10年に及ぶ広告代理店勤務を経て、演劇の世界に飛び込んだ異例の経歴の持ち主。大企業での安定と高収入を捨ててまで、その険しい道を歩み始めた背景にはある映画の存在があったという。ニューヨークでの武者修行、そして演劇学校を主宰するきっかけとなった恩師の死……。決して平坦な道ではない人生を歩んできた彼が、演劇を続ける理由とは何だろう。
もう退官しましたが、父が筑波大の自然学類地球科学の教授をやっていた関係で、幼稚園に入る頃からずっと筑波で育ったので自然と筑波大を目指すようになりました。
第三学類社会工学類を選んだのは、センター試験で英語の成績が良かったので傾斜配分が一番良さそうな学部を選んだという(笑)、そんな理由です。
体育会の硬式庭球部に入って、とにかくテニスに没頭していましたね。個人でも団体でもそれほどの成績は残せませんでしたが、仲間たちと山奥で1週間キャンプをした経験など、とても充実した学生生活を送ることができました。
高校時代からモデルの仕事を始めて、大学でも俳優養成所に通っていたほど俳優という職業に興味があったので、卒業の際に「どうしても俳優がやりたい」と親に報告したら猛反対されました。その話を聞きつけた親戚からも代わる代わる「諦めなさい」と毎日電話があったほどです。
その時に思ったのは、確かにずっと親に学費も食費も全部サポートしてもらってきて、いきなり自分のやりたいことだけをやるのは失礼な話だなと。どうしても俳優になりたいなら、自分で責任がとれるようになってからにしようと。そう思い直して就活を始めることにしました。
勝手なイメージとして、マスコミに就職すれば演劇と近い環境に身が置けるのではないかという理由と、広告代理店でのモノづくりを通して、キャッチコピーなど言葉に触れることが後々俳優になった時に役に立つのではないかと思ったからです。
面接ではもちろん俳優志望であることは伏せて、太宰治の『晩年』に書かれている一節、太宰治がお兄さんに「なぜ君はたった一言の真実を伝えるために、そんな無駄な肉付けをするんだ」と言ったエピソードを挙げて、コピーライター志望であることをアピールしました。ところが最終面接で「コピーライターは会社全体の10%に満たない」と言われた瞬間、「じゃあ、営業にします」と答えました(笑)。
はい。会社に入ってコピーライターの適正テストを受けてみたら、結果は散々でした。結局、営業配属になり、初年度から4年間はトヨタさんの担当としてがむしゃらに働きました。
入社3年目に、俳優養成所であるアクターズクリニックを主宰している塩屋俊さんに会いに行って「芝居がやりたい」と話をしたら、「夢を捨てるのは簡単なことだけど、夢をつなぎとめておくことは頑張ればできる」と言われて、会社に内緒でアクターズクリニックに通うことにしました。
仕事との掛け持ちは大変でしたけど、やっぱり演じることは楽しいなと。しかも相乗効果で営業の成績も上がっていくし、良いことばっかりでしたね。
ところが勤続5年が経ち、いよいよ会社を辞めて俳優に専念しようと退職の意思を固めた頃、辞められない事情ができてしまったんです。
そろそろ辞めようと考えていたころ、今から考えると惰性で仕事していたんです。そして、上司である部長に自分の夢を話しながら退職届を出しました。すると部長がものすごく複雑な顔になって、「君がうちのチームに入ってくることになり、すごい戦力が来たと喜んでいたが、仕事に対して何か目に曇りを感じてた」と、言われました。そして、「その原因が分かってよかったよ。堤真一は若手時代にキャベツに塩かけて飢えをしのいでやってきて、いまやっと売れている。そういういう苦労している俳優が大好きだから、お前も頑張って続けてくれ」って言われて、いつか恩返ししますって言って、号泣して別れたんですね。
ところがその部長が、僕が退職を申し出た一週間後に突然亡くなって……。まだ41歳という若さでしたから悔やんでも悔やみきれず、「部長のぶんまで働こう」と心に誓ったんですね。
