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吉田スライダー

教員職とトレーナー。継続することが強みに繋がる

Sportsperson
2017/04/03
インタビュー
  • 76
帝京平成大学 准教授
吉田 成仁
(体育専門学群 1996年入学/大学院 2007年入学)

「プロサッカー選手になりたい」と筑波大蹴球部の門を叩き、ブラジルにサッカー留学。そう聞くと挫折知らずのトッププレイヤーとの印象を持つが、むしろトップレベルの環境に身を置いたからこそ“挫折”の二文字に悩まされたという。それから紆余曲折がありながら、現在は大学教員として教育研究に携わる傍ら、トレーナーとして現場での活動を続ける。回り道をしながら見つけた自らの“強み”とは一体何だったのだろう?

ブラジル留学後の挫折が転機に

筑波大を目指したきっかけを教えて下さい。

父の影響で幼い頃からサッカーをやっていて、ずっと「サッカーでプロ選手になりたい」と思っていました。高校時代に進路を考えるようになると、ちょうどJリーグが開幕して盛り上がっていた時期でもあったのでサッカー熱がさらに高まり、「大学でもサッカーがしたい」という視点で大学選びを。

その頃の筑波大はタレント揃いで、藤田俊哉さん(Jリーグで活躍)が在籍していたり、もっと上には中山ゴン(雅史)さんがいらっしゃって。そういったところでプレーしたかったのが1つと、もう1つは、「サッカーを学びにブラジルに行きたい」という思いを持っていたので、「私学ではなく国立に行けば、差額をブラジルでの滞在費に充てられる」という親の勧めもあって、筑波大を目指しました。

入学後、蹴球部に入部。

フレッシュマンコースで朝練をひたすらやる中で、なんとか関門を超えて入部することができました。先輩たちは卒業後にJリーグにいくような人たちばかりだったので、「すごいところに来てしまった」という印象でしたね。

1年の途中から休学して、ブラジルへ。

今だとサッカー留学といえばスペインが有名ですが、当時はヨーロッパという選択肢がなく、(三浦)カズさんがブラジルに行っていたこともあってブラジルで受け入れてくれるチームを探しました。

僕が在籍していたのはジュニオールという18歳から20歳までのカテゴリーで、ブラジル人たちの場合は20歳になる年までにプロに昇格しなければ、契約が切れて自分の地方に返されるという厳しい状況の中で、死ぬ物狂いでプレーしていました。その中に混ざって、シビアな世界を経験できたことは大きかったです。

そんな環境で感じたこととは?

ブラジル人に驚かされたのは、運動能力ですね。短距離を走らせても長距離を走らせても速く、それなのにボールが飛んできたら体のどこでもコントロールできるといった細かい技も巧みで圧倒されたことを覚えています。

約1年後にブラジルから帰国し、再び蹴球部に参加。

ブラジルは個人技で1人1人がボールをどう扱い、どう抜くかに焦点が当たっているトレーニングでしたが、筑波大はコーチングの専攻があるぐらいですから、戦術や指導方法のスペシャリストたちから学べる環境があって。僕がいなかった1年の間にコーチングを受けた同級生たちが、頭を使いながら賢いサッカーをしていたことに驚きました。

自分の考えが甘かったんですけど、ブラジルから帰ってきたらもう少し日本で通用するんじゃないかと思っていたら、それは大きな間違いでしたね。ブラジル、そして筑波大のトップレベルの選手を目の当たりにして自分の実力を思い知り、「プロになることは無理だ」と諦めるきっかけにもなりました。

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幼い頃からの夢が、そこでついえてしまった。

自分の実力に気付いてしまった時の、心の葛藤は大きかったですね。それまでずっとサッカーが上手なことだけが自分の強みだと思っていたのに、広い世界を見てみると全く強みではなかった。それに気付いて「今後、何を心の支えに生きていけばいいのだろう」と、悩んでいた思い出があります。

その状況をどう乗り越えたのでしょう?

その頃、スポーツ医学専攻の宮本俊和先生に鍼治療を受ける機会があり、鍼灸に興味を持つようになって少しずつ新しい道が拓けてきて。3年でコンディショニング系の研究室に入り、河野一郎先生に相談に乗って頂きながら「鍼灸の道を究めよう」と、卒論では鍼を使ったサッカーのシュートパフォーマンスの研究をしました。

具体的に、どんな研究内容だったのですか?

