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新井スライダー

左手がないと諦めず、あるものを最大限活かす

Sportsperson
2017/09/11
インタビュー
  • 90
パラリンピック クロスカントリースキー金メダリスト
新田 佳浩
(体育専門学群 1999年入学)

3歳で左ひじ下を切断。何かスポーツで自信をつけさせようとの両親の思いでスキー、そしてクロスカントリースキーの世界へ。思春期の挫折、15年間隠されていたケガの秘密などさまざまな苦悩を乗り越え、長野から5大会連続でパラリンピックに出場。参加することだけに満足せず“結果”にこだわり続ける理由、そして、その背景にはどんな努力が潜んでいるのだろう。

長野パラリンピック後に明かされたケガの秘密

スキーを始めたきっかけを教えて下さい。

3歳の頃、事故で障害を負った僕が何か自信が得られるようにと、両親がアルペンスキーを勧めてくれたのがきっかけです。出身地の岡山県県北には雪が降り、12月末から3月半ばまでスキーができる環境でした。

スキーをやってみた感触は?

最初は思うようにできなくて両親に助けを求めていました。小学校に入ると、年に3回スキー教室が開催されて、ちょっとしたことができないと言っては泣いて帰り、家族のアドバイスを受けて「次はこう工夫してみよう」と考えて、1つずつ課題を克服しながら成功体験を得ていきました。この経験が、今でもスキーを続けている原動力になっています。

競技として始めたのはいつですか?

小学校3年生の時、クロスカントリースキーをやっていた小学校の先生から「(クロスカントリースキーの)細い板でバランスがとれるようになったら、アルペンスキーなんてもっと簡単に滑れるよ」と言われて、「じゃあやってみよう」と思いました。最初はアルペンスキーを上達させるために、クロスカントリースキーを始めたといった感じです。

当時は、健常者と戦っても強かったそうですね。

他の子よりも走るのが速く、また、負けず嫌いな性格のおかげで小学校低学年から高学年までは、とにかく「勝つことが楽しい」という感覚でしたね。それが中学校に上がると、片手一本でしかストックを持てないことがハンデとなり、徐々に勝てなくなって……。思春期で思い悩んでいた時期でもあったので、中学2年生で一度スキーを辞めました。

ところが1年後には競技に戻っています。

1年間スキーをやらない期間を経て、改めてスキーの楽しさというか、「ウィンタースポーツって神様からの贈り物なんだ」と実感させられました。雪面はきれいだし、ただ歩くだけでも楽しい。競技としてではなく、自然の山を滑るバックカントリーのような形でまたスキーをやりたいと思っていた頃に、98年の長野パラリンピックを見据えてスカウトをしていただきました。

パラリンピックには、どんな印象を持っていましたか。

当時は、僕も障がい者スポーツのことをよく知らなくて、体の不自由な人が頑張ってスポーツをしているイメージしか持っていませんでした。ところがスカウトしてくれたコーチに映像と写真を見せられた時、「片手だからこれ以上できない」と見切りをつけた自分が恥ずかしいと思うほど、彼らの必死な姿に感銘を受けて競技を再開することを決心しました。

それからは、ただコーチの指示を仰ぐだけでなく、自ら考えながら競技に取り組むようになりました。

長野パラリンピックでは8位入賞。いざ出場して何か感じたことは?

初めての世界大会だったので順位にはこだわらず、パラリンピックという場所でどれくらい自分が通用するのか試してみたい、そんな気持ちで臨みました。とにかく衝撃だったのは10kgぐらい体重が違う海外の選手を見た時ですね。それ以降は、「どうすれば彼らに少しでも近づけるだろう?」と模索し始め、世界を見据えるようになりました。

しかも長野パラリンピックは日本におけるパラリンピックの転換期でもあるんです。それ以前は、パラリンピック選手とオリンピック選手の日本代表ウェアは違うブランドで、違うデザインでしたが、長野パラリンピックからは両選手が同じウェアを着用するようになりました。障がい者スポーツ基金ができたのもその頃ですし、ちょうど時代が変わり始めた頃だと思います。

新田さんにとってもパラリンピックにとっても転換期だったのですね。

そうですね。それと、もう1つ忘れられないのは試合後、地元に帰った時に、初めて「なぜ僕が3歳の時にけがをしたのか」という事実を家族から聞かされたことです。

それまで15年間ずっと秘密にされていたのですが、実は祖父が運転していた農業機械に巻き込まれて、左のひじ先を切断しなければならなかったと聞きました。手術で切断をする前、祖父は「自分の腕を切って孫につけてほしい」と言ったそうです。そのことを長野の後に聞かされて「だからおじいちゃんは、ずっと僕のことを一生懸命応援してくれていたんだ……」と思いました。