それから5年、会社に残って必死に働きました。ロッテさんの担当として新発売のクーリッシュというアイスに「飲むアイス」というコピーをつけるなど、頑張れば頑張ったぶんだけ結果がついてきましたし、当時リコール問題を抱えていた三菱自動車さんを復活させるお手伝いにも関わらせて頂くなど、やりがいが感じられる仕事を次から次へと担当しました。
当時32歳で年も年だったので、これから自分の人生を生き直すなら「死に際にやり残したことはないと思えることをやろう」と、ニューヨークに武者修行に行くことを決断しました。まずは学生ビザを取得し、コロンビア大学のアメリカン・ランゲージ・プログラムに2か月通って語学を勉強し、次に演劇学校の門を叩きました。
ところが、現地でとても有名な演劇学校にパンフレットをもらいに行ったら、受付の態度は悪いし、“授業料はアメリカ人以外は3割増し”と書いてあって「その書き方ひどくない?」と思いました(笑)。そんなこともあって、次に、こちらも演劇学校として有名なステラ・アドラースタジオに行きました。
シェイクスピアと現代劇の台詞を覚えて、演技を披露するオーディションに合格しないと学校には入れません。語学学校に通いながら必死に勉強してオーディションに臨みましたが、それでも英語の発音が完璧ではない。
でも、ここで諦めてたまるか!と。人生を一度捨ててきたんだから、残りの人生を全て賭けている……そんな熱い思いを面接官に必死にアピールをしたら、最後に面接官が握手をしてくれて「9月に会おう」と。晴れて合格することができました。あの瞬間は、たまらなく嬉しかったですね。
そのことを実感した瞬間でしたね。もちろん入学した後も、英語の授業についていけず苦労しましたよ。それでも必死に食らいついて頑張っていたら、2年が経つ頃には僕とペアを組んで演技したいと言ってくれる人も増えてきました。
そうして自信が持てるようになると、オリジナルの台本を書いてオフブロードウェイで公演を打ったり、映像作品に出させてもらったり。あと必要なのは永住権、グリーンカードだと思って抽選に応募をしていたら、なんと3回目で当選。「アメリカで頑張りなさい」と言われているような気がして嬉しかったのですが、その頃、ちょうど借金で火の車になっていたこともあり、さらにはヘルニアで動けなくなってしまって。
治療を兼ねて日本に帰国し、その後すぐに結婚をすることになったので日本に拠点を移すことにしました。
会社員時代に通っていたアクターズクリニックの主宰者である塩屋さんが、僕のことを気にかけて下さってお仕事を下さり、それだけでもありがたいことなのに次第に二人三脚、一心同体になって舞台や映像など様々な企画を立ち上げるようになりました。
ようやく生活が安定し始めた頃、2011年の東日本大震災が発生。しばらく創作意欲を失いましたが、被災地の福島県相馬市に足を運んだ経験をもとに脚本を執筆し、鈴木亮平さんを主演に迎えて『HIKOBAE』をニューヨークのアルヴィンエイリーシアター、そして国連で公演する機会を得まして。
それもこれも、NY時代に通っていたステラ・アドラースタジオとの共同プロデュースが実現したからだと思うと、これまでの経験が全て生かされたと感慨深いものがありましたね。
ところが、これからという時に、塩屋さんが急死されて……。アクターズクリニックの存続、そして塩屋さんの遺志を継ぐために、2014年、合同会社ドリームシーズを立ち上げました。
頭から足先までどっぷり演劇に使って生きてきて思うことは、「本当に楽しい」「演劇が好きだ」という純粋な気持ちが源泉になっていると思います。
それと、演劇を始めたきっかけである映画『セント・オブ・ウーマン』の1シーンが、ブレそうになった時も僕を支える軸になっているかもしれません。
主演のアル・パチーノが演じる退役軍人が、学生に向けた演説の中でこう言います。
「私は今まで様々な岐路に直面したが、常に楽な道を選んできたことを悔やんでいる。しかし、ある若い者は今岐路に立たされ、困難な道を選ぼうとしている。それこそが人間の正しい道なのだ」。
