周囲の理解、恵まれた環境のもと、全盲ということに偏見を持たれることなく普通学校に学んだ。積極的に外に連れ出して色んな経験をさせてくれた家族の影響もあり、興味のある分野を学ぶ、そして楽しむことを諦めることなく筑波大に進学。「やってみたい」という欲求に正直な彼の歩み、そして今後について話を聞いた。
2歳の時、小児がんで目が見えなくなりましたが、親は近所の子たちと一緒に育って欲しいとの思いを持っていたので、大阪・高槻市にある近所の普通の保育園に通いました。
その後、父の仕事の都合で鹿児島に引っ越しましたが、普通の幼稚園に通っていました。当時、視覚障害児は盲学校と法的に決まっていたので普通の学校には行けず。「それまでの保育園や幼稚園では友達とプロレスごっこをやったり、探検ごっこやったりして楽しかった」という記憶が強かったので、小学1年の途中から母親の実家がある枚方市に戻り、普通の小学校に受け入れてもらいました。
大阪では当時から、普通学校が全盲の生徒を受け入れるのが進んでいたみたいです。
先生たちがとても熱心で、点字を覚えてくれたり、ボランティアの方が教科書を点訳してくれたり、必要な授業には追加で先生がついてくれたりもしました。中学校も同様で、ブラスバンド部でトランペットをやっていたんですけど、僕のために点字の楽譜をコンピューターで作ってくれたんですよ。
体育はネックになりがちですが、中学の先生は自力で走ることを促してくれて、声で誘導しながら50メートル走が走れるよう工夫してくれたり、バスケのゴール上から先生が声をかけて誘導してくれたり。皆と一緒に楽しめるようにしてくれました。
“国際協力”と“教育”、“障害”をついて学びたいと、高校の先生に相談したら「筑波大なら色々学べるよ」とアドバイスして下さって。自己推薦で人間学類に入りました。
筑波大は、この学部はこの授業だけとビシッと区切らず、学生の興味関心で授業を取れる環境で、しかも聴講じゃなく単位として取れるというのが魅力でした。
高校2年の時に国際協力中学生・高校生エッセイコンテストに参加することになり、どんなことを書こうかと考えていたのですが、修学旅行でタイに行くことが決まっていてタイに関心があったので、母親が、ある国際ボランティア団体の報告会に連れて行ってくれたんです。ちょうど、そのNGOの支援を受けた方が、講演に来るということで。
その方はタイのスラムに生まれ、お母さんがやっているお店を手伝いながら勉強して外交官を目指していました。それを聞いて、教育を受ければ人生が変わることに驚き、教育という分野に興味を持つようになりました。
本の朗読が録音されている視覚障害者用のカセットで、世界の昔話を聞くのが好きでした。いつか海外に関係する仕事に就きたいと思うようになり、小学の時に視覚障害を持つアメリカの外交官の方にお会いする機会もあって、国際協力に関心を持つようになりました。
障害に関してもっと知識を深めたいと思ったのは、高校の先生に勧められて行った、スウェーデンで障害のある方の家にホームステイするプログラムがきっかけです。
高校時代、勉強を手伝ってくれた学外の先輩に自分の関心があることを話したら、「学生時代は自分の世界を広げたほうがいい。今考えていることだけをやると視野が狭まるから、とにかくやりたいことは思いきりなんでもやりなさい」と言われたことが心に響いて。
最初の2年間は英語のサークル、留学生と交流できる場所、ブラインドサッカーなど色んなことに挑戦しました。
同級生の永田真一くん(つくばウェイvol.126で紹介)が障害者スポーツをサポートする団体を立ち上げた時も参加しましたし、学外では、パレスチナとイスラエル、イラクとアメリカといった紛争地域の若者同士をを日本に招いて1週間ぐらい合宿しながら、若者同士として何ができるかディスカッションする活動に参加しました。
人間学類だけではなくて、国際の人たちとも仲が良かったですし、サークルを通じて他の学部の人とも交流がありましたよ。あまり学部のことを気にせず付き合って、色んな話を聞けることが楽しかったですね。
もっと国際協力の分野にフォーカスしようと3年次に休学し、アメリカのジョージタウン大学に留学しました。その後、アメリカの障害者自立生活センターで3ヵ月インターンした後に、タイの障害者団体で4カ月ほどインターン。
最後は障害者の権利条約を作る国連の委員会に、日本のNGOの傍聴団の一員として参加するなど、貴重な経験を積んで日本に帰ってきました。
