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“一日一善”の充実感を得るために踊り続ける

Professional
2016/10/17
インタビュー
  • 51
コンテンポラリーダンサー/振付家/筑波大学 体育系 准教授
平山 素子
(体育専門学群 1986年入学 / 大学院 1992年入学)

ダンサーは一見華やかそうに見えて、なかなかプロとして食べていくのは難しい職業だ。当然、同級生には「ダンスなんてお金にならない」と言われ続けたが、数々のコンクールで賞を受賞し、現在は筑波大准教授、そしてフィギュアスケートやシンクロナイズドスイミングの振付家として、その道を究めている。今の活躍を「決して望んでつかんだものではない」と平山さん。今に至った背景に一体どんな物語があるのだろう。

世界大会で優勝。創作ダンスのパイオニアに

ダンスの道に入り、筑波大を志した経緯を教えて下さい。

5歳でバレエを始めましたが、幼少時代はダンスのプロになりたいという気持ちはありませんでした。それが大学進学を考える頃、ダンスで受験できる大学を調べていて筑波大を見つけました。それでも当時はダンスの専門的な職業に就きたいというより、とにかく良い大学に入りたい、そんな気持ちのほうが強かったように思います。

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大学ではどんなことを学びましたか?

幼少から高校までバレエを続けてきましたが、決まった様式があって役を演じて踊らなければいけないバレエに違和感を持っていたこともあり、大学では創作的なダンスに自然と進みました。そんな中、教授である若松美黄先生の影響は大きかった。授業にパンタロンで来て、まるで西城秀樹みたいだったんです(笑)。それまで型通りに踊ることしか知らなかった私にとって、先生の自由なスタイルは刺激的でしたし、先生に出会わなかったら今の私はなかったと思えるほどです。

関東の大学に進学したことも良かったことのひとつで、名古屋時代は見たこともないようなダンスに出合い、海外のダンスカンパニーの公演を観劇するなどたくさん刺激を受けました。大学内外で未知なる世界に触れる度に「もっと自由に好きなように踊っていいんだ」と、新鮮な価値観が芽生えた4年間でした。

競技スポーツの学生が多い体育専門学群に身を置いて、スポーツをしている学生からどんな影響を受けましたか?

サッカーの井原正巳くんや中山雅史くんは同級生で、時々一緒に飲んだりしましたよ。柔道部の友達に酔って投げられこともありました(考えてみたら危ない)。でも彼らのようなトップ選手は、夜更けまで飲んでいても必ず朝からトレーニングをするんですよね。遊ぶ時は遊んで、締める時は締める。そんなタフでストイックな人が大成するんだなと底力と良い意味での余裕を感じました。

ご自身はストイックでしたか?

どうだったか。でも、休むと感覚を取り戻すのに時間がかかるため、休むのが怖くて週5,6日は何らかの形で練習してましたし、その他の日も何か新しい取り組みをしたりしていました。部活動がなければ、東京まで電車で出ていき、複数のダンスクラスを受講した後、公演を鑑賞して筑波に戻る、そんな日もたくさんありました。友達付き合いは適度にありつつも、やはり自分に向き合っている時間が長かったという印象がありますね。ストイックなのかな?

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筑波大に行って良かったことを教えて下さい。

知性が高く、プライドも持っているのに決して天狗にならず「まだ上を目指せる」と謙虚さのある人たちと出会えたことです。バランスがいいんです。その中に身を置くことで「私」という個性が形成されていったように思います。

もし高校を卒業してそのまま舞踊界に飛び込んでいたら社会性が追い付かなかったと思います。ダンサーは外の社会との接点が少なく、世の中の成り立ちを理解していなくて、ダンスの本質的な魅力や価値を上手にアピールできていない気がします。そういった意味では、私は筑波大で「これが何の役に立つんだろう」と思いながら論文を書いたり、スポーツにかかわる知識を学んだりしたことが糧になっていますし、今の立ち位置にいられるのは筑波大に進学したからだと思っています。

現在は筑波大体育系の准教授としてご活躍されています。

教員として戻った理由は、私が歩んだ道のりを学生に伝えることで「筑波大からでもダンスのプロになれる」と思って欲しかったから。筑波大の学生は、入学当時は磨かれていない原石のようで、4年間で別人になるほど成長する可能性を秘めています。こちらのアプローチの仕方や本人の体験の内容によって結果が大きく変わります。

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卒業後に歩んだ道のりについて教えていただけますか?

