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世界で通用するクラブチームを作ることが目標

Entrepreneur
2016/11/21
インタビュー
  • 58
FC東京 代表取締役社長
大金 直樹
(体育専門学群 1985年入学)

Jリーグがなかった時代にサッカー少年だった大金氏は、目の前のボールを必死に追いかけながらも、「将来につながらない」と冷静に感じていたという。ところが現在は、FC東京の代表取締役社長。時代が味方した、運が良かったといってしまえば簡単だが、そうだろうか。将来につながらないと知りながら、目の前のことに努力できる姿勢が“今”を形成したと思えてならない。

テレビで見ていた選手たちと筑波大でプレー

現在FC東京の代表を務められていますが、サッカーとの関わりはいつからでしょうか?

小学生の時、地元のサッカー少年団に入団したことがサッカーとの出合いです。特にサッカーに興味があったわけではないのですが、友達がやるからという理由で始めました。その延長で中学でもサッカー部に入りましたが、3年生の時に県大会で優勝したぐらいで、ごくごく普通のサッカー少年だったと思います。

当時、将来をどう思い描いていましたか。

まだJリーグも開幕していませんでしたし、海外のサッカーすらメディアではなかなか見られない時代でしたから、その中でも印象に残っているのは小学生の頃、日立製作所という実業団(現・柏レイソル)の試合を観に行ったことですね。小学生から見ると「実業団の選手のプレーはすごい!」と。目標や憧れの対象になりました。

高校時代は茨城県選抜チームに選ばれ、2年、3年で国体に出場されています。

2年では1回戦で負けましたが、3年で国体3位に。それもあって筑波大の推薦を取ることができました。推薦じゃなければ筑波大には入れなかったと思います。高校は進学校で勉強に力を入れていて、同級生たちは3年の夏前には進学のために部活を辞めていきましたが、私は「一浪してもいい」という気持ちで最後まで部活に取り組んでいました。

茨城県出身ということで、筑波大は身近な存在だったのでしょうか。

日立市出身なので、筑波までは割りと遠くて通える距離でありませんでした。だから身近というよりは、茨城にある国立の大学でサッカーの環境が整っているという印象を持っていたのと、Jリーグがなかった当時は高校サッカーが全盛期だったので、高校時代から活躍している選手たちの、多くが筑波大にいるという印象があって。「トップレベルのところでやってみたい」というのが筑波大を目指した一番の理由でした。

入学した感想は?

当時の日立市はそれほどサッカーが盛んな場所ではなかったので、テレビでしか見たことのない先輩方とピッチに立って練習するのは光栄だったのと同時に、「これがトップの厳しさなんだな」と痛感させられました。とにかく日々の練習を一生懸命頑張るしかない。そんな気持ちで取り組んでいたことを覚えていますね。

影響を受けたチームメイトは?

一学年上に、今ガンバ大阪で監督をやっている長谷川健太さん(つくばウェイvol.19で紹介)がいたり、一学年下には井原正巳と中山雅史がいて。大学時代から日本代表として活躍している素晴らしい選手がすぐ身近にいたことで、挫折に近い経験もしました。

今思えば、彼らはストイックに努力をして明確な目標を持っていたのに対し、私は彼らのように100%が出し切れていなかったなと。もちろん練習は真面目に取り組んでいましたけれど、友達と遊びに行くなど、ごく普通の学生でした。もっと目標を持っていれば選手として成長できたのかもしれないと、今になって振り返ることがあります。

大学4年で関東大学リーグ優勝するなどの成績を収めて、進路についてはどう考えていましたか。

1989年に大学を卒業しましたから、まだ1993年に開幕するJリーグの芽吹きもなく、サッカーを続けても未来がないから、教師になるか銀行マンになるかといった時代でした。

実業団チームもありましたが、実業団は社会人が楽しむスポーツといった雰囲気で、観客も10人ぐらいしかいない茶色の芝のグラウンドで試合をしていたので、先の将来を考えづらいということもあり、大学で現役を終えよう、そんな気持ちでした。