世界が広がったことです。色んなことに関心のある人たちと分野を問わずに話し合えたり活動したりできたことが、今の基礎になっています。
例えば、JICAの仕事はNGOや国連機関等多様な関係者と連携することで可能になります。
筑波大で色んな人と接したこと、そして色んな分野に関心を持てたことが、多様な分野や仕事を共にする関係者への関心の基礎となり、今に活きています。
教育と国際協力を、しっかり学びたいと思ったのがきっかけです。大学時代、ブラインドサッカーを通じて、東京外大にいた視覚障害を持つスーダン人の友達と知り合ったことが縁で、スーダンの視覚障害者の教育支援を始めました。最初は文化祭に出店した売り上げでスーダンにサッカーボールを送っていたのですが、その延長で、アメリカ留学から帰国後、NGO団体を立ち上げて活動を続けました。
卒業後は赤十字に勤めながら、助成金を集めてスーダンでプロジェクトをやったりしていたんですけど、「もっと教育と国際協力を学びたい」という気持ちが高まって。その分野では有名なサセックス大学大学院に進むことにして、でもその前にスーダンで生活をしてみようと1年入学を延期して、スーダンに8ヵ月暮らしました。
スーダンの障害者、または障害がない人も教育やスポーツ、仕事において他の人たちと同様のチャンスが得られるよう、スーダン人が中心となって進めていこうというものでした。
そのために僕たちは点字の教科書を作ってトレーニングを実施したり、実際、大学に入ってから困らないようにと、音声のパソコンルームを作るなどしていました。
アメリカ留学の経験があったので英語への苦手意識はありませんでしたし、勉強については筑波大で学んだ下地があったのでゼロからではありませんでしたが、やはり、それまでの人生で一番勉強したと断言できると思います。
事前に先生に講義のスライドをもらって、電子データをパソコンで読み込み、音声で読ませたり、図書館で資料を集めたい場合は、チューターと一緒に行ってデータをスキャンしてもらい、OCRソフトでテキストに変えれば音声が読んでくれるといった勉強法があるんです。筑波大でも、その方法で勉強していました。
世界中の友達ができたことです。先進国、途上国関係なく、対等のクラスメートとして議論できたことは良かったですし、あとはロバート・チェンバースという有名な先生がおっしゃった「誰の声を聞いていて、誰の声を聞けていないのかのかを追求する」ことはサセックス大学の先生方が繰り返し強調していたことでもあり、今、仕事においてもブレずに念頭に置きたいと意識しています。
JICA北海道に採用され、研修業務課で様々な分野の研修員、留学生の受け入れを担当しました。
例えば、北海道の当別町では、地域の困りごとを組み合わせることによって、障害者、高齢者、子ども、親が地域で生活する仕組みを作っていて、それをタイの若手行政官に紹介する研修を実施しました。ちょうど当別町はタイからの観光客を受け入れたいという意向もあったのですが、タイの研修員が帰国後報告したことやタイのメディアにも取り上げられたことで、研修の後独自にタイから視察が訪れるようになったという話を聞きました。また、ASEANの工学系の大学のネットワークで受け入れる留学生のサポートも担当していたのですが、担当した学生が女性初のラオス国立大学の教員になったとの連絡をくれたりしました。
人間開発部社会保障チームの一員として、大きく分けて3つの事業を進めています。まずは海外でのプロジェクト。たとえば南アフリカやヨルダンに専門家を派遣し、現地の労働省や社会開発省と協力してプロジェクトを実施すること。ヨルダンでは、知的障害、発達障害のある人が仕事に就けるよう、職場で彼らをサポートできるジョブコーチを育成しています。
今度始まる新しい事業は、パレスチナのガザ地区という壁で囲まれた場所で、デモに参加して狙撃されケガを負った人たちのケアをする、理学療法士の育成です。
もう1つは、知識共想事業ということで、海外の行政官や障害者のリーダーを日本に招待して、互いの知見を学び合い、かつ日本を知っていただく事業です。全国にあるJICAの国内拠点で、各地の協力団体と連携して実施されます。“障害とスポーツ”“知的障害の地域生活”、“障害者リーダーの育成”などのコースを社会保障チームからサポートしています。
