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佐藤様スライダー

徹底的に“配達”を極めて価格以外で戦う

Entrepreneur
2018/05/21
インタビュー
  • 106
株式会社カクヤス 代表取締役社長
佐藤 順一
(第一学群 社会学類 1977年入学)

祖父の代から続く酒販業を「継ぎたくない」と、親元を離れるために筑波大へ進学。大学時代はパワーリフティングに没頭し、優勝を手にした。そんな風に、ただひたすらやりたいことに集中できたのは親のおかげーと、家業を継ぐことを決意。もしも筑波大に行っていなかったら、今ではカクヤスの代名詞である「東京23区どこでも一本から無料配達」というサービスは生まれていなかったかもしれない。

大学時代、親のありがたみを感じて家業を継ぐことに

筑波大を目指した理由を教えて頂けますか。

中学、高校が立教で、そのまま順当にいけば立教大学に進んでいたのでしょうが、中学時代から「家業である酒屋を継げ」と父親に言われていたことへの反発から、「家を出よう」と。そんな理由で大学選びを始めました。

その頃、筑波大は新設校としての魅力があり、私が入学した時に4学年全てが埋まるといった時期でした。筑波は大学以外は何もないような土地で、入学式を野原でやった思い出があります。

なぜ、家業を継ぎたくなかったのでしょう?

親に後を継げと言われることが嫌だったのと、学生時代、夏休みにアルバイトをした時の感触で「これを生業にはしたくない」と思ってしまったんです。

ところが、大学時代の4年間、一言も「継げ」なんて言わず、毎月生活費を仕送りしてくれた親のありがたみに触れて「酒屋も悪くないかもしれない」と思うようになりました。もし筑波大に進まなかったら、ずっと親とうまくいかないまま酒屋を継いでいなかったかもしれません。

筑波大でどんな生活を送っていましたか。

平砂三号棟の寮は1ルームの狭い部屋でしたが、初めての一人暮らしは楽しかったですね。3、4年は天久保2丁目にアパートを借りて、当時は周辺に食べ物屋も何もなかったので自炊もしましたし、仲間と荒川沖のハナマサまで行って1000円で食べ放題も。そんなことが印象に残っています。

部活はされていたのですか?

遊べる場所がないから何か部活をやろうと考えた時、私は161cmと背が低いので、それでも有利なスポーツって何だろうと。そうだ、物を持ち上げるスポーツなら180㎝の人と比べて総運動量が少なく済むから有利だと考えて、ウェイトトレーニングサークルに入りました。

勝ちにこだわる、面白い発想です。

最初はままごと的な同好会でしたが、2年になった頃、日本パワーリフティング協会の理事をやっていた、芳賀脩光先生(元筑波大学名誉教授)が筑波大に来られて「パワーリフティング部を作るぞ」と、私の所属していたトレーニングサークルの顧問になりました。
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すると合宿はやるわ、大きな大会に出るわで30人いたメンバーは半分に。私を含め4人が先生の熱血指導に食らいつき、日曜以外は練習して、心臓を鍛えるためにウェイトのあとはランニングを50分。そうこうしているうちに体ができてくると、面白いように記録が上がっていきました。

成績はいかがでしたか?

4年の秋、関東学生選手権のバンダム級に出場して優勝。4年の秋に試合に出るということは、つまり就職活動をしなかったのですが、その頃には「家業を継ごう」と覚悟を決めていました。

先ほどおっしゃっていた“親のありがたみ”ですね。

はい。大学卒業後、1921年に祖父が店売りの酒販店を開業した、カクヤス本店(現カクヤス)に新入社員として入社しました。

私が入社した頃は父が社長を務めていて、飲食店など業務用販売に転換していましたから、朝5時半に会社に行って、当時はFAXやウェブ注文なんてないですから、留守番電話に吹き込まれている注文を2時間かけて聞き取り、伝票起こし。それが終わる9時頃に出勤してきた社員が伝票をもとに荷物を積み込み、私も一緒にトラックに乗って都内の飲食店に配達をする、そういった毎日でした。

