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福見スライダー

五輪での経験が、今に活きている

Sportsperson
2018/08/06
インタビュー
  • 111
JR東日本女子柔道部ヘッドコーチ/ロンドン五輪48キロ級代表
今川友子(旧姓:福見)
(体育専門学群 2004年入学)

田村亮子を日本の高校生が敗った。柔道ファンならずとも、そのニュースを耳にしたほど大きな出来事だった。その渦の中心にいたのが福見友子選手。国民のアイドル的存在をライバルに持ったがために、彼女の柔道人生はより困難な道を強いられたかもしれない。それでも「柔道が好き」との一途な思いで、現在は指導者として活躍している。

高校生で谷選手の65連勝をストップ

柔道を始めたきっかけを教えて下さい。

8歳の時、親と一緒にテレビでバルセロナオリンピックを観ていて、「何か武道を習わせたい」と思っていた親が近くの町道場に連れて行ったことがきっかけです。

女子柔道はバルセロナから公開競技になったのですが、あんなに大きな大会で体の小さな選手が活躍できる、そんな姿に惹かれました。

ご家族は柔道をしていたのですか?

誰も柔道をしていないんです。兄はバスケットボール、姉はクラシックバレエを習っていて、親は私の性格を見て、「バレエではないな」と思っていたみたいです。

私自身、練習に参加するようになって「これだ!」と、しっくりくるものがあって。畳の上ででんぐり返しをしたり、マット運動することが楽しくて、どんどんのめりこんでいきました。小学校4、5年の頃には、「柔道でずっと生きていきたい」と思っていました。

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めきめきと頭角を現し、全国中学校大会48㎏級で優勝。

最初の道場で良い指導者と出会い、その後もずっと良い先生に恵まれたことが大きいです。

中学には柔道部がなかったのですが、同じ道場に通っていた同級生の母親と私の母親が一緒に校長先生にお願いしてくれ、柔道部を作ってもらいました。練習は同級生の親が監督を務める土浦日大高校で練習していました。卒業後はそのまま土浦日大高校に進学しました。

人との出会いのおかげで本気で柔道に取り組める環境があったからこそ、全国で優勝することができたと思います。

地元にある筑波大は身近な存在だったのでしょうか。

筑波大柔道部の選手がうちの高校に練習に来ることもあったので、カッコいいなと憧れていましたし、オリンピックのメダリストも輩出していましたから「ゆくゆくは筑波大にいきたい」と自然に思うようになりました。

ただ、良い記録を残さないと推薦がとれないので、高校の時から何か結果を出すことを意識していましたね。

高校2年4月、16歳で世の中がざわつく記録を打ち出します。全日本選抜に出場し、世界で活躍していた谷亮子選手(当時は田村)に一回戦で勝利。谷選手は当時65連勝中で、日本人を相手に12年間負けなしという、ノリにのった時期での対戦でしたが、振り返っていかがでしたか?

あれは選手人生において思い出深い試合の1つです。まず全日本選抜の試合に高校生で出られることも難しい上に、世界を代表する谷選手との対戦は日本人の限られた人にしか与えられないチャンスですから。

「雲の上の存在の人と対戦できる!」と思うと、試合前から不安感とワクワク感が入り混じって気持ちが不安定な状態で試合に臨んだことを覚えています。

それで勝てたのはすごいことですね。

偉大な選手ではあるけれど、私自身、諦めてもいなかったですし、「挑戦したい!」という前向きな気持ちがありました。

でも試合中のことはあまり覚えていないんです。無我夢中で、“全然”覚えていないといってもいいほど(笑)。1つだけ覚えているのは、最後の10秒でお客さんやマスコミの方たちが10、9、8…ってカウントダウンしている声が聞こえてきたこと。普段の試合ではそんなことは起こらないですから。

そして終わった瞬間、バーッと記者さんたちが私のもとに走ってきたことを覚えています。

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1試合で、全国的に名前が知れ渡るような快挙でした。

一回戦で谷さんと戦って、そのあと二試合目で他の選手に負けてしまったので、私としては情けない、悔しいという思いが強かったですね。

でも「谷さんに勝ってすごい!」という状況がしばらく続いていて、家にも学校にもマスコミの方が押し寄せました。

その時、何を思いましたか?