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そんな経緯があったのですね。

ショックでたまらなかったですし、ずっと罪悪感を持っていたであろう祖父の気持ちを思うと……どうやってこの状況を克服すればいいのだろうと考え抜いた末に、出た結論は「僕が一生懸命頑張っている姿を見せるのが大切だ」ということでした。それからですね、順位にこだわって滑るようになったのは。

その後、筑波大に入学。

長野パラリンピックで8位入賞という実績があって推薦を受けることができました。パランピック選手がスポーツ推薦で筑波大に入学した前例はそれまでになく、僕が最初だったそうです。

高校時代、障がい者スポーツの普及のために何かできることはないだろうかと考えた時に、筑波大にはアダプテッド研究室があって他の大学よりも進んでいたことが大きかったですね。

入学してみていかがでしたか。

筑波大にはアルペンスキーの選手もクロスカントリースキーの選手もいると聞いていましたが、ちょうど入れ違いでクロスカントリースキーの選手が卒業してしまっていて、誰に教えを請えばいいのだろうと思っていました。ただ、僕が推薦入試の際に陸上で走りを見せていたことを大学の陸上部のコーチが覚えていてくれて、そのコーチから指導を受けることになりました。

リスクを恐れず挑戦する“勇気”は大学で培った

大学で特に印象に残っていることは?

これ、ビックリするような話ですが、当時棒高跳びで日本記録を持っていた先生が校舎の4階から飛び降りる練習をしていたのを見たんです(笑)。とんでもない発想ですけど、挑戦してみないと正解は分からない。新しいことを取り入れることを恐れず柔軟な発想を持つことは大切だと教えられたような気がしました。

それと印象に残っている人物でいえば、鈴木徹くん(つくばウェイvol.38で紹介)ですね。

なぜ印象に残っているのでしょう?

本来なら同じ入学年でしたが、彼は入学前に事故に遭って1年遅れで筑波大に入ってきました。当時、右足を切断して断端が固まっていない状態で、必死に走り高跳びの練習をしていた姿が目に焼き付いていますし、最近もリオパラリンピックに出場されていますね。彼独自の発想を持って取り組んでいる姿に、今も刺激を受けています

筑波大には何事もストイックに向き合う人が多い。

大学院で技師装具の研究をしていた人との出会いも面白かったですね。それまでストック一本で滑るのが当たり前だと思っていましたけど、「両手が使えるように装具を作ってみよう」と提案されて、「断端の筋力や筋量は増えるのか」という研究に参加しました。

最終的に両方を使うことは難しかったのですが、やる前に諦めず、まずは挑戦してみるといった精神は筑波大だからこそ育まれるのだろうと思います。

そういった精神は新田さんの中にも生きていますか?

そうですね。大学時代は、クロスカントリースキーならその専門のトレーニングをやることが成功への近道だと誰もが思っていましたが、僕だけは「違う」と考えました。いろいろな取り組みを試すことで何か少しでも成長できるなら、リスクを恐れずに挑戦したほうがいい。そうした“勇気を持つこと”は大学時代に学び、確実に今に活かされています。

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現在、筑波大との関わりは?

ソチパラリンピックの前に、ハードルの谷川聡先生に走り方や足を早く回す方法を教えていただいたり、ジャーナリズム論やオリンピック概論といった講演をさせていただいたりする機会がありました。

競技に話を戻すと、大学3年の時にソルトレイクシティパラリンピックで銅メダルを獲得。就職活動は苦労しなかったのでは?

いや、それが、「ソルトレイクシティパラリンピックで銅メダルを獲りました」というと、「すごいね」って話になるんですけど、入社後も競技を中心とした活動をしていいかというと、そこはなかなか認めてもらえなかったんです。遠征費は自費でという会社がほとんどでしたが、アディダスジャパン株式会社だけが理解を示してくれて。遠征費や遠征に関する条件など僕が理想とする環境を整えてくれました。

入社してどのような生活を?

オフシーズンは9時~18時で働いて、19時に家に帰ってから荒川の河川敷でローラースキーというクロスカントリー専用の道具でトレーニングをしていました。辺りは真っ暗ですが、薄明かりを頼りに2時間滑って、今度は民間のスポーツクラブでウエイトトレーニング。深夜0時に家に戻って睡眠をとり、6時起きでランニングをしてから会社にいくという生活でした。
大学時代とは違う環境で、慣れるまで大変でしたけど、大変だったからこそ色々改善されてきて今があると前向きに捉えています。

入社3年目の2006年にトリノパラリンピックに出場。

トリノパラリンピックで金メダルを獲って祖父にメダルをかけてあげる、そして選手を引退することが目標でしたが、ふがいない結果に終わってしまって……。一人で練習するのには限界があると感じて、企業として初めて障がい者の実業団チームを作った日立ソリューションズに転職することにしました。

日立ソリューションズはどんな環境が整っていたのでしょう?

