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黒川様スライダー

生え抜きとして初めてトップに就任

Entrepreneur
2017/06/05
インタビュー
  • 83
日本ユニシス株式会社 相談役
黒川 茂
(東京教育大学 1969年入学)

学園紛争で混沌としていた東京教育大学に入学し、教員を目指すも「私には荷が重い」と日本ユニバック(現・日本ユニシス)に入社。IT、SEといった言葉が世に浸透していなかった70年代から、今に移り変わる激動の時代をシステム開発現場の当事者として生きた。2011年、生え抜きとして初の代表取締役社長に就任。現在は相談役として、リオ五輪金メダリストのタカマツペアが所属する実業団バドミントン部の応援にも力を入れている。

仕事で大事なのは“3つの力”

筑波大の前身となる東京教育大に入学されていますね。

入学する前年の1968年から東大をはじめとする大学で学園紛争が起こり、その影響で私が受験する前年に教育大学は入試を実施しませんでした。
私が通っていた都立国立高校でも学園紛争の余波があって、高校3年では中間試験が行われませんでしたし、学校全体が混沌としていましたね。

大学に進んで数学が学びたかったというのが教育大を目指した志望動機ではありますが、そういった時代の中で、東大よりも教育大のほうが倍率が低かったから受けてみたというのが正直なところです。

どんな大学生活を送りましたか。

入学した年は校内で機動隊を見かけることもありましたが、私は授業に真面目に出て3年次にはほぼ全ての単位を取りましたし、教育実習にも行きました。

部活動は高校時代にやっていたバドミントンを続けたかったのですが、当時の教育大にはバドミントン部も同好会もなく。時々、高校の母校に教えに行く程度に親しんでいましたね。

黒川様1

御社バドミントン部にはリオ五輪金メダリストの高橋礼華さん、松友美佐紀さんが在籍し、過去に筑波大OBの池田信太郎さん(つくばウェイvol.08で紹介)も在籍。ご自身もバドミントン部に所属していたとは、縁を感じますね。
高校時代はどんな選手だったのですか?

当時、バドミントンは今のようにメジャーではなく、私の学校があった西東京三多摩地区で大会が開催されると、参加チームはたったの4校。そこで優勝か準優勝はしていましたし、東京都だと参加校が30校もなかったと思いますから、ベスト8に入っていました。

我々が使っていたラケットは木製で、重さは140グラム。今は80グラムですからシャトルのスピードが倍以上違いますね。

黒川様クレジット1

大学時代、進路についてどう考えていましたか。

教育大理学部の学生の三分の一は先生になり、三分の一は大学院、残りは一般企業に入ります。高校時代は教員になりたいと思っていましたが、教員は人の将来を預かる立場ですから私には荷が重いなと感じましたし、大学院にいくほど数学が好きなわけではなかったので、消去法でサラリーマンに。

今でいうITが世の中を変えていくといわれていた時代に、日本ユニバック(現・日本ユニシス)に入社しました。

入社されてみて、いかがでしたか?

3か月の研修期間を経てお取引先の金融機関に常駐することになり、しばらくはオンラインシステムをオペレーションする仕事をしていました。3年後には自分でシステムを作り出すシステムエンジニアに。今のようにメモリーが何メガなんてない時代ですから、いかにメモリー容量を少なくプログラミングするかといったことが重要でした。

金融機関ですから細心の注意を払っていましたが、それでも当時のシステムだと不具合が起こることもあって、私のチームも数回障害を出してしまったんですよ。今だったらニュースになって大騒ぎだと思いますが(笑)。

入社前に、専門的な知識を持っていたのですか。

大学の時に電子計算機という講座を受けたり、ユニバックの講師が開催した夏季集中講座にも参加しましたが、それは十分なものではなかったですし、入社して3ヶ月の研修期間にも一度もプログラミングをしたことがありませんでした。

それなのに配属された金融機関ではエキスパートとして扱われますから、聞かれた質問に対して、ときには“知っているフリ”をして後で勉強をする(笑)。徹夜で仕事をするのは当たり前でしたね。そうした実践を積み重ねるうちに技術が追いつき、「社会インフラを我々が担っている」という責任感が生まれてきました。

当時、システムエンジニアは社会的にどんな位置付けだったのでしょう?

システムエンジニアという言葉さえ、世の中にそれほど浸透していなかったんじゃないかな。メールも使っていませんでしたし、ワープロもありませんでしたから設計書を書くにも手書きでやっていたんですよ。

仕事でのこだわりとは?

現場と技術とスピード。この“3つの力”が大切だと思ったのは、30年程外回りの現場に身を置き、7回の転勤をして実感したことですね。

まず“現場力”というと、お取引先を含めたステークホルダーと話をしながら臨機応変に対応できる力。そして“技術力”は、ものすごいスピードで進歩するITの流れをキャッチアップしていくこと。そして“スピード”とは、自分たちの領域だけじゃなく、他の領域にも目を向けなければいけない今の時代、または自分たちの領域に他の業種さんが参入してくるような時代に、今まで2年かけて作っていたものを、速い場合は3ヶ月、ウェブなら毎日というスピード感で対応していくことが重要だと思っています。