“障害の主流化”といって、教育や保健、平和構築、インフラ等全ての事業に障害の視点を入れることです。例えば、途上国に日本のお金を貸し付けて、地下鉄や橋を作る際、バリアフリーに配慮してもらうなど障害者の意見を設計段階から入れてもらえるようコメントしたり、障害の視点を事業に組み込んでもらうための研修を実施するのがチームの仕事です。実際に、インドやスリランカでそういったアクセシブルな交通機関ができたり、計画されているんですよ。
途上国にも日本にも貢献できる可能性があるので、やりがいを感じますね。
北海道での仕事と出会いを通して、地域創生に貢献したいという気持ちが芽生えましたし、南アフリカでは社会開発省の高官や管理職の中に障害を持っている人がいて。そういった点では日本よりも進んでいるなと、自分自身の学びになることもたくさんあります。
日本のためだけでもなく、途上国のためだけでもない、色んな人の期待に応えることが大事だと考えています。そのためには、色んな人の意見を聞くこと。サセックス大学の先生に教えて頂いた「誰の声を聞いていて、誰の声を聞けていないのか」は常に意識していることです。特に自分の関わる事業のカウンターパートや途上国の方々、声を聞いてもらいにくい人たちの声はしっかり聞かないといけないと感じています。
長期で言うと自分自身、普通の学校や社会で生活をしてきたので、皆が同じように働いて楽しむ、そんな社会を日本、海外どちらでも多様な人々と連携して広げることに貢献出来たらと思っています。
短期、中期で考えると障害だけではなく教育や保健などの分野、大学との連携、民間企業との連携やインフラなど多様な事業の理解を広げつつ、貢献できる幅と深さを広げていきたいです。
ガンガンやろうとは思っていなくて、むしろ面倒くさいことはやらないと思っているタイプなんですけどね(笑)。ただ、幼少時代を振り返ると、やはり、やりたいと思ったことはやっていたかもしれません。
それも家族のサポートあってこそだと思います。先ほどお話した、母がタイの方の講演に連れて行ってくれたこともそうですし、「ここでアフリカの太鼓が叩けるから行こう!」「北九州の動物園にカンガルーを触りに行こう!」といった具合に、面白そうなことは何でもやろうといった家族でしたから。それが僕の性格にも影響しているかもしれません。
幅の広さと、柔軟さで自分を広げていくこと。周囲の友達を見ても、ストレートに生きてきた人よりも、迷いつつ、あっちに行ったりこっちに行ったり、ジグザグに進みながら世界を広げて、今にたどり着いている人が多い気がします。
思いきり好きなこと、興味のあることを迷わずやりましょう! 将来の夢とかそういう大きなことよりも、その時の自分の“やりたい”とか“ちょっと興味がある”という気持ちを大切にして欲しいです。自分で選んだことなら、後悔はないと思うので。
所属: | 独立行政法人国際協力機構 人間開発部 高等教育・社会保障グループ |
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出生年: | 1984年 |
血液型: | A型 |
出身地: | 大阪府枚方市 |
出身高校: | 大阪府立長尾高等学校 |
出身大学: | 筑波大学 人間学類 |
出身大学院: | サセックス大学 MA in International Education and Development |
学部: | 第2学群人間学類 |
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研究室: | 窪田研究室 |
部活動: | Supporters for Adapted Sports (SAS) |
住んでいた場所: | 春日4丁目 |
行きつけのお店: | 百香亭 |
ニックネーム: | ふくちゃん |
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趣味: | ブラインドサッカー |
特技: | 語学? |
尊敬する人: | ネルソン・マンデラ |
年間読書数: | 30冊くらい |
心に残った本: | アルケミスト(パウロ・コエーリョ著) |
心に残った映画: | おじいさんと草原の小学校 |
好きなマンガ: | 幽遊白書 |
好きなスポーツ: | サーフィン |
好きな食べ物: | 中華料理 |
訪れた国: | 26か国 |
大切な習慣: | 笑うこと |
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