バドミントン男子ダブルスで北京五輪に出場し、4年後のロンドン五輪では混同ダブルスで潮田玲子さんとペアを組み“イケシオ”と親しまれた。日本人初の世界選手権メダリストとして、日本バドミントン界初のプロ選手になるなど新しい道を切り開いた功績も大きい。ところが筑波大に入学した当初は負け続きで、これといった成績を残すことができなかったという。一体、何が彼を強くさせたのか?大学まで人並みだった選手がオリンピックに出るまでのサクセスストーリーを追う。
父が地元のジュニアクラブのコーチをしていた関係で、小学校2年生の時にバドミントンを始めました。というと英才教育を受けたと思われるかもしれませんが、父は全国大会に行った選手ではないですし、僕はクラブの中にいる子供のひとりといった感じで、当時は楽しみながらバドミントンをプレーしていました。
1学年に推薦で入れるのは基本2名、全国大会の実績がベスト8以上という条件がありましたが、僕は高校時代にインターハイ3位という成績を収めていて推薦を取れるチャンスがあったので、必死に面接と小論文の勉強をしました。毎朝7時に起きて、午前中に小論文を2本、午後に3本書いて、夜にもう2本。どうしても筑波大に入りたい一心でしたね。
地元の小さなバドミントンチームに所属していた5歳上の先輩が、筑波大に進学後、インカレで優勝した記事を父に見せられたことがきっかけです。地元にいた頃はそれほど強い選手という印象ではなかったのに、筑波大に行って力をつけて結果を残したニュースを耳にして、「僕も筑波大に行きたい」という気持ちが芽生えました。
いえ、レベルがめっちゃ高くて驚きました。高校時代、大学生の試合を見ながら「パワーでは負けているけど、技術やゲームの組み立てでは劣っていないだろう」と自己分析していましたが、いざ大学でプレーしてみると、大学ではスピードパワーが技術を上回るという現実を目の当りにして。それほど筋力のなかった僕は試合で勝つことができず、なんと12連敗したんですよ。
大学1年生で出場したシングルスで、春リーグ、秋リーグ共に1勝もできず12連敗。2年生になって同じく12連敗している選手と対戦した時に、ようやく勝つことができたというぐらい、とにかく試合に出れば負けていました。負けている間もずっと筋力をつけようとウエイトに力を入れていましたが、やり過ぎて怪我をしてしまって1、2年はなかなか強くなることができませんでしたね。
ダブルスもやっていましたが、本来、推薦生は推薦生同士で組むところを僕は一般生とパートナーを組むことになったので、試合に出るとどうしても一般生が狙われるわけですよ。だから、ダブルスでも負けてばっかり。地元の先輩の華々しい活躍に憧れて筑波大に入ったのに、18歳、19歳で挫折を味わった僕は「どうしたら強くなれるんだろう?」と答えが出せない中で、ただひたすら練習しながら「とりあえず教員免許は取っておこう」と保険をかけていました。
だから当時の僕を知ってる人は、みんな言いますよ。「お前、よく強くなったね」って。過去のオリンピック選手で、こんなに下から這い上がってきた選手はいないんじゃないかな。だって日本中に僕を倒した選手が一杯いるんですから(笑)
大学3年生で僕がキャプテンだった時、12年ぶりに団体戦優勝ができたことです。団体戦はシングルス3試合、ダブル2試合の総合得点で勝敗が決まるんですが、日本代表に選ばれていた1学年上の先輩に引き上げられて、みんなが一致団結できたことが勝因でした。この頃から見える景色が変わってきたというか、「学生のうちに日本代表として活躍したい」と具体的な目標を持つようになりました。
ラケット・バットの研究をされていた阿部一佳先生がバドミントン部の監督だったので、バドミントンの打ち方や動きを理論的に教えていただく機会を得ました、体の動きのメガニズムを頭に入れてプレーするという、スポーツ科学的な目線で学べたことは今にも活きています。
先生は体育会系というより哲学者といった感じで、「君たちの練習は理解ができない。どうしてそういう練習をしているのか説明をしなさい」とおっしゃるので、しっかりと理論を持って練習メニューを考えるようになりましたし、とにかく独特の雰囲気の監督だったんですよ(笑)。