親に勧められて一応4年の時に名古屋市の教員採用試験を受けましたが、やる気がなく対策を練りませんでしたから当然落ちてしまいました。(笑)じゃあ大学院に行こうと1年待ってコーチ学専攻に進みました。特に学びたい目標があったわけでもなく、結論を先送りする猶予みたいな期間でしたが、実はこの時期にその後の活動に影響を及ぼすような様々な出会いがありました。

ダンスに関しては、どんな変化がありましたか。

学生時代はただ部活動で楽しく踊っていただけですが、4年生の卒業公演で初めて創作したソロ作品を若松先生に褒めていただき、国内の全国コンクールに参加したところ奨励賞を受賞しました。その時にどんな作品が上位を獲得するのか見て勝手に分析し(ここが筑波大生っぽい)、翌年に類似した作品を試しに創作して出演したところ6,7位まで順位が上がりました。そこで、大げさな言い方ですが受賞したいという欲(悪魔)との駆け引きが生じました。その後、コンクールで同じようなスタイルを4年ぐらい続けましたけど、2位止まりで絶対に1位になれませんでした。どこか冷静に「これは自分のやりたいダンスではない」と感じていながらでしたから。やはり誰かの物真似では、トップにはいけないんです。

そんな葛藤を抱えていた頃、1999年に世界バレエ&モダンダンスコンクールという国際大会に応募をしてみたところ、日本国内から100人ぐらいビデオで応募があった中、採択された4人に私が選ばれました。

大会にはどんな気持ちで臨んだのでしょう?

国内大会のように、“上位入賞確実なスタイル”を知りませんでしたから、とにかく自分の表現したかったものを盛り込みました。結果、完全にノーマークだった私が1位の金メダルを受賞。特に海外の審査員から高く評価していただき、かなりの得点差で1位だったんですよ。海外に私のダンスを評価して下さる人がいると思うと大きな自信になりましたし、以降は出演や振付の依頼がどんどん増えていきました。

特にやりがいを感じたのは、バレエのガラコンサートで私のダンススタイルを披露したことです。目の肥えた、でもちょっと保守的なバレエ好きの観客が私の作品を面白いと受け入れたことで、これを機にもっと古典以外のダンスに親しむ人が増えて欲しいとパイオニアとしての責務を感じるようになりました。また、コンサートで共演したボリショイバレエのプリンシパル、スヴェトラーナ・ザハーロから私の作品を踊りたいとのオファがありとても驚きました。大スターが私の作品を世界中で踊ってくれていることは大きな誇りと喜びです。

振り付けで大切なのはHowとWhy

プロのダンサーになったのは、世界大会での優勝がきっかけですか?

基本的にはそうです。実はその前の大学院を終える少し前からH・アール・カオスという女性だけのダンスグループで活動しました。このころちょうど日本ではコンテンポラリーダンスの普及と発展の時期にぴったり合っていて、このグループはストイックな身体表現とスリリングな演出で大変人気がありました。日本国内の小さい劇場から始まり、北米ツアーをするまで経験しましたので、まさにインディーズからメジャーデビューという感覚を体験しました。プロ意識はこのころ芽生えていて、7年間活動を共にしましたが、国際コンクール優勝後は個人的な仕事のオファーが多くなってきたため、グループから離れる決断をしました。

07.05.31 新国・平山素子公演アルバム

その後、2001年に文化庁派遣在外研修員として3ヵ月間ベルギーに滞在されていますね。

はい。H・アール・カオスを離れて自分の次の活動の拠点に迷っていました。そんな頃でしたから全てをリセットしたい時期でした。出発間際に「筑波大の教員公募に応募してみたら」と頭川昭子教授に連絡をいただいて、慌てて書類を整えて提出し、そのままベルギーのブリュッセルに行きました。ブリュッセルは新しいダンスの宝庫で、留学中はオーディションを受けるなど精力的にリサーチして、ヨーロッパでの活動に魅力を感じつつあったのですが、筑波大学の採用が決定したとの連絡受け、後ろ髪ひかれつつこれも運命かなと日本に戻る決意をしました。

