は初の進出のうえ、まだ小さい規模でしたので本体とは一線を画し、“自主独立”の精神で色んなことに挑戦して、好きなことをやっていこうという雰囲気が充満していました。
最初は、現場の統括責任者としてアスレティック課長という役職でした。約1万㎡以上の大きな施設で、プール、ジム、テニス、ゴルフ、ラケットボール、体育館に加え、各種スクールなどの運営が円滑に回るよう気を配りました。日本プロテニス協会公認コーチの資格を取得し、私自身もテニスコーチとして週10クラスほどレッスン指導をしましたよ。会社として初めての試みでしたから、現場の運営には神経を研ぎ澄ませていたぶん、逆にレッスンの時は思い切り身体を動かし息抜きの時間になりました。
新規出店には全て携わっていましたから、苦労は数え切れませんね。出店する場所を決めたら、次は地権者や地主との交渉、会員募集……やることは山積みでした。ただ、三宮、川西までは時代の後押しもあり、順調にいったのですが、4店舗目を群馬県前橋市に作った頃にバブルが崩壊。建築費の高い施設を作って、高い家賃を払っている割に会員数が目標に届かず苦労しましたが、現地で3年ぐらい粘ってなんとか軌道に乗せ、グンゼスポーツの本社(関西)に帰って来ました。
すると今度は会社全体の収益が下がっているという。グンゼからは「もう新規出店はするな」と言われました。が、「リスクの高い投資はダメだ」という条件付きだったので、ここは私の力が試されていると感じ、次の一手を打つことにしました。
大阪国体が開催され、羽曳野市に新築された体育館内にトレーニングジムとスタジオを作る計画があるという情報を得ました。しかも市は運営受託という形態を希望していることを耳にし、入札に参加、市と交渉を始めたのです。受託ならうちの会社のリスクも少ないですから。ところが時の市長はなかなか交渉上手で、条件面など困難を極めました。私は思い切って「受託ではなく、私共に全てを任せて下さい」と提案してみることにしました。市民のためになる施設にする、そして利用者数をこれだけ増やしますと緻密に事業計画を練って、必死に説得。最終的に「そんなに言うなら全面的に任せる。ただし、固定賃料はもらうからリスクは君の会社が負うこと」という条件付きで、グンゼスポーツが経営の全てを担うことになりました。
責任を負えばリスクも負うということは、逆に言うと、何か問題が起こった時に自分たちで工夫をすれば何とか立て直せるということなのです。もし市が運営権を持っていたら、私たちのやりたいように立て直すことはできませんからね。企業というのは、完全に受託業者になって発注者の仰せの通りにやるか、自分たちで自立してやるかの、どちらかひとつです。グンゼの場合は会社自体が独立系、自分たちのお金で自分たちの好きなようにやる体質ですから、私も自然とこのような考え方になったのかもしれません。その後、この案件は公共の体育館(一部ではあるが)を民間企業が運営するという、今の指定管理施設の先鞭をつけた事例として取り上げられることになりました。
当初は不安がありましたから、1000人ぐらいが会員になってくれれば、採算がとれるという計算で臨んでいました。しかし、会員募集の初日驚くべきことが起こりました。入会受付のスタッフをいつもより多く20人程引き連れ、体育館内に新店舗受付のスペースを設けましたが、想像をはるかに上回る人数のお客さまが体育館につめかけ、なかなか受付が進まない状況に怒り出すなど騒然となってしまったほどでした。私は皆さんの怒りを静める係りに徹し、受付現場は大混乱をきたしましたが、内心はホッと肩の荷が下りた気がしました。
いやぁ、あの時は脚が震えましたね。グンゼからは「リスクを負う新規出店はするな」と忠告されていた直後でしたから、相当なプレッシャーはありました。最終的には会員数2000人で抑え、施設の規模がそれほど大きくはなかったので、1年間は会員募集をストップしました。この一発逆転のおかげで、グンゼ本体に認めてもらえるようになり、その後の新規出店へ加速しました。
自分で会社の風土を作り上げ、ダメだったら自分で責任を持つ「企業内ベンチャーだ」と、創立した時からそんな覚悟を持っていました。グンゼスポーツが設立された当初から「経営のトップに立ったらこうしたい」という視点を持って働いていましたから、長年、思案していたものが社長時代に実践できたと感じています。