そうですね。よく注意されたのは、身なりについてです。「バドミントンは紳士のスポーツだから、シャツをズボンの中に入れなさい」「髪の毛を染めてはいけない」「パーマかけてはいけない」。でも僕はどうにかしてシャツが出せる方法はないものかと、シャツの左だけズボンの中に入れて、右は出してみたり(笑)。一度アフロみたいなパーマをかけた時は、国際大会の会場で先生に呼び出されて「ここには世界のトップレベルの選手がいる。お前みたいな頭のやつがいるか!?」と叱られて、すぐに元どおりに直しました。(笑)
たしかに、筑波大で身についた“学ぶ姿勢”のおかげで強くなることができたと思います。入学当初からずっと負け続けて「どうすれば強くなれるんだろう」と悩み抜いた時に、とにかく「色んな人から色んなことを吸収しよう」と考えて、先生の意見はもちろん、バドミントンが強くない人からのアドバイスも積極的に取り入れました。
時にはライバル選手のところに行って「こういうタイプと試合をする時ってどうしてますか」とアドバイスを聞くフリして、そのライバル選手の情報を収集したり。それをもとに対戦したりして、うまくいったこともあります。最終的には大学4年のインカレで2位という成績を収めることができました。
僕より技術の高い選手はいくらでもいたと思いますが、とにかく勝つためには変なプライドを捨てて、人の意見に耳を傾けること。つまり“学ぶ”ことに関して突き抜けることができたから、アマチュアで終わることなく、次のステップに進めたのかもしれません、大学時代に日本代表になるという目標こそ叶いませんでしたが、筑波で培った経験が社会人になって花開いたことで、代表への道が開けたのではないかと思います。
大学4年のインカレ前までは教員として母校に帰ることになっていたのですが、インカレで結果を残せたことで日本ユニシスに「育成選手」として拾われた形で採用していただきました。このチャンスを無駄にしないように頑張ろうと思いながらも、内心「やれても3年ぐらいかなぁ」と自分の実力に自信が持てていなかったように思います。
ところが学生時代と違って、社会人になると100%自分の時間がバドミントンに費やせる環境であることと、うまくコーチとマッチしたことで飛躍的に成長することができました。
シングルス、ダブルスのどちらもプレーしていた僕に、インドネシア人のコーチが「君はダブルスでいったほうがいい。他の選手より技術があるから」と背中を押してくれて。社会人1年目にダブルスに専念することになったことが大きなターニングポイントでした。ダブルスはシングルスより技術が求められるのと、ペアを組む選手との相性によって1足す1は2じゃなくで、3や4になることもあるので、パートナーの実力を引き出すことが得意な僕にはダブルスのほうが向いていたようです。
ダブルスに絞ったこともそうですし、その後に就任した中国人コーチに言われたことも僕を奮い立たせました。「あと2年で強くならなかったら、君は終わりだ」と断言されたんです。大学時代も当時も頑張っていましたけど“あと2年”と考えると、「今までの練習では足りない。誰が見ても『池田は頑張ってる』と思われるぐらいやろう」と。気持ちとしては“最後の2年”という覚悟で練習に臨みました。
その時、ペアを組んだのは筑波大の一個上の先輩で同じく日本ユニシスに所属していた坂本修一さん(現・日本ユニシス男子チーム監督)。退社を考えていた坂本さんを引き止めてペアを組み、これで上を目指す準備が整ったと感じました。
大会前にラケットが手に当たって腫れてしまい、大事な時期に1週間練習ができずに迎えた大会で、開催国のマレーシアの強豪選手(当時世界ランク2位)と準々決勝で対戦。完全アウェーの中で勝利して、銅メダルを獲ることができました。
しっかり練習をしないと良い結果が出ないのは当然のことですが、勝負の世界は、ちょっとしたミスがきっかけでずるずると失点が続くなどメンタル面も大きく影響します。この時の世界選手権では、ケガのせいで練習できない期間があったことで「負けたら負けたでしょうがない」と開き直れたことがプラスに働いたのかもしれません。
あっという間に27分ぐらいで負けてしまいました。北京はトーナメント制でしたので、その1試合で敗退です。敗因は、ここに打てば必ず決まると思っていたところを全部相手に取られてしまい、前半から点数を離されて焦ってしまったことですね。プレーをしながら「これだけ練習したのに」「日本の応援団が北京まで来てくれてるのに」と思えば思うほど緊張して、いつも通りのプレーができなかった悔しさが残っています。