当時、売上高は6~7億円、社員は15名ほどで、父親が経理と営業を担当している規模の会社だったんですよ。

新入社員時代の印象深い思い出はありますか。

当時はお酒がほとんど飲めなかったので、営業活動の一環としてお客さんのお店で飲んでいるにもかかわらずぶっ倒れていました(笑)。

さぞ大変だったでしょうね。

肉体的なしんどさは、そういうものだ、しょうがないと思ってしまえばなんとかなります。一方で精神的につらかったのは、バブル経済が始まった頃。六本木に次々に新規開店するお店をターゲットに2、3年でかなり売り上げを伸ばしたのですが、バブル崩壊と同時に、新規のお店がほとんど潰れてしまって。

お金の回収ができず不良債権がどんどん増えて、営業利益はピーク時の9000万円から1000万円にまで減りました。あの時が一番しんどかったですね。

どう巻き返しを図ったのでしょう?

生き残るにはどうすればいいか考えていた頃、父がフランチャイズ経営をしていたコンビニを閉めたいと言っていて。そのコンビニは人通りが少なく、駐車場もない最悪の立地にありましたが、当時、お酒の安売り店、いわゆるディスカウントショップが売り上げを伸ばしていたことに習って、「我々も彼らのようにお酒の安売りをやろう」と父に提案をしました。

お父様の反応は?

同業者を敵に回すことになるので反対されましたが、半年後、勝手にしろ!と許可を出してくれたと思ったら、その間に父は酒類業界の役員を全部降りていました。役員をやりながら、息子がディスカウントをやるのは良くないだろうと。

良いお話ですね。

ところが、ディスカウントをやるにもお店の立地は最悪ですから、苦労しました。お酒のディスカウントショップといえば、広い駐車場、広い倉庫型の店舗に大量陳列、大量販売というロジックがあったにもかかわらず、うちはコンビニの跡地だから広さは40坪ほど、駐車場もない。

自分がお客さんだったら広い郊外型のお店に行くだろうなと、そんなことを考えながら、ふと思いついたんです。場所が悪くても関係ないのは、お客様のところに直接届けることだと。

現在のサービスにつながる発想が生まれたのですね。

当時、お酒のディスカウントショップにお届けサービスはありませんでした。なぜなら、人件費がかさんで赤字になってしまうからです。それでも宅配をやろう、やるしか生き残る道はないと覚悟を決めて300円の配送料を頂戴し、店舗から1キロを配達エリアにしようとしました。
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ところが1キロだと大きな団地が全部入りきらない。そこで、商圏を1.2キロに設定して団地を全て網羅。それで勝負に出たわけです。

結果はどうだったのでしょう?

想像以上に売れました。ふたを開けてみたら、ライバルは郊外にあるディスカウントショップではなく、お酒を定価で売っている近所の酒屋さんだったからです。たくさんのお客様に足を運んで頂き、なんと95%が来店のお客様だったんですよ。

「何も分からずやってしまったこと」が功を奏した

そして1993年、34歳で社長に就任。

そのうちに、こんなお客様の声が耳に届くようになりました。「配送料が無料だといいのに」。

まずは購入金額1万円以上は送料無料と条件付きにしました。ところが「ビールを2ケース買っても1万円にならないから意味がない」とお客様からご指摘を受け、その半年後には購入金額5千円で送料無料に。すると今度は、「ビール1ケースじゃダメなのか」との声が。その3か月後に3000円以上と、どんどん条件を下げていきました。

お次は、発泡酒が出始めて相場は1ケース2880円。きっと「発泡酒1ケースじゃ配送してくれないのか」と言われるだろうと、完全に送料無料にしました。

現在のスタイルが確立。

店舗を20軒ほどに増やし、あと2年で2000年を迎えようとする頃、カクヤスにとって一番の転機が訪れます。

その転機とは?