今振り返れば、東京教育大時代のたまたまのご縁で入社した会社でしたが、結果的に企業内で新しい会社を立ち上げ、経営まで任せてもらえたことは幸運だったと思います。グンゼスポーツ設立から退社するまで25年間、本社に戻る話もありましたが断り最後まで勤め上げることができたのは、自分が立ち上げた会社だという自覚と、学生時代から親しんでいたスポーツが好きだという本能からかもしれません。
定年まで勤め上げたら、あとは自分のやりたいことをやろうと思いつつ、やはり何かスポーツ業界に貢献できることはないだろうかと。そう考えた時に、スポーツジャーナリストなら私自身の夢も叶うし、取材を通して業界をサポートすることもできるので、これは良い案だと思いグンゼスポーツ時代から交流のあったクラブビジネスジャパンと契約を結ぶことにしました。スポーツの現場に足を運んで写真を撮り、記事を書く。今は、そういう仕事を楽しみながらしています。
新入社員だった私が論文を書いた頃からは想像できないほど、今はスポーツに対する理解も深まり、スポーツ人口が増えました。しかし、どちらかというと観るスポーツやマラソン・ランニング人気に押され気味で、フィットネス業界そのものの市場規模や参加率は増えていません。もっと規模を大きくするために、何か新しいことをしなければいけないとも思いますし、フィットネス業界で働く人材の育成にも力を入れなければなりません。
先日、ある教授の話に大変ショックを受けました。スポーツビジネスやスポーツマネジメントを学んだ学生にとって、フィットネスクラブは就職先の対象に入っていないのだそうです。彼らの発想として、フィットネスクラブに就職することはインストラクターとして働くことであり、彼らが志望するのはスポーツ用品のメーカーやサプライヤー、プロ野球、Jリーグといったチームで働くというイメージなのだそうです。
そうかもしれませんね。ですが今、フィットネス業界で一番求められているのはマネジメントができる人材です。インストラクターやコーチができて、かつマネジメントもビジネスもできる人間は限られているぶん重宝されます。そういう人材がたくさん集まる魅力的な業界になることが、フィットネス業界の今後の課題かなと私は思います。
“Human Way”ですね!! 東京高師から筑波大へと続く茗渓の流れは、人間尊重、人材育成に受け継がれていると思います。相手を尊重し、話をよく聴き、論理的に教えることができる。それが“つくばWAY”の本流です。私も、多くの先輩から厳しい指導を受けましたが、けして暴力的ではなく、話をきちんと受け入れ、論理的に納得するまで説明いただくなど、非常に良い関係が続いています。社会に出てからも、多くの先輩や同僚・後輩が助けてくれ面倒を見てくれました。また、大学時代からの友人は、一生の友として今も続いています。「もし、人生でもう一度戻ることができるなら」と問われたら、やはり大学時代ですね。私の宝です。
好きなことをやることです。けっこう、想いはかなうものです。私は、「反省はしても、後悔はしない」ようにしています。その時々で選択肢はありますが、選んだ道の先には何かが待っていると思っています。大学や大企業が大きく立派でも、待っていても何かをしてくれるわけではありません。自分が何をするかが大切です。安定していてつぶれる心配がないから公務員や教員になろうと思うのは、仕事そのものに対し失礼です。自分の好きなことをやる。もし就職したいなら、20~30年後に発展しそうな業界や企業を選ぶと良いと思います。人生、50~60歳ころにピークが来ると、きっと楽しいですよ。(笑)
所属: | 株式会社クラブビジネスジャパン |
---|---|
役職: | 関西支社 記者 |
出生年: | 1948年 |
血液型: | A型 |
出身地: | 長野県飯田市 |
出身高校: | 長野県立飯田高校 |
出身大学: | 東京教育大学 |
学部: | 体育学部 |
---|---|
研究室: | スポーツ社会学(当時は体育社会学) |
部活動: | 硬式テニス部 |
住んでいた場所: | 武蔵野市、杉並区下高井戸 |
ニックネーム: | 棟梁 |
---|---|
趣味: | 写真、旅行、ゴルフ |
尊敬する人: | 両親、太田芳郎 |
年間読書数: | 50冊 |
心に残った本: | 大地(パール・バック) |
心に残った映画: | ローマの休日 |
好きなスポーツ: | テニス、ゴルフ |
好きな食べ物: | スィーツ |
嫌いな食べ物: | なし |
訪れた国: | 15カ国 |
大切な習慣: | 夜9時以降は食べない |
口癖は?: | 失敗を隠さない |
TSUKUBA WAYに関するお問い合わせはこちらから!
お問い合わせ