クロスカントリーは基本的に1人で完結するスポーツですが、コーチや他競技の選手などチームで切磋琢磨できる環境はとても刺激的ですし、数値的な分析を練習に取り入れていました。現在は、遠征を含めて年間230日を競技の活動に充てることができています。

そういった試みのかいがあり、バンクーバーパラリンピックで金メダル獲得。そしてソチパラリンピックに出場し、今年37歳。長野パラリンピックから長い間、どうモチベーションを保っているのですか。

「これが良い」と思った瞬間に成長は止まるので、今の取り組みが常に正しいものだと思わないというのは次へのモチベーションにつながっています。まだまだ成長したいという思いを強く持っていると、そんな僕をサポートしてくれる人たちが集まってくれるというか、周りの人に熱意が着火されていくことを実感することも多いです。

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どんな人のサポートを?

例えば、最近は気象予報士の方のサポートを得ていますが、その背景にはクロスカントリーは天候に大きく左右される競技であり、雪質が違えば同じ板を使っても上手く滑らないことがあります。それに対応できるワックスを開発するなど、僕とは違うバックグラウンドを持つ人たちが「新田佳浩にもう一度金メダルを獲らせたい」と応援してくれることをありがたく感じていますし、期待に応えるために自分自身も成長していかなければと気合いが入ります。

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何かモットーとしていることはありますか?

「生かされた環境を最大限に活かすこと」ですね。パラリンピックの父といわれているグッドマン博士が「あるものを最大限活かせ」という言葉を残していますが、僕だったら左手が使えないのではなくて、アタッチメントを使うといった具合に少し考えを変えることで、それまで自分ができなかったことができるようになりました。

もちろんすべての試みが正解なわけではありません。間違っていることもあるかもしれないけど、良いことも悪いことも含めて最終的に成長できていることを思えばすべては無駄ではない。そういった思いで競技に向き合っています。

では最後に今後の目標をお願いします。

来年の平昌(ピョンチャン)パラリンピックでは金メダルしかないと思っています。その一点ですね。

あなたの“つくばウェイ”とは?

ゴールはないということ。ゴールがないからこそ自分で考えて、それに真摯に取り組む。生きる力を学びました。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

大きいキャンパスが1つだけという環境は、他の大学にない強み。学びたいことが同じ人が集まっているのではなく、異学年、異学部との交流ができることが筑波大の良さだと思います。

プロフィール
新井プロフィール
新田 佳浩(にったよしひろ)
1980年生まれ、岡山出身。岡山県立林野高等学校から、筑波大学体育専門学群へ進学。4歳からスキーを始め、小学生からはクロスカントリースキーの選手としてキャリアをスタートさせる。初の国際大会であった長野パラリンピックでは8位入賞。筑波大学進学後はトレーニングの一環として長距離走に取り組むなど工夫し、ソルトレイクシティパラリンピックでは5kmクラシカルで銀メダルを獲得。卒業後はアディダスジャパン株式会社に就職し、世界選手権では10kmクラシカルで金メダルを獲得。着実に力を伸ばしたが、旗手を務めたトリノパラリンピックでは20kmクラシカルで5位と振るわなかった。2006年に株式会社日立ソリューションズに転職し、バンクーバーパラリンピックでは10kmクラシカルと1kmスプリントで金メダルを獲得。2017年の世界選手権では12年ぶりに表彰台に上るなど、来年の平昌パラリンピックでの活躍が期待される。現在、営業統括本部 マーケティングコミュニケーション部 主任 日立ソリューションズ チーム「AURORA」スキー部所属。個人HP:http://www.nitta-yoshihiro.com/
基本情報
所属:株式会社日立ソリューションズ
役職:主任
出生年:1980年
血液型:O型
出身地:岡山県英田郡西粟倉村
出身高校:岡山県立林野高校
所属団体、肩書き等
  • 日立ソリューションズ スキー部 選手
  • 日本障害者スキー連盟 理事
筑波関連
学部:体育専門学群 1999年入学
研究室:障害者スポーツ研究室
部活動:スキー部
住んでいた場所:天久保2丁目
行きつけのお店:じんぱち
プライベート
趣味:ランニング
尊敬する人:父親
年間読書数:15冊
心に残った本:勝負脳(林成之)
好きなマンガ:ONEPIECE
好きなスポーツ:スキー
好きな食べ物:お好み焼き
嫌いな食べ物:麦とろごはん
訪れた国:15カ国
大切な習慣:靴下は必ず左足から
口癖は?:やるしかない。
座右の銘
  • 不可能とは可能性だ

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