そのシーンが衝撃的で、岐路に立った時は困難な道を選ぶことが人生で大切なんだと教えられました。僕が広告代理店を辞めて俳優になったこともそうですが、何かを大事なことを選択しなければいけない時の指針になっているのは、確実にあの映画の存在ですね。
私が学んできたことを社会に還元したいとの思いで、5年前からファッションビル・渋谷109さんの新人販売員600人近くを集めて演技レッスンのメソッドを取り入れた社員研修をしています。
具体的に何をやるかというと、人の目を見て喋ることが苦手だったり、対人で緊張してしまってまともに喋れない販売員も少なくないので、彼らに“シアターゲーム”というものをやってもらい、他人に対する精神的な壁を取っ払う。これは演技のための考えられたゲームですが、僕自身が社会人として働きながらアクターズクリニックに通っていた時、相乗効果で営業の成績が伸びていっていたように一般の仕事にも効果があるものです。
基本的に、研修というと面倒くさいものだと思っていらっしゃる社員さんが多く、最初はだるそうな感じで来られる人もいるのですが(笑)、研修を終えた後は皆さん、嬉々とした表情で帰っていきます。ふさぎがちな彼らの心に優しくタッチしてあげると、「そんな笑顔を持っていたの!?」と私自身も驚くほど表情が変化しますし、なかには「いつか舞台に立ってみたい」と言い出す人もいるんですよ。
どんな環境においても得意先や上司、部下、同僚など人と関わることは必須ですから、最近では市町村役場の職員の方や公立中学校の子供たちなど、色んな場所で研修を実施しています。
昨年、グループシアターという劇団を立ち上げたので、演出家としての実力を試したい、クリエイターとしていけるところまでいきたい。そしてもう一度、海外にカウンターパンチを打ちにいく、それが当面の目標ですね。
あの筑波の広い空が今の僕に与えてくれたものは大きいですね。あの空のおかげで感性が磨けたのだと思いますし、あの空に包まれて、なぜか泣きながら将来のことを考えていたことを今でも覚えています。そんな環境での人とのつながりは、都会の大学では得られなかったんじゃないかな。
人間というものはビジネスマンでもクリエイターでもどんな職業でも、絶対に自然に触れていないと何かがズレていくと思うので、在校生にはすぐに自然に触れ合える環境と空の広さを感じてもらって、筑波での生活を楽しんで欲しいです。
あの“田舎っぽさ”が絶妙な人間形成をサポートしてくれたような気がします。
人間が健全であり続けるための条件がすべて備わっているのが筑波大です。うつむいていないで、空を見上げて下さい!
所属: | 合同会社ドリームシーズ |
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役職: | 代表 |
血液型: | A型 |
出身地: | 東京都 |
出身高校: | 茨城県立土浦第一高等学校 |
学部: | 第三学群社会工学類 都市計画専攻 |
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研究室: | 藤川ゼミ |
部活動: | 体育会テニス部 |
住んでいた場所: | 春日4丁目 |
行きつけのお店: | たけし、つけ麺丸長 |
ニックネーム: | かじ |
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趣味: | キャンプ |
尊敬する人: | アル・パチーノ |
年間読書数: | 10冊程度 |
心に残った本: | 「ダニーと紺碧の海」ジョン・パトリック・シャンリー |
心に残った映画: | 「セント・オブ・ウーマン」 |
好きなスポーツ: | テニス |
好きな食べ物: | 寿司 |
嫌いな食べ物: | ほや貝 |
訪れた国: | 米国、中国、タイ、マレーシア、インドネシア、フィンランド、メキシコ |
大切な習慣: | ストレスは溜めない |
口癖は?: | お前さー。 |
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