谷さんの偉大さを改めて感じましたし、勝ったかといって私が次に世界でトップかというと実力は全く追いついていない。実はそれ以降、スランプに陥ったんです。

「この人は田村さんに勝った人だ」「次世代のホープだ」という周囲からのプレッシャーを感じて高校生にも勝てない、練習に身が入らないといった時期が高校3年から大学1年ぐらいまで続きました。

どうスランプを克服したのでしょうか。

学生の大会では優勝できていましたけど、シニアの大会や世界の大会では活躍できない、そんな時期が続いていた大学3年の頃、もう一度、全日本選抜で谷さんと対戦したことが大きかったですね。

その大会では、決勝で谷さんに勝って初優勝を果たしました。これで世界選手権の代表に選ばれると思っていたら、私ではなく谷さんが選ばれて……ということがあったことも印象深いです。

当然、何か思うことがあったでしょうね。

北京オリンピックの一年前に開催された世界選手権で、谷さんは優勝。そしてオリンピックの切符を手にしました。

世界選手権を現地で見ていましたが、完璧な形で優勝した谷さんを見て「やっぱりすごい」「私がそこに立てなかったのは悔しいけれど、私だったら優勝できていたのか」と色んな感情が交差して、一人で泣きました。

代表を選ぶ側の立場からすると、世界で金メダルを獲れるのはやっぱり谷さん。そして結果で言うと、それは正しかったということです。

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谷さんを倒しても世界は見えてこないという現実。

ずっと、谷さんを倒して日本で一番になるために練習をしてきたけれど、それからは世界で戦うための力をつけていかなければと意識が変わりました。

一方、谷さんは常に世界しか見ていなかった。そこに私と谷さんとの差があったんだと思います。

世界が見えてきたのはいつ頃でしたか?

筑波大大学院一年生だった2009年、初めて世界代表として世界選手権に出場した頃です。

北京を逃してから、国際大会での実績を作るために対外国人の対策に力を入れるようになったことが功を奏して、初めての世界選手権で優勝しました。

外国人向けの対策とは?

国際大会に出たり、日本代表として国際合宿にも連れて行ってもらったり。筑波大にも海外から柔道選手が練習に訪れるので、彼らと練習を共にすることで、体格もパワーも違う選手たちに慣れ、対策を練ったことが優勝につながったのだと思います。

オリンピックは“いつも通り”ではダメ

努力が実を結んで、ロンドンオリンピックに出場。

北京後、休養に入られた谷さんに代わる存在として若手が台頭していましたが、「ロンドンは最後の挑戦。ロンドンまで諦めずに駆け抜けよう」と、人生全てを賭けて国内の最終選考会に臨み、優勝。ようやく夢だったオリンピックの切符を手にしました。

それまでと変わったところはありましたか。

それまでのセルフコーチングでは限界があると思って、当時、所属していた了徳寺学園に専属のコーチをつけてもらえるようお願いしました。とにかく、「やれることは全部やろう」という気持ちで。

そしてオリンピックに出場しましたが、準決勝で敗退。

その頃は世界経験も積んでいましたから、「いつも通りで大丈夫」と落ち着いた状態で試合に臨みました。が、終わってみて分かったことは、オリンピックはいつも通りだけではダメだということ。

今思い返すと、“いつも通り”を超えて試合の日に一番強い人じゃなければオリンピックで金メダルを獲ることはできない。“いつも通り”で臨んだ時点で、自分の可能性を潰してしまったのだと思います。

私のオリンピックは、そういった反省が残ったまま幕を閉じました。

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オリンピックで得られたものは?

オリンピックを経験しなければ分からない感覚でしょうか。オリンピック出場に向けて踏ん張って、なんとか出場できたこと、そして、あの舞台で戦えたことは現在、指導者として活動する上で大きな経験だったと思います。

筑波大での学びは選手生活に影響を与えていましたか。

筑波大のスポーツ全般に共通することですが、自主性を大切にして、自分のやりたいようにやることで考える力が養われたと思います。柔道は特に畳の上で一人で戦いますから、自分で試合の対策や研究をする力が問われます。

大学院の時は、将来、指導者になることを考えていたので色んなスポーツのことを学べたことも大きな収穫でしたし、当時、学んだことを練習に反映して「この理論は合っている」と実践することも楽しかったです。

ロンドンを終えた翌年、2013年に現役を引退し、指導者の道へ。

指導者の道が拓かれたのは、ロンドンを終えた後、ロシアの女子ナショナルチームを強化するということで指導者として合宿に呼ばれたことがきっかけです。

ロシアの男子チームはロンドンで金メダルを3つ獲っていましたから、そんなにすごい環境に身を置けて勉強になりましたし、私の指導スタイルはこの時の経験が大きいです。

どんなスタイルでしょう?