まず1つは、酒販免許が2003年に規制緩和されることになり、スーパーやコンビニなどでもお酒が販売できるようになると国が発表したこと。それに加えて、96年をピークにお酒の消費量が下がり始めたことで、「価格以外で戦う方法を考えないと、生き残れない」と危機感を覚えるようになりました。

考えた末に導き出された答えとは?

徹底的に“配達”を磨こうと決めました。商圏である1.2キロ内で、問い合わせから2時間以内でお届けができる、しかも「一本から配達します」「東京23区どこでもお届けします」をキーワードに、お客様目線のサービスを提供することを目指したんです。
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「東京23区どこでも配達」を店舗から商圏1.2キロで計算すると、都内に137店舗、住宅のないところを除くと110店舗が必要でした。目標を2003年に定め、「これから参入してくるコンビニやスーパーに負けてなるものか」と、とにかく必死でした。

そして2003年に100店舗を達成。

そのうち70店舗ぐらいは赤字でしたよ(笑)。融資をしてもらっている銀行から怒られて、「東京23区、全てを埋めないとインフラが完成しない」と熱意を伝えましたが、これ以上の融資はできないと。そうした厳しい状況でしたが、2003年に「東京23区どこでも一本から2時間以内に無料配達」を実現させました。

転機の中にいた2000年に“なんでも酒やカクヤス”に変更した理由とは?

それまでのディスカウントショップでは、価格で勝負していましたから、多少サービスが悪くても、品揃えが悪くてもしょうがないといったところがありましたが、これからは価格だけじゃなく“付加価値”で勝負しようと。お客様の要望や期待に何でも応えたい、そういった気持ちで商売にしようと軌道修正しました。

例えば朝6時にお酒が欲しいと言われたとして、うちは10時開店だからお届けはできませんが、「今は出来ないけれども、その要望にいつか応えられるようになりたいと思っています」という姿勢を社員全員が持ちましょうと、そういった気持ちを“なんでも酒やカクヤス”という名前に込めました。

ブランドカラーであるピンクと酒屋はなかなか結び付きませんが?

バブル絶頂期で就職が売り手市場だった頃、求人広告に300万円のお金をかけても一件も電話が鳴らないことがありました。そんな時に配送車両の入れ替えがあって、それまでは白か紺を使っていたんですけど、「パっと明るくなるような、ピンクとかどう?」と思いつきで言ってみたんです。

配送員の反応はいかがでしたか。

最初はピンクの配送車両なんて誰も乗りたがりませんでしたが、お客様からは好評でした。

そういった戦略は、売り上げを好転させるために即効性があったのでしょうか?

いえ、当初はこのままいったら会社が潰れるというところまで追い詰められていましたから、なかなか数字には結びつかなかったです。

売り上げが好転したきっかけは、営業の若い子の一言です。「業務用は大きな物流センターから配達。店舗からは一般家庭にだけ配達するという仕組みを変えませんか」と。一般家庭のすぐ隣りに飲食店がある場合、きっとお酒が必要だろうから、そこにも営業をしましょうと言うんです。
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それもそうだなと、店舗からも業務用の2時間以内のお届けサービスを始めました。すると、たちまち注文が殺到して2006年には黒字に。

社員の一言がきっかけだったのですね。

あの一言がなかったら会社は潰れていたかもしれません。今は関東・大阪に約170店舗を展開し、「配達エリア内ならどこでも“一本から”“1時間枠で”“無料配送”」を実現。

成功の秘訣とは何でしょう?