そんな時代だったのですね。

ただ、サッカー界の未来が明るくなってきたなと感じたのもその頃で、同学年の三浦知良選手が高校時代にブラジルに行ったり、奥寺康彦さんがドイツのチームで活躍していたり。彼らの活躍を通して世界に触れることで、サッカーの可能性が少しずつ広がっていくことも感じ始めていました。

ちなみに、サッカー以外で筑波大の思い出はありますか。

勉強の思い出は、これっぽっちもなく……(笑)。とにかくサッカーの練習に明け暮れていました。印象に残っているのは、あの狭いエリアの中に1年生から4年生までがギュッと集まって住んでいて、買い物に行けば誰かしらに会う。近すぎると感じたこともありましたけれど、そこから生まれる団結力の強さは筑波大ならではだな、と。

今振り返って、筑波大に行って良かったと思うことは?

とても濃い4年間でした。挫折、人との出会いなど4年間全ての経験が、今年50歳になる私の礎を築いてくれたと思います。今でも酒を飲みながら腹を割って話せる友達は当時の友達で、1年に1回会わないとなんとなく1年が終わらないとさえ感じます。

そして卒業後は東京ガスに入社。

一般入試で東京ガスを受けました。選手としての契約ではなく、あくまでも企業のサラリーマンとして働きながらサッカー部の活動をするには、東京ガスと思い入社することにしました。

どんな生活サイクルでしたか。

朝8時45分から夕方5時半まで仕事をして、終わってから2時間ほどサッカーの練習。それも最初は楽しみながらやるといった雰囲気だったのですが、関東の社会人リーグの1部だったチームがどんどん強くなり、JFLに昇格すると環境が急変しました。

会社がよりサッカーに力を入れようという方針になり、仕事は午前だけで午後から練習というサイクルになりました。そうしたチームの変化が、東京ガスだけでなく、他の多くの企業もクラブチームを始めた時代でした。

海外で活躍できる選手を輩出したい

そして1993年にJリーグが開幕。

学生時代の先輩や後輩、同級生がJリーグにいきましたが、私は「今からでは遅いだろう」と、プロの世界にいくことは全く考えませんでした。そして、28歳で引退。前十字じん帯のケガをして、年齢的にもこれ以上は無理だろうということで現役を退くことにしました。

その後、サッカーとの関わりは?

サッカーには全く携わらず、東京ガスの社員として営業や企画を一生懸命にやっていたところ、98年に東京ガスのサッカー部が母体となって「FC東京」を設立。99年にJ2参入しました。私が入社した頃は、まさか東京ガスが10年後にJリーグのチームになっているとは想像もできませんでした。

ところが、すぐにはFC東京に出向されていませんね。

ちょうど営業の仕事が充実していて楽しい時期でしたから、サッカーのほうには見向きもせず、Jリーグの試合に訪れたのはほんの数回で、それもプレーをしている友達に会いに行くというぐらいの感覚でした。1996年に引退してから10年ぐらいは、サッカーの空白期間でしたね。

その後、2006年にFC東京に出向されています。

社命を受け、営業の事業部長として法人に対して広告をお願いしたり、チケット販売を促したり。東京ガス時代は土日休みが当たり前のサラリーマンでしたが、FC東京に出向になってからは土日に何かしらの仕事が入ってくるので、大きく生活が変わりました。

特に変化を感じたのは、以前はプレイヤーで、次は選手をサポートするスタッフ……と自分の置かれる環境が変わったことです。おかげでサッカーの見え方が広がりました。しかもJリーグという、いわゆる1つの事業に携わることにやりがいを感じましたし、関係者には現役時代に知り合った人たちがたくさんいたので、そういった人たちと一緒に仕事ができることが楽しくて仕方ありませんでした。

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サッカー関係者には筑波大OBが多いですよね。

Jリーグ18チームに、筑波大OBがいないクラブチームはないと思います。特に監督やコーチ、トレーナーなど指導関係者が多く、FC東京にもOBが相当数います。

今は私が学生時代に感じていたような、サッカーをずっと続けていても未来がないといった時代ではありません。好きなことを学生時代からやり続けて、スポーツ産業の中で自分の生活が成り立つ、そういった環境が整って本当に嬉しく思います。

FC東京に出向後は順調でしたか?

