世界で輝かしく活躍するスポーツ選手の陰には、彼のように自己犠牲をもいとわない選手の存在がある。大学時代、のちにオリンピック出場を果たした先輩との出会いがあり、自身は裏方に徹することに。現在は大学講師として働きながら、柔道の形競技で世界チャンピオンに君臨し、「これまでの経験は全て無駄ではなかった」と正々堂々、陽のあたる場所で柔道界を支えている。
母方の祖父が柔道家だった影響で、9歳の時から自然と柔道を始めました。週に1回、無料で借りられる道場に連れて行かれて、最初は嫌々やっていたんですよ。祖父としては誰かに柔道をやって欲しいという気持ちだったみたいですが、孫7人が誰も柔道をせず、一番末っ子だった僕が最後の頼みの綱といった感じだったのだと思います。
かなり厳しかったですね。一度、早く帰りたいがために道場で泣き出した時に、「やりたくないんだったら帰れ!」と、つき離されたことがあるのですが、子供ながらに「こんな風に物事を諦めたり、人に迷惑をかけたりしちゃいけないんだ」ということを学びましたし、柔道以外でも、祖父の家に遊びに行くと「人の目を見て話を聞きなさい」と常々言われてました。でも実際、一番可愛がってもらったかもしれません。兄弟の中でも僕だけお小遣いをもらえたりしましたから(笑)。
友達に誘われて黒埼柔道連盟という町道場に通うようになると、小学6年生の時には団体戦で初めて全国大会に出場できるほどの実力がつきました。柔道をやっている人なら誰もが憧れる講道館で試合ができた時は感激しましたね。全国大会では良い成績を収めることができませんでしたが、その頃から“勝つ喜び”を知って、中学校に行っても柔道を続けようと思うきっかけになりました。
柔道部の先生の影響で、将来は保健体育の先生になろうと志すようになりました。その先生は毎日日誌をつけていて、例えば「今日の練習では技が冴えていた」「みんな疲れてるようだからリフレッシュしよう」など、ひとりひとりに目を配っていて。僕がキャプテンとして、遊んでばかりの生徒たちを束ねることができなかった時に、「そこにストレスを感じなくていい。自分のことを考えなさい」と言葉をかけてくれました。
そのひと言で肩の荷が下りましたし、先生の指導のおかげで成績が上がっていくと、中学3年生の時には市民大会や県大会で一度も負けずに新潟県の団体戦チャンピオンに。ただ厳しいだけではなく、細かい気配りができる先生に出会えたからこそ、「いつか先生のようになりたい」という気持ちが芽生えました。
高校を選ぶ段階で、東京高等師範学校(筑波大学の前身)出身の祖父の願いと、将来は教員になりたいという僕の希望を満たしてくれるのは筑波大しかないと考えるようになり、早い段階から筑波大への進学を希望していました。ただ、僕の実力でスポーツ推薦が取るのは難しいだろうと自覚していたので、一般入試をする上で、柔道にも勉強にも力を入れている高校どこだろうと考え新潟第一高等学校へ。高校2年の時にはインターハイに出場しましたが、成績は振るわず…。柔道も勉強も、とにかく筑波大への進学のために、と頑張っていました。
これは、ショックでしたね。今でも鮮明に覚えていますが、センター試験の1科目である英語で、なんとマークシートの解答をひとつずつズレていることに提出前に気が付いたんです(笑)。家で自己採点したら200点満点中99点で、「終わったな」と。そして1年間の浪人生活を経て、翌年は万全の態勢で臨みました。
入学式前の新人合宿に参加して2、3日で、「柔道部辞めようかな」と本気で考えたほど練習がしんどくて。初めての一人暮らしで家族も友達も周りにいない寂しさと、浪人中ほとんど柔道をやっていなかったから、余計に練習がしんどく感じられたんですね。早速、新潟の友達に電話して弱音を吐いたら、僕が副キャプテンだった高校時代にキャプテンだった同級生が筑波大の僕の1個上の先輩と仲が良いということで、連絡をしてくれたんです。その次の日から先輩たちとも交流ができるようになり、柔道部のリズムに乗れるようになって、ここで頑張ろうという気持ちを取り戻すことができました。
