3歳で左ひじ下を切断。何かスポーツで自信をつけさせようとの両親の思いでスキー、そしてクロスカントリースキーの世界へ。思春期の挫折、15年間隠されていたケガの秘密などさまざまな苦悩を乗り越え、長野から5大会連続でパラリンピックに出場。参加することだけに満足せず“結果”にこだわり続ける理由、そして、その背景にはどんな努力が潜んでいるのだろう。
3歳の頃、事故で障害を負った僕が何か自信が得られるようにと、両親がアルペンスキーを勧めてくれたのがきっかけです。出身地の岡山県県北には雪が降り、12月末から3月半ばまでスキーができる環境でした。
最初は思うようにできなくて両親に助けを求めていました。小学校に入ると、年に3回スキー教室が開催されて、ちょっとしたことができないと言っては泣いて帰り、家族のアドバイスを受けて「次はこう工夫してみよう」と考えて、1つずつ課題を克服しながら成功体験を得ていきました。この経験が、今でもスキーを続けている原動力になっています。
小学校3年生の時、クロスカントリースキーをやっていた小学校の先生から「(クロスカントリースキーの)細い板でバランスがとれるようになったら、アルペンスキーなんてもっと簡単に滑れるよ」と言われて、「じゃあやってみよう」と思いました。最初はアルペンスキーを上達させるために、クロスカントリースキーを始めたといった感じです。
他の子よりも走るのが速く、また、負けず嫌いな性格のおかげで小学校低学年から高学年までは、とにかく「勝つことが楽しい」という感覚でしたね。それが中学校に上がると、片手一本でしかストックを持てないことがハンデとなり、徐々に勝てなくなって……。思春期で思い悩んでいた時期でもあったので、中学2年生で一度スキーを辞めました。
1年間スキーをやらない期間を経て、改めてスキーの楽しさというか、「ウィンタースポーツって神様からの贈り物なんだ」と実感させられました。雪面はきれいだし、ただ歩くだけでも楽しい。競技としてではなく、自然の山を滑るバックカントリーのような形でまたスキーをやりたいと思っていた頃に、98年の長野パラリンピックを見据えてスカウトをしていただきました。
当時は、僕も障がい者スポーツのことをよく知らなくて、体の不自由な人が頑張ってスポーツをしているイメージしか持っていませんでした。ところがスカウトしてくれたコーチに映像と写真を見せられた時、「片手だからこれ以上できない」と見切りをつけた自分が恥ずかしいと思うほど、彼らの必死な姿に感銘を受けて競技を再開することを決心しました。
それからは、ただコーチの指示を仰ぐだけでなく、自ら考えながら競技に取り組むようになりました。
初めての世界大会だったので順位にはこだわらず、パラリンピックという場所でどれくらい自分が通用するのか試してみたい、そんな気持ちで臨みました。とにかく衝撃だったのは10kgぐらい体重が違う海外の選手を見た時ですね。それ以降は、「どうすれば彼らに少しでも近づけるだろう?」と模索し始め、世界を見据えるようになりました。
しかも長野パラリンピックは日本におけるパラリンピックの転換期でもあるんです。それ以前は、パラリンピック選手とオリンピック選手の日本代表ウェアは違うブランドで、違うデザインでしたが、長野パラリンピックからは両選手が同じウェアを着用するようになりました。障がい者スポーツ基金ができたのもその頃ですし、ちょうど時代が変わり始めた頃だと思います。
そうですね。それと、もう1つ忘れられないのは試合後、地元に帰った時に、初めて「なぜ僕が3歳の時にけがをしたのか」という事実を家族から聞かされたことです。
それまで15年間ずっと秘密にされていたのですが、実は祖父が運転していた農業機械に巻き込まれて、左のひじ先を切断しなければならなかったと聞きました。手術で切断をする前、祖父は「自分の腕を切って孫につけてほしい」と言ったそうです。そのことを長野の後に聞かされて「だからおじいちゃんは、ずっと僕のことを一生懸命応援してくれていたんだ……」と思いました。
ショックでたまらなかったですし、ずっと罪悪感を持っていたであろう祖父の気持ちを思うと……どうやってこの状況を克服すればいいのだろうと考え抜いた末に、出た結論は「僕が一生懸命頑張っている姿を見せるのが大切だ」ということでした。それからですね、順位にこだわって滑るようになったのは。
長野パラリンピックで8位入賞という実績があって推薦を受けることができました。パランピック選手がスポーツ推薦で筑波大に入学した前例はそれまでになく、僕が最初だったそうです。
高校時代、障がい者スポーツの普及のために何かできることはないだろうかと考えた時に、筑波大にはアダプテッド研究室があって他の大学よりも進んでいたことが大きかったですね。
筑波大にはアルペンスキーの選手もクロスカントリースキーの選手もいると聞いていましたが、ちょうど入れ違いでクロスカントリースキーの選手が卒業してしまっていて、誰に教えを請えばいいのだろうと思っていました。ただ、僕が推薦入試の際に陸上で走りを見せていたことを大学の陸上部のコーチが覚えていてくれて、そのコーチから指導を受けることになりました。
これ、ビックリするような話ですが、当時棒高跳びで日本記録を持っていた先生が校舎の4階から飛び降りる練習をしていたのを見たんです(笑)。とんでもない発想ですけど、挑戦してみないと正解は分からない。新しいことを取り入れることを恐れず柔軟な発想を持つことは大切だと教えられたような気がしました。
それと印象に残っている人物でいえば、鈴木徹くん(つくばウェイvol.38で紹介)ですね。
