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宮崎スライダー

“皆で作る”が楽しい。壁画プロジェクトで世界へ

Professional
2017/02/27
インタビュー
  • 71
アーティスト
宮﨑 健介
(芸術専門学群 1997年入学)

高校時代、ベルギーの街中で路上スケッチをしたことがきっかけで画家を目指すように。「どうしたら画家として生き残れるだろう」と考えた末、筑波大大学院時代にテレビ番組『あいのり』に出演。フィリピンで壁画を手掛けるなど自身の存在をアピールした。現在のライフワークは“壁画プロジェクト”。「世界中の人々を笑顔にしたい」と語る、その理由とは?

「あいのり」に出演し、海外で壁画ペイント

アートの道を目指したのはきっかけとは?

高校受験を控えていた頃、中学の美術の先生から「君の実力なら、筑波大の芸術学群に入れるかもしれない」と言われたことがきっかけで、地元・佐賀県の芸術コースがある高校に進学しました。

当時は「画家になりたい」という強い意志があったわけでもなく、美大を目指すほどではなかったので、勉強も美術も学べる総合大学なら色んな人と出会えるだろうし、普通に就職するのにしても良いだろうと。高校3年間はずっと筑波大学一本に絞っていました。

高校では、どんな勉強を?

油絵コースを選択し、デッサンの勉強からスタート。でも、その高校には本気で絵描きを目指す人が県内から集まっていたので、僕はめちゃめちゃ下手なほうでしたね。ただ、ずっとスポーツをやっていたおかげで根性だけはあったので、下手だからと諦めずにコツコツと勉強を重ねて、卒業する頃にはなんとかモノになったという感じでした。

そして念願の筑波大に進学。

高校時代にベルギーで2週間、路上スケッチをして「本気で絵描きを目指そう」と思うようになり、とにかく海外に興味を持っていた頃だったので国際都市と言われる筑波ならたくさんの外国人と触れ合えるだろうと思っていたら、実際はそんなこともなく。

芸術学群の学生にしても、高校の芸術コースの友達と比べると絵描きになりたいと本気で思っている学生が少なかったので、入学当初は刺激が少ないと感じました。「卒業して早く海外に行きたい」というプランを持つようになったのは、その頃です。

それがだんだんと友達が増え、寮生活で仲間と過ごす時間が楽しくなって。「人生で、こんな狭い世界で生きていける時間なんてこの先ないだろうから、この時間を大事にしよう」と思うようになり、仲間と一緒にものづくりをすることに興味を持ち始めました。

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どんなことに取り組んでいたのですか?

作品制作よりも、課外活動が多かったですね。当時はまだTXがなかったので、筑波でいかに仲間と楽しむかを考えて、芸専のパーティを開いたり外部の人を招いて音楽イベントやアートイベントを開催したり。筑波は「何もないから自分たちで作ろう」という発想を持つことができる、良い場所だったと思います。

もしも東京の美大に行っていたら、周りに刺激的なものが一杯あるのでゼロから作ろうとは思わなかったでしょうけど、筑波には何もないからこそ自分たちで作るしかない。それが今の自分の活動のベースにもなっていると思います。

卒業後は大学院に進学。

その頃の思い出といえば、大学院を休学して『あいのり』というテレビ番組に出演したことですね。この番組に出ようと思ったのは、後々の進路の考えた時に、美術の世界は大学院を出たからといって何の保証もされていないという危機感があったからです。学生時代に何か目立つことをしないと、卒業した後に日本中の美大の人たちと戦うことができない、普通の大学生活を送っていても勝てないと。

番組に出演していかがでしたか?

テレビで絵が描けるという軽い気持ちで出演したのですが、実際に行ってみると皆さん本気で恋愛しにこられているのでビックリしました。(笑)僕は最後の旅になったフィリピンの孤児院で壁画を描けるチャンスがあり、その経験が大きかったですね。

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テレビの効果は?

一瞬のブームでしたけど、テレビに出たおかげで僕のHPを訪れてくれる人は少なからずいましたし、僕の絵が欲しいと言ってくれる人もいました。そうやって極貧生活を脱し、どんどん絵を描き続けることで絵描きとしてのスキルが上がっていったように思います。

現在のライフワークである壁画ペイントは、フィリピンが初めてだったのですか?