社命で2009年に一度東京ガスに戻ったのですが、チームのJ2降格が決まり、急遽2011年に常務取締役としてFC東京に戻りました。これは青天の霹靂でしたが、選手もクラブも会社全体の雰囲気も暗く沈んでいるところを、なんとか立て直さなければと。必死になって社長補佐として経営に携わり、人材育成、そして地域の人とコミュニケ―ションを図るなど目には見えない業務を担いました。

見事、チームは1年でJ1復帰。2015年からは代表取締役に就任されていますが、経営者としてのこだわりはありますか。

やはり人材育成です。人を作る、育てるのは会社として重要な役割だと考えています。選手やスタッフ一同がそれぞれ自立した人間になるために、「自分で考えて、自分で判断して行動できる人間を育てる」という方針で取り組んでいます。

自立の重要性とは?

例えば、選手がサッカーのピッチに立ったら練習とは違う局面が訪れますから、練習通りにとはいきません。その時に自分自身で判断できる人間になっていないと、成果は出せません。スタッフにしても同じことで、いつも上からの判断に従うのではなく、その場に応じて自分自身で柔軟に判断できる力が、今の時代には求められていると思います。

では、特にやりがいを感じた仕事というと?

昨年、武藤嘉紀がドイツに移籍したことは大きな出来事でした。発足以来、初めてFC東京の選手が海外のチームからオファーを受けて海外移籍をしたことで、そういう選手が育つ環境になったのだと感慨深かったですし、周囲からの信頼や認知が高くなったと感じました。

では、今後のビジョンを教えていただけますか?

2015年の平均入場者数は2万8784人で、クラブ史上最多。J1では浦和レッズに次いで2番目でしたから、ゆくゆくは日本で一番ファンやサポーターが多くなるクラブにしたいですし、実力としてもアジアでチャンピオン、そして最終的には世界で通用するクラブチームを作っていきたいです。

そして、武藤選手のように世界で活躍できる選手をより多くFC東京から輩出すること。そういった成果を出すことによって、東京都民に必要とされるクラブになることを目指したいです。
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あなたの“つくばウェイ”とは?

“絆”ですね。4年間、同じ釜の飯を食った仲間との絆は、卒業した後も長く細くつながっていて、それが人生の宝になっていると思います。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

自分の個性を生かしながら、組織で力が発揮できるのが筑波大。その環境の中で、人を頼りながら色んなことを学んで欲しいですね。

プロフィール
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大金 直樹(おおがねなおき)
1966年生まれ、茨城県出身。茨城県立日立第一高等学校から、筑波大学体育専門学群へ進学。高校時代は国体3位の実績を持つ選手で、筑波大学では、蹴球部に所属。大学4年次には関東学生リーグや総理大臣杯で優勝を経験する。卒業後は、東京ガスへ就職し、一般社員として就業しながらもサッカー部に入部し、選手活動を続ける。前十字靭帯損傷の大怪我の後、現役を引退。引退後はサッカーと関わる機会は少なく、東京ガスの社員として勤めていたが、1999年にFC東京へ出向。FC東京がJ2に降格し、非常に厳しい状況となる2011年より、常務取締役を務め、クラブの経営に携わる。2015年には代表取締役社長に昇進し、経営者として手腕を振るう。現在、東京フットボールクラブ株式会社代表取締役社長、東京都サッカー協会評議委員。
基本情報
所属:FC東京 
役職:代表取締役社長
出生年:1966年
血液型:B型
出身地:茨城県日立市
出身高校:茨城県立日立第一高等学校
出身大学:筑波大学 体育専門学群
所属団体、肩書き等
  • Jリーグ 実行委員
  • Jリーグ メディアプロモーション 取締役
筑波関連
学部:体育専門学群
研究室:スポーツ社会学
部活動:サッカー部
プライベート
趣味:散歩
年間読書数:20冊程度
心に残った本:失敗の本質
好きなスポーツ:サッカー
好きな食べ物:
嫌いな食べ物:ホルモン系
訪れた国:20カ国
大切な習慣:睡眠時間の確保
口癖は?:会って話す
座右の銘
  • 一隅を照らす

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