自ら「田舎柔道だった」と振り返る高校時代を経て、数々のオリンピアンを輩出している筑波大柔道部へ入部。ここで1から柔道を磨き直した経験が、後のオリンピック出場へとつながっている。引退後は指導者として世界レベルの選手を指導し、自身も「いつかは世界で柔道を広めたい」と上を向く。昨今、オリンピックの度に“日本柔道と世界のJUDOの違い”がマスメディアに報じられるが、世界を経験した当事者はどんな思いを抱いているのだろうか?
5歳の時、運動音痴だった2歳上の兄に何かスポーツをさせようと、両親が家から通える範囲でスポーツの教室を探したところ、柔道の道場にいきついて。そこに兄が通い始めると、私も一緒に通うようになりました。でも小学生までは、柔道は遊びの延長としか考えていませんでしたね。まさか、ずっと柔道選手をやるなんて思っていなかったから、卒業文集には「お金持ちになりたい」と書いてたんですよ(笑)。
徐々に柔道への意欲が湧いてきたのは、小学校高学年になった頃に、2つ上の道場の先輩方が団体で全国2位になった姿を間近で見たこと。自分の中に“勝ちたい”という欲が湧いてきて、その感情は中学生になった頃にはより一層強くなりました。中学の卒業文集では「柔道のトップ選手になりたい」と書きました。
もちろん柔道に力を入れていましたが、スポーツだけをしていればいいという環境は良くないと考えていたので、入学時に「しっかり勉強をさせて欲しい」と先生方にお願いをして、特別に6限、7限の授業をやっていただいたり、特進クラスに入れてもらったりしました。母親から「柔道だけの人にならないでね」と、よく言われていたことも影響していたかもしれません。私が通った地元の県立高校は、それほど学力レベルは高くありませんでしたが、入学から卒業まで勉強にも熱心に取り組んだ甲斐もあり、学年では上位の成績を維持することができました。
高校2年生の時に団体で全国3位になり、高校3年生ではインターハイでベスト8入り。その後に全日本ジュニアで優勝と、推薦の条件をクリアしていたので筑波大には推薦で進みました。
中学生の頃、「将来は教員になりたい」と進路指導の先生に話したところ、教員育成にも力を入れていて、柔道部がトップレベルでもある筑波大を勧められました。では筑波大に行くにはどうしたらいいかを考えた時に、私の場合、進学校に進んで一般入試で入るよりは、柔道の推薦で筑波大に行く方法が良いだろうと。筑波大に入ることを視野に入れて、柔道に強い高校を選んだという経緯があります。
関東の強豪選手たちと戦う中で「関東にはこんなに強い選手がいるんだ」と面食らいましたね。それまでの競技成績も決して悪くはなかったのですが、私の柔道は田舎柔道というか、洗練されていなくても高校生までは勢いだけで勝ててきたんだと、自分自身の実力を思い知らされました。「このままではいけない」と、1から自分の柔道を作り直すために気が引き締めた記憶があります。
指導者が手取り足取り指導するといったことはなく、自分自身の課題に自分で気付いていかないと強くなれない環境だと思います。まさに“自主自立”。これが筑波大柔道部の特徴ではないでしょうか。何も考えずにただ流されていたのでは成長はなく、私の場合は1年生の夏を過ぎた頃に、ふと「ちゃんと強くなれるだろうか」と振り返る機会を持ったことで「指導者に頼ってばかりではなく、自分でなんとかしなければいけない」と気付くことができました。外から指導されることがあまり好きではない、私の性格に合っていたと思います。
ちょうど了徳寺学園が柔道部を作るタイミングで私の先輩が入ることになり、そのつながりで声をかけて下さいました。武道特待職員という、プロ選手に近い雇用形態でした。そして了徳寺学園に所属しながら2年後には筑波大の大学院に行くことに。教員になりたいとずっと以前から思っていたのですが、大学にいる間に「大学の教員になりたい」という新たな目標を持つようになり、大学で教えるにはもっと専門的に柔道を学ぶ必要があるということで、大学院への進学を決めました。