帰国後、2002年から筑波大学の教員として勤務。

卒業後しばらくは、同級生に会う度、「ダンスなんて続けてお金になるの?」と、よく言われていました。ですから、「なんでお前が先生⁉」ってびっくりされますよ(笑)。「好きなダンスをやってただけじゃん」って。彼らは大学でスポーツに区切りをつけて就職していきましたから。確かにそうなんですけど、「じゃあ仕事にすればいいんでしょ」と意地を張ることで、向上心を持つことができた気がします。なによりも、筑波大就職は両親が喜びました。(笑)

でも今のポジションは望んでいたいうより、ダンスを続けている中で偶然舞い込んできた“運”だったと感じています。ですから、進路に迷っている学生には、どうしても欲しいものこだわることもいいけれど、向いているもの、自然に向こうからやってきたものと上手く付き合うということも結構人生で大事なことだとアドバイスしたいですね。

年々活動の幅が広がり、最近ではシンクロナイズドスイミングやフィギュアスケートの振り付けも行っているとか?

そうです。今季のシンクロの陸上動作は私が振り付けたもので、リオオリンピックはドキドキしながら観ていました。メダルが獲得できて本当によかった。スポーツの振り付けに関わり始めたのは、フィギュアスケートの村上佳菜子さんへの指導がきっかけです。2010年に彼女がシニアに上がり大人っぽい演技に挑戦したいという頃です。技を決めて自分をどう魅せるかだけに過剰にならず、なぜ手を挙げるのか、ジャンプをするのかという“How”と“Why”を自身で生み出していくことが大切だとお話ししました。例えばジャンプ1つにしても、好きな人に気持ちが伝わった瞬間の喜びで飛び上がってしまったなど、背景をしっかり描き出しイメージを膨らませることで観ている人の心を動かす演技ができるようになります。最近3年間ほどスケート連盟主催の強化指定選手の合宿でも指導させていただいています。

印象に残っている振り付けの仕事は?

昨年、初めて世界大会が開催されたシンクロのミックスデュエットです。男女の水中デュエットを想像するだけでワクワクしましたし、選手の足立夢実さんと安倍篤史くんはとても創造力豊か。お二人は私の提案する様々なアイデアを理解してくれており、多様な形で演技として盛り込む努力をしてくれました。世間にこの面白さ、素晴らしさを提案する一人に加われたことが嬉しかった。

私自身の作品では2016年3月にスペインのバスクの伝統楽器とアイヌの歌をミックスした音楽にのせた『Hybrid Rhythm & Dance』を発表し、土着的な楽譜のない音楽を表現する面白さを実感しました。プリミティブな要素と先端の技術が絶妙に絡む私の代表作となったと思っています。この作品は今秋、スペインツアーを行います。海外での評価も楽しみにしています。

さらに、(振付ではありませんが)この夏に、積水ハウスのshawoodという木造住宅の「私という家。」編でダンスを踊らせていただきました。身体一つで木のぬくもりや、商品の高級感、そして幸せな人生を表現せねばならず苦労しましたが、とても刺激的な現場でした。これは9月から一年間ほどCM、ネット、新聞などでご覧いただけます。

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アスリートは体の変化に対して敏感ですが、ダンサーも同じですか?