2年生の時に個人戦で一度インカレに出場しましたが、上位に上がることはできませんでした。ただ、それまでは団体戦でしか全国大会に行った経験がなかったので、個人戦で全国大会に出場したのは、そのインカレが人生最初で最後。良い経験になりました。
僕たちの頃はOBが後輩を指導する形で規律が守られていたことと、先生たちが「常に考えながら柔道をしなさい」というスタンスだったことが、選手に自立を促していたと思います。誰かに依存して、やらされているからやるのではなく、自分から主体的に練習していく中に成長があるのではないでしょうか。
実際、試合で活躍できる人はなかなかいませんが、伸び率でいうと推薦組よりも一般のほうがグッと伸びる人が多いです。筑波大は推薦でトップを見てきた人間と、勉強で頑張ってきた人間が一緒に練習しながら、一般生はもちろん推薦組のことをトップアスリートとして尊敬していますし、推薦組も一般生の頑張りを尊敬している。柔道部に限らず、そういった理想的な環境の中でお互いを高め合っていけるのが筑波大の良さだと思います。
北京オリンピックの73キロ級に出場した金丸雄介先輩(北京オリンピック日本代表、つくばウェイvol.32で紹介)との出会いですね。先輩は僕が1年生になったのと入れ替わりで大学を卒業されたのですが、オリンピックを目指して筑波大の練習に参加されていました。当時から有名な選手でしたから、ある日、道場に現れた先輩を見て「うわ、金丸さんだ!」と思っていたら、先輩から「明日から、お前は俺の打ち込みパートナーだから」といきなり言われて。それから約6年、北京の出場が決まるまで先輩の打ち込みパートナーを務めました。
肩の手術後、まだ万全ではない時にオリンピック最終選考会を迎えたので、結局、同じ筑波大の高松正裕先輩が代表に選ばれました。当時、金丸先輩は25歳で、4年後の北京オリンピックを目指すとなると29歳。もう諦めるのかもしれないと思っていたら、電話で連絡があって「北京を目指すことにした」と。その言葉を聞いた瞬間、「命がけでこの人をオリンピアンにさせよう」と思いました。と同時に、「僕が子供の頃に持っていたオリンピックの夢を、金丸先輩に託そう」と。そして卒業後も金丸先輩の練習に付き添えるよう、大学院に進学することにしました。
印象に残っているのは、笑い話がほとんどですね。4年間、ほぼ全ての国内大会に帯同しましたが、最後の最後である北京オリンピックの選考会で福岡に行った際、試合前日に体調を整えようとホテルに戻った先輩を見送って、僕は仲間と軽く飲むことになったんですね。ところが軽くでは収まらず、「先輩は絶対優勝するから大丈夫!」と安心しきって、手持ちのお金がなくなるまで食べて飲んで。結局、泥酔したままホテルに戻って、目覚まし時計をかけずに寝てしまいました。
翌朝、先輩から「今、どこにいるの?」と電話がかかってきたのは、集合時間の予定だった朝8時。僕は先輩とは別のホテルに泊まっていたので、とっさに嘘をついて「今、車が渋滞しているので、あと10分ぐらいかかりそうです!」と電話を切った瞬間、バーッ!と着替えてタクシーに乗り込みました。そして先輩をピックアップして、試合会場へ。お酒臭くないようにガムも噛んでいたのでバレていないと安心していたら、さあウォーミングアップの打ち込み練習という時に、金丸先輩が「あれ?」という顔をされて…。絶対に怒られると思ったら「お前、どんだけ飲んだの!?」と言いながら、先輩は笑ってくれました。
結果、あの大会で優勝してオリンピックに出場できたから良かったものの、僕自身、なんてふがいないんだろうと思った出来事でしたね。4年前、あんなに気合いを入れて「必ず先輩をオリンピアンにしてみせる!」と言っていたくせに…(笑)。金丸先輩の懐の深さを感じた瞬間でした。
大学院進学を決めたのが試験直前だったので合格できるわけもなく、翌年、再び試験を受けて合格が決まった後、先生に勧められて3か月間ギリシャの武道センターで柔道指導をすることになりました。僕にとっては初めての海外で、たくさんの人生経験ができた実感があったので、北京が終わった翌年、大学院を修了した後にアメリカのナショナルチームが練習している道場へ指導員として行くことに。8人の選手が共同生活をしている一軒家で、僕も一緒に生活をしました。