はい。オリンピックに出たいと思って練習に励んでいました。大学3年の時に開催されたシドニーオリンピックに出られる実力はなかったので、2004年のアテネを見据えて、しっかり計画を練ってやっていこうと。ただ、当時の73㎏級は層が厚く、同じ筑波大の後輩である高松正裕(アテネオリンピック出場)が存在感を示していて、オリンピックの代表になるには厳しい競争を勝ち抜かなければならない状況でした。
アテネを見据えたあの4年間で一番勉強になったのは、ペース配分の大切さです。年々歳を重ねていくことを考えず、闇雲にスタートダッシュしてしまったら途中で息切れしてしまい、オリンピックの年にピークを持ってくることができないと実感しました。結果、アテネは高松に譲ってしまいましたが、あの失敗があったからこそ、また次の北京オリンピックを目指そうと思えたのだと思います。
“1枠だからこそ価値がある”と、柔道家全員が思っていると思います。その階級でたった1人の代表として日の丸を背負い、オリンピック本番で勝つことに価値がある。そのような大きなプレッシャーに打ち勝つことは当然のことだと私は思います。
スポーツにおいて“ゾーン”とか“フロー”といわれる良い状態の時は、集中力が極限に達しているので、あとで試合のことを振り返った時に何も覚えていないと聞きます。でも私の場合は試合のことをよく覚えているので、「冷静過ぎたのかな」「余計なことを考えて試合に臨んでいたのかもしれない」といった反省が、今も心に残っています。
勝とうが負けようが、オリンピックが終わったら現役を引退すると事前に宣言していました。それを耳にした関係者が、今のセカンドキャリアにつないでくれたと思います。現在は、現役の頃からつながりがあった了徳寺大学の准教授、了徳寺学園柔道部副監督として学生に指導しているのと、全日本柔道連盟男子シニアコーチとしても活動し、日本オリンピック委員会強化スタッフの役職もいただいています。
大学院時代、筑波大柔道部のコーチとして後輩の面倒を見るなどしていましたが、現役の時に後輩を指導するのと、指導者として指導するのとでは全然勝手が違っていて。「あれ、どこを見ればいいんだろう?」と、少し考えてしまったこともありました。今は選手を優先させて、どれだけ選手が集中できる環境を作れるかを日々考えながら、選手主体の指導をしています。
ある程度、実力のある選手が頑張れば強化選手にはなれると思います。だけど、そこから日本代表として世界のトップで活躍するには、ある種の“突き抜け感”といったものが必要になるのではないでしょうか。周囲に「この選手は、ぶっ飛んでいる」と思われるほど自分自身を確実に持っていて、それをどこに行っても貫けるような選手が、結果を出していると感じます。
最近の選手は練習もよくするし、指導者の言うことをよく聞く選手が多いです。それはそれで良いんですけど、それでは世界の“突き抜けている選手”と戦えない。だからといって「もっと突き抜けなさい」ということは言葉で説明できるものではないし、選手も言われたからといって、できるものではないですから。なかなか難しいところです。
これは私自身の考えですが、日本の柔道と世界の柔道を分けて考える必要はないと思います。よく、漢字の“柔道”と横文字の“JUDO”は別物だと言う人もいますが、それは勘違いで、柔道ってそんなに狭いものではない。そもそも柔道は柔術から流れてきたもので、いわば“戦いの術”なんですね。だからキレイに技をかけなければいけない、汚い技のかけ方はダメだ、あれは横文字のJUDOだというのは誤った固定観念だと思います。
もちろん武道の精神を尊重し基本技術を大切にすることは重要です。しかし、相手が何らかの技で倒れたら、そこにはそれなりの理合い(理屈)があり、これを研究していくのが柔道だと思っています。漢字だ、横文字だと考えること自体が柔道を狭めてしまうことを思えば、もっと柔軟に、限りなく広く柔道の幅を広げたいと私個人としては思っています。
“がむしゃら”ではないでしょうか(笑)。特に大学に入るまでは田舎柔道で、いわゆるキレイな柔道ではありませんでしたから、勝つために大学1年生の時に基本をやり直したという経緯があります。それで結果がついてくるようになりましたが、だからといって粗削りな田舎柔道や、世界の柔道が柔道ではないとは思いません。