本来なら同じ入学年でしたが、彼は入学前に事故に遭って1年遅れで筑波大に入ってきました。当時、右足を切断して断端が固まっていない状態で、必死に走り高跳びの練習をしていた姿が目に焼き付いていますし、最近もリオパラリンピックに出場されていますね。彼独自の発想を持って取り組んでいる姿に、今も刺激を受けています
大学院で技師装具の研究をしていた人との出会いも面白かったですね。それまでストック一本で滑るのが当たり前だと思っていましたけど、「両手が使えるように装具を作ってみよう」と提案されて、「断端の筋力や筋量は増えるのか」という研究に参加しました。
最終的に両方を使うことは難しかったのですが、やる前に諦めず、まずは挑戦してみるといった精神は筑波大だからこそ育まれるのだろうと思います。
そうですね。大学時代は、クロスカントリースキーならその専門のトレーニングをやることが成功への近道だと誰もが思っていましたが、僕だけは「違う」と考えました。いろいろな取り組みを試すことで何か少しでも成長できるなら、リスクを恐れずに挑戦したほうがいい。そうした“勇気を持つこと”は大学時代に学び、確実に今に活かされています。
ソチパラリンピックの前に、ハードルの谷川聡先生に走り方や足を早く回す方法を教えていただいたり、ジャーナリズム論やオリンピック概論といった講演をさせていただいたりする機会がありました。
いや、それが、「ソルトレイクシティパラリンピックで銅メダルを獲りました」というと、「すごいね」って話になるんですけど、入社後も競技を中心とした活動をしていいかというと、そこはなかなか認めてもらえなかったんです。遠征費は自費でという会社がほとんどでしたが、アディダスジャパン株式会社だけが理解を示してくれて。遠征費や遠征に関する条件など僕が理想とする環境を整えてくれました。
オフシーズンは9時~18時で働いて、19時に家に帰ってから荒川の河川敷でローラースキーというクロスカントリー専用の道具でトレーニングをしていました。辺りは真っ暗ですが、薄明かりを頼りに2時間滑って、今度は民間のスポーツクラブでウエイトトレーニング。深夜0時に家に戻って睡眠をとり、6時起きでランニングをしてから会社にいくという生活でした。
大学時代とは違う環境で、慣れるまで大変でしたけど、大変だったからこそ色々改善されてきて今があると前向きに捉えています。
トリノパラリンピックで金メダルを獲って祖父にメダルをかけてあげる、そして選手を引退することが目標でしたが、ふがいない結果に終わってしまって……。一人で練習するのには限界があると感じて、企業として初めて障がい者の実業団チームを作った日立ソリューションズに転職することにしました。
クロスカントリーは基本的に1人で完結するスポーツですが、コーチや他競技の選手などチームで切磋琢磨できる環境はとても刺激的ですし、数値的な分析を練習に取り入れていました。現在は、遠征を含めて年間230日を競技の活動に充てることができています。
「これが良い」と思った瞬間に成長は止まるので、今の取り組みが常に正しいものだと思わないというのは次へのモチベーションにつながっています。まだまだ成長したいという思いを強く持っていると、そんな僕をサポートしてくれる人たちが集まってくれるというか、周りの人に熱意が着火されていくことを実感することも多いです。
例えば、最近は気象予報士の方のサポートを得ていますが、その背景にはクロスカントリーは天候に大きく左右される競技であり、雪質が違えば同じ板を使っても上手く滑らないことがあります。それに対応できるワックスを開発するなど、僕とは違うバックグラウンドを持つ人たちが「新田佳浩にもう一度金メダルを獲らせたい」と応援してくれることをありがたく感じていますし、期待に応えるために自分自身も成長していかなければと気合いが入ります。
「生かされた環境を最大限に活かすこと」ですね。パラリンピックの父といわれているグッドマン博士が「あるものを最大限活かせ」という言葉を残していますが、僕だったら左手が使えないのではなくて、アタッチメントを使うといった具合に少し考えを変えることで、それまで自分ができなかったことができるようになりました。
もちろんすべての試みが正解なわけではありません。間違っていることもあるかもしれないけど、良いことも悪いことも含めて最終的に成長できていることを思えばすべては無駄ではない。そういった思いで競技に向き合っています。
来年の平昌(ピョンチャン)パラリンピックでは金メダルしかないと思っています。その一点ですね。
ゴールはないということ。ゴールがないからこそ自分で考えて、それに真摯に取り組む。生きる力を学びました。
大きいキャンパスが1つだけという環境は、他の大学にない強み。学びたいことが同じ人が集まっているのではなく、異学年、異学部との交流ができることが筑波大の良さだと思います。
所属: | 株式会社日立ソリューションズ |
---|---|
役職: | 主任 |
出生年: | 1980年 |
血液型: | O型 |
出身地: | 岡山県英田郡西粟倉村 |
出身高校: | 岡山県立林野高校 |
学部: | 体育専門学群 1999年入学 |
---|---|
研究室: | 障害者スポーツ研究室 |
部活動: | スキー部 |
住んでいた場所: | 天久保2丁目 |
行きつけのお店: | じんぱち |
趣味: | ランニング |
---|---|
尊敬する人: | 父親 |
年間読書数: | 15冊 |
心に残った本: | 勝負脳(林成之) |
好きなマンガ: | ONEPIECE |
好きなスポーツ: | スキー |
好きな食べ物: | お好み焼き |
嫌いな食べ物: | 麦とろごはん |
訪れた国: | 15カ国 |
大切な習慣: | 靴下は必ず左足から |
口癖は?: | やるしかない。 |
TSUKUBA WAYに関するお問い合わせはこちらから!
お問い合わせ