第一線で活躍する世界の柔道選手と人脈ができましたし、何よりも嬉しかったのは、一緒にトレーニングをしていた選手の中から、ロンドンオリンピックでアメリカ人柔道家初のオリンピック金メダリストが生まれたことです。滞在期間中はわからなかったのですが、そのクラブチームが世界の中でも柔道コーチングに優れているクラブらしく、僕の帰国後、谷本歩実先輩(筑波大卒、アテネ・北京オリンピック金メダリスト)も研修にいかれたと聞きました。
大学院1年生の時に小俣幸嗣教授に勧められて、当時、筑波大学体育センターに勤めていた5歳上の坂本道人先輩と2人1組で形を始めることになりました。最初の成績は茨城県で優勝、関東で2位になりましたが、翌年に坂本先輩が福岡大学に赴任することになり、自然消滅。その後、僕がアメリカから戻ってきて摂南大学に赴任した頃に、小俣先生から「全国枠を作るから、もう一度挑戦してみなさい」と連絡がありました。県の枠を超えて組んでも良い全国枠があるならと、2010年から再スタートし、2011年に初めてアジアで開催された形選手権に出場し、優勝。その後、ドイツで開催された世界柔道形選手権でも優勝しました。
競技を引退して柔道に携わらなくなった人が形競技に戻ってくることで、生涯、精神性を磨ける“生涯柔道”として親しめることが、まずひとつあると思います。そして僕自身の経験でいうと、静まり返った道場で稽古をするうちに、柔道の父と言われる嘉納治五郎先生が考えられていた“精力善用”“自他共栄”とは何なのかを自問自答するようになりました。オリンピックで見るような乱取り柔道では感じられない、技の投げ方や決め方を追求できる可能性も感じています。
金丸先輩から色んなリクエストをされたことで、自分でも“投げられる”ことの訓練を積み重ねた実感がありますし、周囲からも受けるのが上手いと言われていました。ただ、これまでは投げられて終わりだったものが、形なら、投げも受けも両方が良いことで優勝を手にすることができる。目に見える評価をしてもらえたことで、これまで僕が金丸先輩のためにと思いながらやってきたことが、全て報われたような気がしました。
まずは今、指導している摂南大学の柔道部を全国大会常連にすること。そして形競技でいうと、10月にマルタ共和国で開催される大会に全力で取り組みます。全日本柔道連盟の形アスリート委員でもあるので、形の普及と人口を増やしていく取り組みとして、2020年の東京オリンピックの試合の合間に行われるエキシビジョンで、形を披露できるよう働きかけもしていきたい。このような活動を通して、1人でも多くの競技者を柔道界に残すことが僕の生涯の目標です。
自分から主体的に物事に取り組んでいくこと。筑波大の部活動を通して身についたことが、今、社会人になって役立っていることを実感しています。
仲間内で固まってしまうのはしょうがないと思いますが、筑波大にはタレント溢れる人間が揃っているので、もっと広く交流を持って欲しいと思います。
所属: | 摂南大学 学生部 スポーツ振興センター |
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役職: | 専任講師 |
出生年: | 1982年 |
血液型: | AB型 |
出身地: | 新潟県 |
出身高校: | 私立新潟第一高等学校 |
出身大学: | 筑波大学 体育専門学群 |
出身大学院: | 筑波大学大学院 修士課程体育学研究 |
学部: | 体育専門学群 2002年入学 |
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研究室: | 柔道研究室 |
部活動: | 柔道部 |
住んでいた場所: | 春日4丁目 |
趣味: | 旅行 |
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特技: | 受身 |
尊敬する人: | 嘉納治五郎先生 |
好きなマンガ: | 柔道部物語(小林まこと著) |
好きなスポーツ: | 柔道 相撲 サッカー |
訪れた国: | 14ヶ国 |
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