初めて壁画を描いたのは、大学の時にお世話になっていた美容室の壁に描かせてもらった時ですね。その時に感じたのは、普段キャンバスに描いている絵が自己表現のためだとすれば、お店の壁に書くのは商業的といいますか、人に喜んでもらうために描く意味合いがあるのだなと。どちらが良い悪いではなく、僕の場合はその2つを両立したいと考えながら、色々模索して作品に取り組むきっかけになりました。

大学院に復学、そして修了して2005年にイギリスへ。

最初の入り口はワーキングホリデーで、向こうでアルバイトをしながら絵を描く生活を送っていました。ロンドンは多民族が入り混じって住んでいる都市なので、アートを学ぶ環境としてはすごく刺激的でしたね。

ただ、アルバイトで稼いだお金も十分ではなく、絵の具も買えない、書く時間も場所もとれないという状況で、これを打開するためにはどうしたらいいかと考えた時に、「ライブペイントをすれば書く場所が確保できて、その場で見てもらえるチャンスがある」と。うまくいけば材料費を主催者から出してもらえるので、色んなクラブにお願いし、イベントが終わるまでに絵を描き上げるといったことをしていました。

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それがロンドンで見つけた宮﨑さんのスタイル。

そうですね。それまでは落書きスタイルというか、ギャングが描くようなグラフィティに影響を受けたような作風だったのですが、ロンドンにはそういうアーティストがたくさんいて。

東日本大震災後に気付いた絵の持つ力

1年間のワーホリを終え、翌年にはケニアで壁画制作をしていますね。

たまたま見たドキュメンタリー番組で100万人が住むケニアのスラム街があると知り、僕が行ったフィリピンのことを思い出したんです。フィリピンで僕が壁画を描いたのは生活的に苦しい子供たちがいる孤児院で、彼らは僕の絵を見てとても喜んでくれました。その時と同じように、僕の絵でケニアの人の生活をハッピーにできたらいいなと思って単身、絵を描きに行くことにしたんです。

どんなところで描いたのですか。

日本人が運営している現地の小学校でしたが、僕も現地の人も英語がペラペラではなくコミュニケーションがあまりとれていない状態で描いてしまったことで、実はトラブルが起こってしまって……。

どんなトラブルが?

フィリピンではドラゴンの絵を描いて喜ばれたので、同じようにドラゴンを書いたらケニアの人にとっては見たことのない架空の生き物ものを見せられ、しかも彼らの生活を脅かすアナコンダ、つまり蛇だと思われたんですね。学校の父兄は激怒し、登校拒否をする子供も出てしまったほどです。

その後どうなったのでしょう?

2週間の滞在のうちドラゴンの絵に10日かけてしまったから、残りの4日でなんとかしなければと急いでドラゴンを消して、子供たちに言われたものをとにかく描こうとバオバブの木とかライオンを描いて。時間がないから子供たちに手伝ってもらいながら色を塗り上げた結果、すごく明るい、子供たちの好きな世界が詰まったものができました。そして、皆がその絵を喜んでくれる姿を見た時、新たな気付きがありました。

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どんなことを感じたのでしょう?

それまで自分は「アーティストとは、自分のパッションを持って描くべき」で、他人の意見を取り入れるべきでないと考えていたのですが、僕が理想とするのは「皆で手掛けるスタイルだ」と。

そんな思いを抱いて日本に帰国。

2年間のロンドンとケニアでの経験がものすごく大きなものだったので、東京で僕の作品を並べたらきっとスターになれると信じて疑わなかったんですが、全然売れなくて(笑)。途方にくれていたら、展覧会中に筑波大のOBでNHKのアート関係の方が来てくださって、「テレビ番組『熱中時間』のセットを描く仕事をやってみないか」とオファーをいただきました。

それがきっかけで、東京に住みながら絵描きとしての生活がスタート。番組は3年続き、その他にも連続ドラマ小説『つばさ』のセット制作に携わるなど、ようやく生活が安定しました。

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番組終了後の2010年に再び、ケニアの壁画プロジェクトに参加していますね。

2006年に訪れたケニアの学校が新しい校舎を作るということで依頼を受け、もう一度壁画を描きに行きました。その時は最初から現地の子供たちにお願いして制作を手伝ってもらったので、前のようなトラブルはなかったですよ(笑)。

毎年、色んな国に行って壁画プロジェクトを開催しようと計画していましたが、2011年の東日本大震災がきっかけで「日本で僕にできることはないだろうか」と考えるようになり、2011年から3~4年、東北での壁画プロジェクトを開催しました。

東北でどんな壁画を描いたのでしょう?