45分間、サッカーと同じ負荷のかかる運動、例えばボール蹴ったりドリブルしたりジャンプした後に、15分間のハーフタイムで鍼をやった場合、ストレッチをやった場合、何もしない場合で乳酸値を測って、その前後にPKのシュートを計10本蹴ってもらうという研究だったのですが、この研究を通してハーフタイムで何もしなかった場合は、疲労によってシュート速度が下がるのではないかを検証しました。

4年次には国際鍼灸専門学校に入学されています。

ブラジル帰国後にプレイヤーとして挫折した時、ものすごい実力揃いの同級生の中で“自分”というものが確立できたら世の中に出てもやっていける気がして、蹴球部の同期40人の中で「自分の強みは何だろう」と考えました。そうすると“ケガの多さ”しか見つからなかったんですが(笑)。逆に、ケガの痛みが分かる仕事でなら、このメンバーに勝てると思ったんですね。それが、鍼治療ができるトレーナーを目指し始めたきっかけです。

鍼灸マッサージの国家試験を取得した後、教員資格を取っていますね。

大学時代、サッカーを教えたり家庭教師のアルバイトをしていた時に、教授することが自分に合っていると感じていたので、全国の盲学校で鍼灸を教えるための教員資格を取ることにしました。その資格が取れるのが全国で唯一筑波大しかなかったので、筑波大学理療科教員養成施設に入学。

学校に通いながら、フットサルクラブFIRE FOXにトレーナーとして参加したり、蹴球部の後輩たちに治療をするなど実務経験を積みました。

鍼灸に続き、アスレティックトレーナーの資格も取得

その後、28歳で国際鍼灸専門学校に入職した2年後、筑波大学大学院体育研究科に進学。

専門学校で教えるうちに、自分が教えていることを科学的に検証したい気持ちが湧いてきて、研究をすることに併せて、アスレティックトレーナーの資格を取るためにも大学院に進むことにしました。今でこそ筑波大はアスレティックトレーナーの認定校ですが、僕の入学年は認定校ではなかった。それでも大学時代に基礎科目は全て取っていたので、大学院で受験資格を得ようと、そんな気持ちでした。

そして今度はハンドボール部のアスレティックトレーナーを任されることになり、それは今も継続しています。

修士を修了後、博士在学中の2010年から現在も所属している帝京平成大学の職員として勤務されています。仕事内容について教えて下さい。

ヒューマンケア学部鍼灸学科で主に鍼灸を教えながら、アスレティックトレーナー関係の授業も受け持っています。アスレティックトレーナー研究部という部活の顧問として、アスレティックトレーナーになりたい学生のサポートもしています。

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昨今、スポーツに関わりたい学生は多いですか?

多いですね。約90名の学生が毎年入学してきますが、そのうちの約4割は、入学当初はスポーツに関連する仕事に就きたいと思っている学生です。ただ鍼灸の分野は広いので、授業や実習を通して美容に興味を持つ人もいますし、介護に興味を持つ人、開業して地域に貢献したい人など色んな方向に興味が向いていき、最終的には1~2割の間になるでしょうか。

吉田さんは鍼灸とアスレティックトレーナーの資格取得に時間を要しましたが、今は大学で2つの資格を同時に取ることができますね。

僕は大学を卒業した後に専門学校に3年いって、そのあと修士で2年、博士で3年と時間はかかりましたけど、今の若者たちにはそういう道が最初から用意されているので、回り道しなくていいという良い一面はありますね。そのぶん、一度にやらなければいけないことが多いので負荷は大きいかもしれないですが。

2012年からは日本ブラインドサッカー協会医事部に所属されています。これはどのような経緯で?

大学院時代、指導をして頂いた宮川俊平先生のもとで同じく学ばれた、筑波技術大学の木下裕光先生が当時から日本ブラインドサッカー協会医事部部長をされており、トレーナーとして誘って頂いたのが始まりです。

さらに2014年からはフットサル日本代表のアスレティックトレーナーに就任。お仕事での苦労とは?

前田弘トレーナーや後関慎司トレーナーといった第一線で活躍している方々から頂いた貴重な機会に対して、自分が「期待にこたえられるクオリティを発揮しているか」を意識しています。苦労ではないですが、身近で高い目標を感じられる分、さらに質を上げる努力をしなければと常に感じながら活動しています。

先輩方にご相談をさせていただいたり、場合によっては難しいことについても、多くのフォローして頂けて……。とてもありがたいことですが、それに甘んじないように、もっと向上していかなければと思います。

 

教員職とトレーナー、上手くバランスをとってご活躍されていますね。

職場である帝京平成大学の先生方を含め、周りの方々のサポートがあるからこそ今の活動ができていると思います。感謝しかありません。学生時代は「どの道に進もうか」と、さんざん悩みましたが、紆余曲折しながらもひたすら歩いてきたからこそ、今があると思います。研究・教育・トレーナー活動のバランスをとり、継続していることが、結果的に僕にある唯一の“強み”になっていると感じます。

今後のビジョンを教えて下さい。

まず教員としては1人でも多く「トレーナ-になりたい」という学生の夢が叶えられるようサポートを継続していくこと。そして自分が海外遠征に行った時に、現地で活躍する卒業生に再会できたら教員冥利に尽きるだろうと思います。今は国内ではそういった再会がよくあるので、それがワールドワイドになったら嬉しいですね。

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トレーナーとしてはいかがでしょう?