師弟関係という形をとっている日本に対し、ロシアやヨーロッパはコーチと選手という横のつながりが基本です。

ロシアでは選手が自発的に前に出て、コーチに「ここを教えて欲しい」と言ってくるので、本気で強くなりたい気持ちが伝わってきましたし、そのぶん選手の思いに応えられる指導者になりたいと感じました。

先ほども言いましたが柔道は畳の上では一人ですから。先生頼みではなく、自立した考えを持てるような選手を育てられるよう常日頃から意識しています。

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ロシアの後はイギリスのラフバラ大学へ。

筑波大学指導者交換プログラムでラフバラ大学へ出向し、語学の勉強をしながらイギリスの大学生やナショナルチームに指導をしたり、子供たちに柔道を教えていました。

言葉が伝わらない相手への指導は大変だったのでは?

それが、すごく楽しかったんです。言葉が通じても通じなくても、相手に論理的に伝えることは指導者として大切ですから、私なりに工夫をして伝えて、選手ができるようになった時はすごく嬉しくて。

そういうことの連続で、伝える技術を身につけていったような気がします。

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帰国後、現在の勤め先であるJR東日本女子柔道部のコーチに就任。

このチームにいるのはトップのレベルの選手ではなく、トップを目指してもがいている選手がほとんど。柔道を辞めようか、もう少し頑張ろうかとギリギリのラインでやっている選手たちは、あと一息、何かが変わればガッと上にいける可能性があります。

私としては選手人生の最後に諦めて欲しくない、もう一花咲かせて欲しいという願いを込めて、このチームで指導をすることを決めました。

柔道の指導者を超えて、教育者ですね。

日本の将来を担う子たちですから。

チームとして目指すところは?

チームの方針は世界のトップになること。急な成長を求められて、なかなかついてこられない選手や、頑張りたいけど無理だと思っている選手もいるので、テクニックの面だけでなく、1人1人の感情をケアすることも心掛けています。

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一児の母であり、全日本女子シニアの強化コーチでもあるので、お忙しい毎日でしょうね。

他のことで忙しいというのは言い訳になりませんし、選手に対して手を抜くことはできないですから。常に真剣勝負で接しています。

幸い家族の理解があるので助かっていますね。主人も柔道家で、柔道愛がすごい人。私が柔道の仕事をしていることを応援してくれているので、そういった体制が整って柔道に集中できるのはありがたいことです。

今後、目指すところは?

指導者として学び続けることがまず一番にあり、その先に社会貢献というか、求められることに対して自分がどれだけ尽くせるか、人のために何ができるかを常に模索しています。

東京オリンピックで金メダルというタスクも課せられています。福見さんのパワーの源とは?

柔道が好き、その気持ちに尽きます。私は柔道に育ててもらい、自分が形成されたと思っているので柔道に感謝しているし、恩返しがしたい。そんな気持ちで毎日取り組んでいます。

あなたの“つくばウェイ”とは?

考えることを楽しむ。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

求めれば求めるほど可能性が広がります。大学時代は羽ばたく準備期間ですから、その間に自ら求めて色んな人と交流を持っておくことで、その先の未来が輝くと思います。

今川友子(旧姓:福見)さんが所属する
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プロフィール
福見プロフィール
今川友子(旧姓:福見)(いまがわともこ(ふくみ))
1985年茨城県生まれ。2004年体育専門学群入学、2008年大学院 人間総合科学研究科入学。8歳より柔道を始める。中学3年生で全国中学校大会にて48kg級優勝。土浦日大高校時代には、当時無敗だった谷亮子選手を破り注目を浴びる。2012年ロンドンオリンピックに48kg級日本代表として出場し5位入賞。現役引退後は指導者として経験を積み、現在はJR東日本女子柔道部のコーチ、全日本女子シニア強化コーチとして、また、1児の母として3足の草鞋を穿き、2020年東京オリンピックに向けて選手の育成に従事している。
基本情報
所属:JR東日本女子柔道部
役職:ヘッドコーチ
出生年:1985年
血液型:B型
出身地:茨城県
出身高校:土浦日本大学高等学校
出身大学:筑波大学 体育専門学群
出身大学院:筑波大学 大学院
所属団体、肩書き等
  • 全日本柔道連盟 女子シニア強化コーチ
  • 茨城県体育協会 理事
筑波関連
学部:体育専門学群
研究室:柔道方法論
部活動:柔道部
住んでいた場所:天久保3丁目
行きつけのお店:ふくむら、プリムローズ
プライベート
座右の銘
  • 意志あるところに道がある

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