選手にも指導者の道を志して欲しいと思います。私が教えたものを彼らが受け継いで、さらに下の後輩たちに教える。そうして柔道というものが磨かれ、変化しながら未来に続いていって欲しいと思います。
筑波大の先生方ですね。本当にキャラの濃い先生が揃っています(笑)。まず、岡田弘隆先生(バルセロナ五輪銅メダリスト)は寛容で、選手と同じ目線でディスカッションをしてくださいました。他の大学では考えられないことですが、先生と学生が一緒にお酒を飲んで、みんな酔っ払ってくると、岡田先生にああでもない、こうでもないとたてつくこともあったんですよ。そして最後は、「屁理屈を言うんじゃない!」と先生に叱られて終わる(笑)。こういったことは、上下関係がそれほど厳しくない筑波独特だと思います。
小俣幸嗣先生は審判のことについてなど幅広く柔道を知っていて、特に大学院時代にお世話になりました。そして、女子柔道部の監督であり、全日本でも監督をされていた中村良三先生には全日本時代のお話を聞かせていただくなど、先生方との直接の交流が指導者としての私自身を形成していると思います。
やるべきことを、やるべき時に、心を込めてやり続けること。これは柔道だけに限らず、何にでも当てはまる精神修養です。私自身、5歳の頃から柔道し続けたことで、毎日続けることの大変さを知りましたし、毎日続けることで心の強さが身についたと実感しました。その毎日のことに対して、心を込めて、情熱を持ってやることがさらに意味のあることなのだと思いますし、学生にもそう指導しています。
これまでのようにコーチや監督を務めながら、今後は海外で学ぶことも視野に入れています。いつか現場から離れた時に、国際的な場所を舞台にして柔道を広める活動をするには語学力が必要ですし、海外での指導経験も役に立つのではないかと。でもその前に、まずはリオオリンピックですね。私が受け持っている男子81㎏級の永瀬貴規選手(筑波大卒)を勝たせたい。そして筑波大に恩返しができればと思っています。
“自主自立”の精神。指導者任せにしたり、ただ流れに身を任せて4年間を過ごしてしまっていたら成長はなかったと実感しています。
筑波大に入学するということは“伊勢丹の紙袋”をもらったことと同じ。伊勢丹の紙袋を見ると、きっと中に良い物が入っているんだろうと想像しますよね。でも実は、中身は空っぽかもしれないし、紙袋に見合った良いものかもしれない。その中身を何にするかは「自分次第」です。是非とも、素晴らしい中身を自分自身で掴み取ってください。
所属: | 学校法人了徳寺大学 |
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役職: | 教養部 准教授 |
出生年: | 1979年 |
血液型: | O型 |
出身地: | 石川県白山市(旧 鶴来町) |
出身高校: | 石川県立津幡高等学校 |
出身大学: | 筑波大学 |
出身大学院: | 筑波大学大学院 |
学部: | 体育専門学群 1998年入学 / 大学院 2004年入学 |
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研究室: | 柔道方法論 |
部活動: | 柔道部 |
住んでいた場所: | 天久保3丁目 |
行きつけのお店: | じんぱち |
ニックネーム: | きんちゃん |
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趣味: | 飲酒 |
特技: | 議論 |
尊敬する人: | 嘉納治五郎 |
年間読書数: | 20冊程度 |
心に残った本: | 葉隠入門(三島由紀夫) |
心に残った映画: | リトル・ダンサー/ラストサムライ/ショーシャンクの空に |
好きなマンガ: | 柔道部物語(小林まこと)/行け!稲中卓球部(古谷実) |
好きなスポーツ: | スキー |
好きな食べ物: | もつ鍋、生牡蠣、のど黒 |
嫌いな食べ物: | セロリ、パセリ、ラッキョウ |
訪れた国: | 30ヶ国以上 |
大切な習慣: | 早起きして勉強する |
口癖は?: | 絶対に |
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