あら探しが好きな性分が社長業に活きた

2011年、生え抜きとして初となる日本ユニシスの社長に。

生え抜きの私が社長になったことを社員一同が驚いていました。私自身、社長になりたいとの野望を持っていたわけではありませんでしたから、「なぜ私が社長になれたのだろう?」と考えると、それまでのように外から招いた社長にはかなり丁寧に話をしなければいけないところを、ずっと社内を見てきた私のような人間なら話が通じやすい、風通しが良くなるのではと会社が期待をしているのではないかと。

私は長年の経験から、今、どういう状況かということが肌感覚で分かりますから、例えば「この人は何か物事を隠そうとしている」とか「良いことだけを並べているが、これは悪いことを隠そうとしているからだ」といったことが分かるわけですよ。自分がそういったことをした経験があるから。

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すべてお見通しなんですね(笑)。

そうなんです。納品に向けてレビューというものをやると、「ほぼ計画通りです」とか「おおむね順調です」という表現をよく使うことがありますが、「ほぼ」とか「おおむね」といった表現を付ける人間の心理として、実は計画通りにいっていないことがよくあるんですね。実際、そういった私の指摘が的をついていることがありましたし、もともとあら探しをするのが好きな性分が社長として活かされたかもしれません。

社長になって忘れられない経験はありますか?

立場が上にいけばいくほど現場とのギャップが広がっていきますから、それが広がらないように色んな形で若い人たちと接することは心がけていました。特に私が社長になった時は経営状態が思わしくなく、従業員に無理を強いていたので、できるだけギャップが広がらないように意識していましたね。

私の前任の社長がコミュニケーションデーというのを始めて、月に1度、夕方に食堂で飲み食いをしながら社長や役員と会話ができる時間を作ったのですが、そういったイベントにはいまだに参加して現場の若い人たちと話をするよう心がけていますし、バドミントン部の試合にも足を運んで、選手たちともよく話をしていますよ。

企業にチームがあると社員に一体感が出るのでは。

日本ユニバックとバロースが合併した昭和63年、違う会社の人同士が一緒に夢中になれるものをとバドミントン部を作ったのが始まりですが、今はシンボルスポーツとして選手、監督、コーチがとても頑張ってくれて良い成績を収めているので社員一同、一生懸命応援しています。

社員だけではなく、社外の人も参加できる「バドの会」という応援の会には約700名が名を連ねていて、社内でオリンピックのライブビューイングを実施した際には深夜にもかかわらず240名もの社員が参加しました。

オリンピックを現地で観戦されたことは?

池田(信太郎)くんがロンドンオリンピックに出た時は現地に応援に行きました。その時、当社に所属する選手がオリンピックに出たのは4回目で、そして初めてオリンピックで試合に勝ってくれたことが印象に残っていますね。

そして昨年のリオのタカマツペア。金メダルを獲ってくれると、やはり社内は盛り上がります。

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日本ユニシスの風土を教えて下さい。

自由にものが言える雰囲気が充満していますし、そして色んなことにチャレンジすること、失敗してもそれが勉強になるからとにかく挑戦してみようといった風土が代々あると思います。

例えば今の社長が専務時代に、ファッションショーに関連したビジネスを企画しましたが、それほど実績は上がらなかった。それでもその経験を活かして次のビジネスを成功させています。同じく彼は“プリンシパル”という制度を設けて、自分の上司を通さなくても上層部に直接企画を持ってくれば目を通すことを始めました。それで成功した企画はたくさんあるんですよ。

御社で働く筑波大出身者にどんな印象を抱いていますか?

筑波大は素晴らしい人材を育ててくれていると思います。卒業生が当社で立派に働いている背景には文武両道で勉学に励みながらスポーツに勤しむ、そういったところから美しい精神が育まれているのだろうと感じます。

現在、相談役として何か掲げているビジョンはありますか。

今の経営陣がとてもよくやってくれているので特に口出しするつもりはないですが、何かあれば相談には乗る。それぐらいのスタンスで居つつ、あとは国内のバドミントンの応援にできるだけ行くことが目下の楽しみですね。

今年の6月からはバドミントン小学校連盟の会長に就任することも決まり、何かと縁のあるバドミントンにますます熱が入ると思います。

あなたの“つくばウェイ”とは?

文武両道の精神。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

今の世の中、色々な価値観がある中で、多様性のある人材が育つことを期待しています。

プロフィール
黒川様プロフィール
黒川 茂(くろかわしげる)
1951年生まれ、東京都出身。都立国立高等学校を卒業後、東京教育大学理学部に進学。在学中は数学科で学び卒業後は日本ユニバック(現・日本ユニシス)に就職。金融部門のシステムエンジニアとして多くの経験を積む。技術部門の統括責任者なども歴任し、2011年には代表取締役社長に就任。高校時代はバドミントン部に所属していたこともあり、オリンピック選手が多数所属する強豪チームである日本ユニシスバドミントン部の応援にも力を入れる。現在、日本ユニシス株式会社 相談役。
基本情報
所属:日本ユニシス株式会社
役職:相談役
出生年:1951年
血液型:O型
出身地:東京都
出身高校:国立高校
出身大学:東京教育大学理学部
筑波関連
プライベート
ニックネーム:黒爺
趣味:散歩、バドミントンの応援
特技:どこでも寝られること
年間読書数:約20冊
心に残った映画:卒業
好きなスポーツ:バドミントン
好きな食べ物:カレー
嫌いな食べ物:ピータン
訪れた国:5カ国

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