一般的には同じですよ。しかし、私はこれまでは自分の持っている資質だけで怪我なく継続できてきてしまったというのが本音で、筋肉を鍛えることもマッサージもほとんどしません。マックスに追い込んで記録を出すことが目標ではなく、もっと修行感覚に近くて、“一日一善”の充実感を得るために毎日続けているという感覚です。もちろん、追い込まないと体とは進化・強化・成長しないけれど、決して無茶はしません。冷静に分析してから取り組む、そのあたり筑波大卒って感じですよ。

コンクールなどで評価されることが目的というわけではないのですね。

そうです。コンクールは、夢をかなえるための手段ではありますが、目標ではありません。
このあたりがスポーツ界の方にはなかなか理解されにくいものです。
基本的には他人に評価して欲しくてダンスをやっているわけではないのですが、競争は自分の到達度を知る意味では大きな意味があると思います。実際私も国際大会1位受賞がその後の活動に大きな影響を与えましたから。でも、ダンスはもっと原始的でピュアなんです。あくまでも身体から発信される独自の彩を探り出す、なんともゴールのない領域に身を置いています。

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では、今後のビジョンを教えて下さい。

まずは、もっとダンスの価値を上げて、そしてダンサーの地位が上がることで学生が卒業後もダンスの道を志せる環境を作っていけたらと考え始めています。さらに私自身では、これまで年齢というものとの闘い、つまり何とか“維持”ということに専念していましたが、今はまったく異なるボディを作り上げてみたいと、セルフリサーチ中です。

もう1つ、ひそかな目標として宇宙に行きたいです(笑)。2005年に無重力のジェット機の中でダンスを踊るプロジェクトに参加したことがきっかけで、肉体を使うアスリートやダンサーにとってしがらみである「重力」というものを取り払った環境で踊る面白さに目覚めました。その時はあまりの感覚の違いに本当に辛くてはきそうだったんですけれど(笑)。その後、バンジージャンプをしたりスカイダイビングしたり、とにかく「重力」にまつわる新しい体験には興味ありありです。

あなたの“つくばウェイ”とは?

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」。大成しようと努力をして、結果が出るほど謙虚になる姿勢を学びました。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

皆さんが構成員の1人として、筑波大の価値をデザインして下さい。そのために最低限の勉強や、友達を作ることは大事です。それと、機会があれば踊ってみて下さい! 自分の身体が良くわかりますよ。今は筑波大で共通体育の「ダンス」を担当していますから、ぜひ履修してください。(笑)

プロフィール
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平山 素子(ひらやまもとこ)
愛知県出身。愛知県名古屋市立菊里高等学校から、筑波大学体育専門学群へ進学。5歳からバレエを始め、筑波大学入学後からコンテンポラリーダンスを学ぶ。卒業後は筑波大学体育研究科コーチ学専攻に進学し修士号を取得。1999年世界バレエ&モダンダンスコンクールのモダンダンス部門で金メダルとニジンスキー賞を受賞。その後も、自身の舞踊活動が多方面で認められ、ポメリー中部文化賞、東海テレビ芸能選奨、中川鋭之助賞、朝日舞台芸術賞、名古屋市芸術奨励賞、芸術選奨文部科学大臣新人賞、江口隆哉賞など数多くの賞を受賞。2001年には文化庁派遣在外研修員としてベルギーへ短期留学。2002年からは筑波大学の教員として後進の指導にあたるほか、シンクロナイズドスイミングやフィギュアスケートの振付指導も手掛ける。現在、筑波大学体育系准教授。HP:http://www.motokohirayama.com
基本情報
血液型:A型
出身地:愛知県名古屋市
出身高校:名古屋市立菊里高等学校
出身大学:筑波大学体育専門学群
出身大学院:筑波大学大学院
筑波関連
学部:体育専門学群
研究室:舞踊コーチ論研究室
部活動:ダンス部
住んでいた場所:平砂、春日4丁目
プライベート
ニックネーム:もこちゃん
趣味:スーパー銭湯を巡ること
特技:どこでもすぐ寝られる
尊敬する人:私に寛容な人(笑)
年間読書数:50冊くらい
心に残った映画:シンドラーのリスト
好きなマンガ:ガラスの仮面、エースをねらえ
好きなスポーツ:全部好き
好きな食べ物:カロリーの低いもの
嫌いな食べ物:カロリーの高いもの
訪れた国:20カ国くらい
大切な習慣:毎日踊ること
口癖は?:なるほど〜
座右の銘
  • 実るほど頭を垂れる稲穂かな

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