北京に負けて、次のロンドンが目指せるかどうか、なかなか気持ちが固まらなかった時に、潮田(玲子)から「ペアを組んで欲しい」と話があって。混合ダブルスは初めてでしたが、新しいことに挑戦することでモチベーションを保つことができると感じ、そのタイミングでプロ契約をしていただけるよう会社にお願いしました。ロンドンまでの4年間、さらに競技に集中することが必要だったからです。
僕、見た目はチャラチャラしているかもしれませんが、競技に対しては本気で臨んでいたので男女関係のことで変な記事を書かれるのがすごく嫌でしたね。そんなことが逆に背中を押す形となって、ペアを組んだ1ヵ月後に今の奥さんと結婚をしたんです。これなら余計な詮索をされることはないだろうと。
北京の時と同じ過ちを繰り返さないために、試合にどう勝つかを冷静に考える余裕もありましたし、結果ではなく、自分自身が満足して終わりたいという気持ちで臨みました。ただ、内容的にはベストなパフォーマンスができず予選敗退で終わってしまったので、満足というわけにはいきませんでしたが。
そうですね。いやー、ほんと緊張しますよ(笑)。いくら落ち着こうとしても緊張してしまうのがオリンピックです。周囲からの期待や自分自身のプレッシャーに打ち勝って、いつも通りのプレーができる人が結果を残せるのだと思います。
ロンドンが終わってからも「次、行くぞ」という気持ちでしたし、その“次”が必ずしもオリンピックでなくとも、海外の第一線で活躍ができて、何か結果が残せる限りは戦いたいという信念を持っていました。そして、その延長線上にリオがあればと。
ただ、海外の選手を含めても年齢がトップ3ぐらいになる年になって、まぁ年齢は引退の理由ではないんですけど、僕は「海外を舞台に、第一戦で戦う」ことがベースにあったので、だんだんと1回戦負けや予選敗退をするようになってきたことで引退を決断しました。
育児教室もそうですし、今年の夏から秋にかけてキッズのバドミントン教室をスタートさせる予定です。バドミントン教室ではスポーツと教育をうまくミックスしながら、国際的に活躍できるための語学を身につけたり、スポーツ教育では机の上で学べないコミュニケーション能力を幼少期から作れたりする環境を提供したいと思っています。
なによりも、子供たちに直接バドミントンを教える場が持てるのが嬉しいですね。可能な限り僕が指導を行うことで、筑波大で培われた“学ぶ姿勢”を次の世代に伝えていけたらと思っています。
スポーツを論理的に学ぶことができたし、構内には多種多様なスポーツやカルチャーが混在していて、学ぶにはもってこいの環境だったと思います。
筑波大は東京の大学と比べて出遅れる感があるけど、今はスマホやTXもあることだし、色んな情報を取り入れて筑波独特の感性を育てながら、どんな社会人になりたいかというビジョンを持って過ごすといいかもしれません。
所属: | 株式会社エボラブルアジア |
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役職: | アドバイザー |
出生年: | 1980年 |
血液型: | A型 |
出身地: | 福岡県 |
出身高校: | 九州国際大学付属高校 |
出身大学: | 筑波大学 |
学部: | 体育専門学群 |
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研究室: | 栄養学 |
部活動: | バドミントン |
住んでいた場所: | 春日4丁目 |
行きつけのお店: | ドルフ |
ニックネーム: | なし |
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趣味: | スノーボード |
特技: | なし |
年間読書数: | 10冊 |
心に残った本: | 自分を磨く方法 アレクサンダーロックハート |
心に残った映画: | タイタニック、シックスセンス |
好きなマンガ: | スラムダンク |
好きなスポーツ: | なんでも |
好きな食べ物: | 美味しいものであればなんでも |
嫌いな食べ物: | なし |
訪れた国: | 30カ国 |
大切な習慣: | SNSの更新 |
口癖は?: | で、何が言いたいの。 |
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