津波で失われてしまった町の中に、ポツンと仮設の理容室を建てたお店のご主人から「これが理容室だと分かるような看板を描いて欲しい」とオファーをいただきました。最初は「ド派手な絵を描いたら不謹慎かな」と思ったんですけど、そのご主人から復興への強い思いを伺ったり、これまでのケニアやフィリピンでの経験があったからこそ、絵で皆さんを元気づけたいと思い直して、思いきり描いてみたんです。

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皆さんの反応は?

その理容室に人が集まるようになり、新しいコミュニティができました。その様子を見ながら、「絵は人を元気付けるだけじゃなく、人と人とをつなげる力があるんだ」と。これを自分のプロジェクトにして、世界中の苦しんでいる人を元気付けたいと考えるようになり、それが今の「OVER THE WALL」というプロジェクトにつながっています。昨年は東ティモール、今年はウクライナ、そして来年はエクアドルで壁画を描こうと計画中です。

筑波大の外国人学生寮にも壁画を描かれたようですね。

大学側からお話をいただき、当時大学1年だった学生たちと共同制作をしました。卒業してからしばらく経っていますし、TXもできて街が便利になったぶん環境が変化しているかなと思っていたら、今も僕らがいた頃と同じ空気感があってホッとしましたね。やっぱり東京の大学とは違う、筑波ならではの文化が残っていて、皆で花見をしたり、飲みに行ったりしました。

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改めて感じる、筑波大の良さとは?

皆が同じ地域に住んでいるので、僕が考えた企画に対してひと声かければすぐに20人ぐらい集まる環境は、今やろうと思ってもなかなか難しい。皆、時間は有り余っていて、「何か面白いことがしたい」と思っていた環境に身を置けたことは財産ですね。

では最後に、今後のビジョンを教えて下さい。

まずは「OVER THE WALL」プロジェクトを10年続けて、10か国の壁画を残していくのが大きな目標です。そして、定期的に個展を開いて自分の作品を見てもらう機会を作っていくことも続けていけたらいいですね。

あなたの“つくばウェイ”とは?

筑波大という固い枠組みからはみ出すことの楽しさを感じられた。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

躊躇なく、はみ出せ!

プロフィール
宮崎プロフィール
宮﨑 健介(アーティスト名:ミヤザキケンスケ)
1978年生まれ、佐賀県出身。佐賀県立佐賀北高等学校芸術コースを卒業後、筑波大学芸術専門学群に進学。在学中は様々なイベントに携わるなど、エネルギッシュに幅広く活動。大学院を修了後、ロンドンへ渡りアート制作を開始。Supper Happyをテーマに、見た瞬間に幸せになれる作品制作をしている。2006年から行っているケニア壁画プロジェクトでは100万人が住むといわれるキベラスラムの学校に壁画を描き、 現地の人々と共同で作品制作するスタイルが注目される。現在、世界中で壁画を残す活動「 OVER THE WALL 」を主催し、2016年は東ティモールの国立病院へ壁画を制作。2017年はUNHCR協力のもと、ウクライナのマリウポリ市に国内難民のための壁画を制作する。
基本情報
出生年:1978年
血液型:A型
出身地:佐賀県佐賀市
出身高校:佐賀県立佐賀北高等学校芸術コース
出身大学院:筑波大学大学院
所属団体、肩書き等
  • OVER THE WLL 世界壁画プロジェクト 代表
筑波関連
研究室:洋画専攻
部活動:芸専サッカー部
住んでいた場所:平砂、天久保4丁目、ランプハウス
行きつけのお店:珈琲ぶらいと、くぼや、MUSIC PLANT
プライベート
ニックネーム:ミヤケン
趣味:DIY、野菜づくり
特技:即興ペイント
尊敬する人:篠原有司男
年間読書数:約20冊
心に残った本:アメリカよ!あめりかよ!(落合信彦著)
心に残った映画:マイライフ・アズ・ア・ドッグ
好きなマンガ:おれは直角(小山ゆう著)
好きなスポーツ:サッカー
好きな食べ物:魚、珍味
嫌いな食べ物:おせち料理
訪れた国:20カ国
大切な習慣:新しい方を選ぶ
口癖は?:面白いか面白くないか
座右の銘
  • SUPER HAPPY

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