東福岡高校時代に3冠を達成。鳴り物入りで筑波大に入学したが、環境の変化に気持ちが追いつけず「試合出場回数が減っていった」と苦い思い出を振り返る。しかし、その時に身に付いた“自主性”を活かし、卒業後は12年間プロサッカー選手として活躍。現在はアサヒビール株式会社の営業マンとして、後輩選手たちのお手本になるべくセカンドキャリアを築いている。
ちょうど小学校にサッカーチームができるタイミングだった小学1年生の時、5年生だった兄と一緒に始めました。それからサッカーにどハマりして、狂ったように毎日サッカーをしていましたね。友達とやるか、練習がない日でも1人で壁に向かって何時間もボール蹴っていたことを覚えています。
5、6人ぐらい身体能力が高かったり、足が速いメンバーが集まっていたので、これといって厳しい練習をしていないのに中学時代は福岡県で1位2位、九州でも3位とか。指導者は学校の先生で、選手の好きなようにのびのびとさせてくれました。
東福岡高校はサッカーで有名で、推薦枠がありましたが「推薦では無理だけど、もしよかったら受験しませんか」と声をかけて頂いて、一般入試に臨みました。
当時は、それほどすごいことだとは意識していなかったんです。先生は厳しく指導をされる方でしたけど、朝練もなく、夕方2時間の練習と試合数をこなしていたら結果が出たといった感じだったので。むしろ最近、仕事をするようになってよく「東福岡の人なんですね」と言われるようになって、当時のことを意識するようになりました。
中学の部活と名門高校の練習では、やはりギャップがあって。推薦で入った選手はレベルが桁違いで「こんなに上手いんだ」と驚かされました。入部から数ヶ月で「高さがあるからディフェンスにいけ」と言われて、どんどん後ろに下がっていっていきましたが、それがおかげさまで良い判断だったなと。一番上のチームには、ようやく1年の夏過ぎぐらいから入ることができました。
考えましたね。1学年上の先輩方は3人ぐらいJリーグにスカウトされて、高卒でプロになっていったので「僕も可能性あるかな」と意識しましたし、実際Jリーグから4つぐらいオファーが来たので親に相談したら、「大学に行って欲しい」と言われて。
悩んだ末、大学にいってからでもプロになれるし、もしそこでプロになれなかったら高卒でプロにいったとしても、どっちみちダメだろうと。
サッカー=筑波大というイメージが強かったので、他の大学のことは一切調べず推薦で入学。5人の推薦枠で、僕以外の小林宏之、高林祐樹、阿部謙作、鷲巣延圭は、U-16の日本代表選手でした。
高校時代に遊んでいなかったぶん、筑波は東京にも近いから少し遊べるかなと思っていたら、想像していたより東京が近くはなくて(笑)。しかも、皆の能力が思ったよりも高くて「これはヤバいな」と。
入学当初は高校で活躍した貯金もあったので、よく使ってもらっていたんですけど、次第に練習をしなくなって出場回数が減っていきました。下のチームに落ちたことはなかったのですが、ベンチとかベンチ外とか。
高校時代との大きな違いは、大学では自主性が大事になってくるというか。先生が叱ってくれるわけではないので怠けたら怠けたぶんだけ自分に返ってくると、ようやく気付けたのは3年になってからでしたね。
朝の授業がない時に1周10キロぐらいを週2回走ったり、練習後も自主練をきちんとやる。とにかく自分で考えて練習を補うようにしました。
推薦は1学年数人、それ以外に「蹴球部に入りたい」という熱意をもって筑波大に入学してきている人がたくさんいて、彼らは、僕たち推薦組よりサッカーが好きなんじゃないかというぐらい熱いものを持っていました。なかには、一生懸命練習してトップチームに入っていた選手もいたんですよ。そういった仲間と一緒にプレーできたことは財産だと思います。
地元チームに声をかけてもらいましたが、なかなか学生気分が抜けず……。お金をもらってサッカーをすることに対してプロ意識を持つようになったのは、入団後半年ぐらいに、OBの方に言われた一言がきっかけです。
風邪で休みがちだった時に「風邪でチャンスを逃すのはもったいない」と社内でOBの方に言われて。それからはプロとして生活を見直し、食事や体調管理に気を付けるようになりました。
チームは「3年でJ1に上がる」という目標を掲げ、それに伴って僕自身も成長できました。その時の監督は筑波大出身の松田浩さんということもあり、松田さんに育てて頂いたという思いです。
現役中、親に「後々のことを考えて大学院に行っておけば」と言われて簿記の専門学校に通ったこともありましたが、自分のやりたいことではないから途中で辞めてしまいましたし、いくら考えてもサッカー以外にやりたいことが見つからなかったので、体が動くうちはとにかくサッカーを頑張ろうと。
今、現役の選手には「セカンドキャリアを考えましょう」と発信しなければいけない立場ですが、自分がそうだったように、これはなかなか難しいことだと実感しています。