2020年に日本が招致しているフットサルW杯が開催され、そこで日本代表が良い結果を残せるよう、僕ができる準備をしていきたいと思っています。

もう1つサポートしているハンドボールに関しても、ハンドボール日本代表には筑波大出身の選手が多いので、僕ができることとしては筑波大学の選手をサポートして、日本代表になる選手の育成に少しでも役立ちたいと思います。

フットサルもハンドボールも、サッカーに負けないぐらい楽しいスポーツなので、皆さんから注目してもらえるよう日本代表の活躍に少しでも寄与したいと思っています。
ケガの予防やパフォーマンスの向上といった部分で役立つことが、選手のサポートとして、日本代表の強化としても、スポーツを盛り上げる1つのピースとしても重要なことだと思っていますし、自分自身がトレーナーとして活動するに当たり、お世話になっている周りの人達への恩返しにもなるとも思います。

今改めて感じる筑波大の良さとは?

僕がいた頃はまだ陸の孤島だったので同級生と過ごす時間が多く、サッカーだけじゃなくそれ以外でもバカをやったり(笑)。あの環境の中であったからこそ、様々な人間関係が築けたこと、困った時や失敗した時に支えてくれた同級生がいたことは本当にありがたかったですね。
それに、サッカーに限らずスポーツの世界には筑波大の関係者が多いので、筑波大の先輩たちにフォローしてもらえる機会が少なくありません。そんな時、やっぱり筑波大に行って良かったなと実感します。
街としても“とかいなか(都会+田舎)”な感じが住みやすくて、僕は好きですね。だから、いまだに筑波に住んでいるんですよ。

あなたの“つくばウェイ”とは?

努力し続けること。筑波大に行ったからこそ今の道がありますが、その道をひたすら進めるように努力を継続することが一番大事。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

夢がある、ないに関わらず、人のつながりや学問的な奥深さが感じられるのが筑波大。現役生は、これまで多くの先輩が示してくれたように、皆さんに続く多くの後輩たちのお手本になるような道を進んで欲しいです。

プロフィール
吉田プロフィール
吉田 成仁(よしだなると)
1977年生まれ、石川県出身。岡山県私立金光学園高等学校を卒業後、筑波大学体育専門学群に進学。5歳からサッカーを始め、大学1年の夏からブラジルにサッカー留学を経験。大学3年次にはプレイヤーだけでなくトレーナーとしてもチームに貢献。大学卒業前から鍼灸の専門学校に通い鍼灸師の国家資格を取得。2007年に筑波大学大学院に入学し、筑波大学ハンドボール部のトレーナーとして活動を始める。博士課程進学後の2010年からは帝京平成大学の講師として学生の指導にあたる。現在、帝京平成大学ヒューマンケア学部鍼灸学科准教授、日本ブラインドサッカー協会医事部員、フットサル日本代表アスレティックトレーナー
基本情報
所属:帝京平成大学
役職:准教授
出生年:1977年
血液型:A型
出身地:石川県金沢市
出身高校:岡山県私立金光学園高校
出身大学:筑波大学
出身大学院:筑波大学大学院
所属団体、肩書き等
  • 全日本鍼灸学会 スポーツ鍼灸委員会 委員
  • 全日本鍼灸学会 学術研究部員 
  • 日本ブラインドサッカー協会 医事部員
筑波関連
学部:体育専門学群 1996年入学
研究室:スポーツ医学研究室
部活動:蹴球部
住んでいた場所:天久保4丁目
行きつけのお店:ちどり、いのいち亭
プライベート
ニックネーム:なると
趣味:ジョギング
特技:ピアノ
尊敬する人:父親
年間読書数:10冊
心に残った本:日本人チームを躍動させる 決断力の磨き方(ミゲル・ロドリゴ)
心に残った映画:ラストサムライ
好きなマンガ:刺者―指先案内人(木村 公一)
好きなスポーツ:サッカー、フットサル、ハンドボール
好きな食べ物:苺、メロン
訪れた国:6カ国
大切な習慣:感謝の気持ちをつぶやく
口癖は?:大丈夫
座右の銘
  • 継続にこそ意味がある

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