今思えば、「何も分からずにやってしまったこと」は成功へのキーポイントかもしれません。

例えばコンビニ跡地にディスカウントショップを開店した際、ライバルは郊外のディスカウントショップではなく近所の酒屋だと分かっていたら配達サービスを始めなかったでしょうし、100店舗の目標を定めた際に、ほぼ赤字になることが事前に予測できていたら、お客様目線の“なんでも酒や”という発想には結びつかなかったでしょう。

今は当たり前にインターネットで物を買う時代になり、無料配送をうたっている企業もあります。ライバルが多いのでは。

昔、物を買うといったらデパートで、次はスーパー、そして今はコンビニ。少しずつ消費者に近づいていて、次の売り場はどこだというと玄関先です。玄関先を売り場として接客をすることがこれからの時代に求められることを考えると、うちは自分たちで物を運んでいることの強みがあります。

なぜなら、ただ物を届ける配達員ではなく、自社の社員が商品を持って伺って、お客様の顔を見ながら新しい商品をお勧めしたり、ちょっとした会話から信頼関係を築くことができる。そういった点が他社とは決定的に違うところです。

なるほど。

実際に、毎日ミネラルウォーターを一本購入なさるおばあちゃんがいて、うちの配達員は毎日一本、無料配達をしています。そういった毎日のコミュニケーションを通して、もしかしたらおばあちゃんの寂しさを埋めてあげられるかもしれないし、ある友人の奥様は、「今日一日で人と話をしたのはカクヤスの配達のお兄ちゃんだけだった」と言っていたと。

そういった点を評価された時、結果として“なんでも酒や”という言葉が会社を引っ張ってくれたような、そんな気持ちがします。

家業を継ぎたくないからと筑波大に進学された経緯からは、考えられない展開が待ち受けていましたね。

社員15人ぐらいの酒屋に嫌々入って、今は4500人の社員・アルバイトを抱えていますからね。自分でもこんなになると思っていませんでしたよ。

お客様から喜ばれると嬉しい、そんな気持ちが原動力ですし、困った時も「そん時はそん時だ!」と乗り切る。それが今につながっています。

筑波大での学びが仕事に活きたと感じることは?

高校まで何の部活もやっていませんでしたから、運動という領域で初めて成果が出せたことは自信になっています。しかも初めての一人暮らしで、あの何もない環境だったからこそ部活に打ち込むしかなかった。それができたのは、筑波大だったからこそだと思います。

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あなたの“つくばウェイ”とは?

座右の銘は「中華料理の円卓」。料理のお皿が円卓に乗せられて、自分は後でいいからと皆に先に料理をとらせたら、結果としてお皿に2人分が余っていて得をするという、そういったことが自分の根源にあります。

つまり、相手に便利なもの、相手が喜ぶことを考えることが先決。大学時代に、決して便利ではない環境の中、歩いて移動している友人を乗せてあげて喜ばれた、そういった経験が私の源になっていると思います。

佐藤 順一さんが所属する
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プロフィール
佐藤様プロフィール
佐藤 順一(さとう じゅんいち)
1959年生まれ、東京都出身。立教高校から筑波大学第一学群社会学類へ入学。在学中はパワーリフティングに打ち込み、関東大学選手権バンタム級で優勝した経験を持つ。大学卒業後、祖父が1921年に創業したカクヤス本店(現カクヤス)に新卒社員として入社。1993年に三代目の社長に就任。事業名を「なんでも酒やカクヤス」に統一し、2002年、商号を株式会社カクヤスに変更。東京都・神奈川県・埼玉県・大阪府に店舗を展開している。現在、株式会社カクヤス代表取締役社長。
基本情報
所属:株式会社カクヤス
役職:代表取締役社長
出生年:1959年
血液型:B型
出身地:東京都北区
出身高校:立教高校
出身大学:筑波大学
所属団体、肩書き等
  • 筑波みらいの会 副会長
筑波関連
学部:第一学群 社会学類
研究室:榎本・小松ゼミ
部活動:パワーリフティングクラブ
住んでいた場所:天久保二丁目
プライベート
ニックネーム:順ちゃん
趣味:ドライブ
尊敬する人:伊藤雅俊
年間読書数:30冊
心に残った本:ヴィジョナリーカンパニー 飛躍の法則
好きなマンガ:あしたのジョー
好きな食べ物:牛たん
訪れた国:20か国程度
大切な習慣:早起き
座右の銘
  • 中華料理の円卓

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