2013年、徳島ヴォルティス移籍後に意識し始めました。当時34歳で、なんとなく僕の中でもし就職するのであれば、35歳までかなというイメージを持っていて。
それでもマスコミに引退を発表した後は、将来が不安で1週間くらい眠れなくなって、ご飯も喉通らなかったですよ。サッカーという武器が無くなると自分は何にもできないんじゃないかという気持ちになりました。
名古屋にトライアウトに行った際、当時GMで後に社長になった方が「名古屋グランパススクールに来ませんか」と熱心に誘って下さったので一度挑戦してみようと。
子供への指導という意味では良い経験が得られましたが、1年毎の契約でしたし、自分がプレーするのと教えるのとでは全く違うことを実感して、それでご飯を食べていこうという気にはなりませんでした。それなら、自分がやりたいものへ向かったほうがエネルギーも出るんじゃないかと。
リクルートやマイナビに登録したり、知り合いに紹介してもらった社長さんに会いに行ったり。ある程度、自分が興味を持てる業界を絞って話を聞きにいくなど、3か月間は就職活動に集中しました。
アサヒビールが、Jリーグを引退した選手の中で第二新卒ぐらいの人の採用を考えていると耳にして、「ぜひ受けたいです」とお願いをしたら、「年齢が合わないので」と一度は断られたのですが、「では面接の練習をさせてもらえないでしょうか」と食い下がって人事の方に会う機会を作って頂きました。そこから何度かの面接を経て、内定を頂きました。その展開は自分でも驚きましたね。
コネがあったわけではないです。それまで色々な会社に紹介して頂きましたけど、最終的には、自分が本当に行きたい会社を自分で探してお願いしたほうが、話が前に進むのだと思います。
妻はいつも「応援するよ」というスタンスでいてくれるので有難いですね。今は子供が1歳になったばかりですが、子供を見ているだけで幸せを感じます。
サッカーより今のほうが大変です。ずっとサッカーをやっていたので慣れもあったと思いますが、サッカー選手の場合、チーム練習は1時間半~2時間ぐらいで、その後に自主トレしたとしても午後2時には終わっていました。それに比べたら会社員は朝が早くて、夜が遅い(笑)。たまに土日もお付き合いがありますから。
営業として担当の酒販店様や料飲店様に足を運んで、少しでもアサヒビール、弊社の商品を使ってもらえるようお願いして回っています。新規のお客様を作るのは難しいですし、ただでさえコミュニケーション能力が高い方では無いので(笑)、日々苦労していますね。
ただ、こういった経験があるからこそ、サッカーの後輩たちにアドバイスをできることもあると思うので、今後は彼らの良き相談相手になれればと思います。
弊社は東京オリンピックのゴールドパートナーでもありますし、筑波大の体専出身という意味でも、今後オリンピックまでの3年で僕にできることは何でもやっていきたいです。オリンピックだけに限らず、スポーツをしている方たちをサポートする役割を担っていけたらいいですね。
自分で目標を立てて、自分で行動していくこと。それに気付かせてくれたのは筑波大での経験でした。
卒業後も同級生たちや仲間との関係は続くので、部活の垣根を超えて色んな人と交流を持っておくことが財産になると思います。
所属: | アサヒビール株式会社 |
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役職: | 東京統括支社 東京支店 課長補佐 |
出生年: | 1980年 |
血液型: | AB型 |
出身地: | 福岡県福岡市 |
出身高校: | 東福岡高校 |
学部: | 体育専門学群 |
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研究室: | 体育経営学研究室 |
部活動: | 蹴球部 |
住んでいた場所: | 天久保2丁目 |
行きつけのお店: | 純平(とんかつ) |
ニックネーム: | チヨ |
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趣味: | 家族と散歩、家族旅行 |
特技: | 球技 |
尊敬する人: | 教育者、指導者 |
年間読書数: | 30冊 |
心に残った本: | 人間の基本(曽野綾子著) |
心に残った映画: | グラディエーター |
好きなマンガ: | ワンピース |
好きなスポーツ: | サッカー |
好きな食べ物: | 家庭料理 |
嫌いな食べ物: | エビ、カニ |
訪れた国: | ドイツ、イタリア、フランス、UAE,韓国、中国、インド |
大切な習慣: | 選手時代の公式戦ウォーミングアップ前に仰向けに寝て、目を瞑り集中力を高めていた。 |
口癖は?: | 自分ならできる! |
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