きっかけは、一の矢寮で出会ったサッカー好きな友人。日本では女子がサッカーをやることが珍しかった時代に自ら旗を振り、茨城県初の女子サッカーチームを設立した。留学先のアメリカで女性が生き生きとサッカーをする姿に感銘を受け、帰国後は女子サッカーが市民権を得るべく尽力。女子サッカー界の“パイオニア”として、今も先頭で旗を振り続けている。
幼い頃から漠然と「英語の先生になりたい」という夢を持っていて、外国語が学べる大学に行きたいと思っていました。高校時代に大学進学を考えた際、親に金銭的に迷惑をかけないよう国立大学で、教員免許が取れて、憧れの1人暮らしができる環境はどこだろう?と考えたら、それが筑波大で。
先生になるなら、語学だけでなく心理学を学ぶこともためになるかもしれないとの理由で、人間学類に進むことにしました。
自分のこれまでの競技歴では体専の部活には入れないと思ったので、何か新しいスポーツをしたいなと思っていた時に、一の矢の隣部屋の友達の影響でサッカーに出会って面白そうだなと。ところが筑波大には女子サッカー部がなかったので、まずはサッカー同好会に入りました。
毎年人数が少しずつ増え、大学4年次に女子が11人揃いました。11人全員がサッカー初心者で、しかも体専ではない子たちでした。漫画研究会の子もいたんですよ(笑)。体専の子たちはほとんどがバスケットなり陸上なり、競技を決めて大学に入ってきているので、サッカーチームに勧誘するのが難しかったという背景があります。
正式な部を名乗れなかったので、任意団体の「筑波大学女子サッカークラブ」という名前で活動をスタートしました。筑波大に女子サッカーチームにできたという事で、サッカーマガジンや朝日新聞などに取り上げられ、学校に問い合わせが来て、蹴球部の監督が驚いたという事もありました。
もともと人間学類に入ったのは、交換留学制度があることが大きな理由だったので「英語を習得したい」との夢を叶えるために、アメリカのニューヨーク州立大学に留学しました。
勉強と並行してアメリカでサッカーをプレーしながら感じたことは、国によってサッカーの在り方がここまで違うのだということ。私が大学にいた1980年代、日本ではまだサッカーといえば男子がやるスポーツといった雰囲気がありましたが、アメリカではサッカーはどちらかというと女子のスポーツで、女性も生き生きとサッカーをプレーしていました。
もともと、男性だからこう、女性だからこうしなければいけないという考え方が好きではなく、ジェンダーロール(性役割)について興味があったので、アメリカ留学中に、日米の女子選手の性役割の違いを題材にして卒論を書きました。1年間の留学を終え、サッカーを続けたい気持ちがあったので、筑波大大学院に入りました。
帰国した翌年、1988年に学生主体で大学の全国大会を始めたり、関東の6大学を集めて、関東大学女子サッカーリーグを創設しました。私たちOGも試合に出られるように「大学卒業後2年目までは大学リーグに出てもいい」というルールを作ったので、大学院2年間は勉強もろくにせずにサッカーに明け暮れていましたね(笑)。
その頃、ようやくサッカー経験のある体専の子が1人参加してくれて、今ではほとんどがサッカー経験者の体専の選手になりました。
将来、英語で身を立てようと思ったら少し英語が喋れるだけでは足りない、もう2年アメリカに行って論文を書こうと思いました。運良く、日本語の先生として働きながらアメリカのアラバマ州立オーバーン大学大学院に通える奨学金制度に合格し、2年間でスポーツ心理学の修士を取得しました。
帰国後、“つくばFC”という女子サッカーチームを設立し、選手としてプレーをしながら、筑波大の女子サッカーチームのコーチを担当しました。大学院に通いながら、非常勤で英語の先生や通訳として働き、アクロス海外室では、Jリーグ創設当時だったので、ライセンス契約のために海外の会議に行きました。2002年の日韓ワールドカップでは、鹿島でFIFAの役員の通訳として関わりました。
アメリカから帰って来た後、筑波には私がサッカーを続けられる環境がなく、東京のチームに顔を出していましたが筑波から通うのが大変だったことと、少年団でサッカーをしていた少女達が、中学に行くとサッカーをする場がなくなると聞いて、「じゃあ、クラブチームを筑波に作りましょう」と。
今は筑波大OBの石川慎之助さん(つくばウェイvol.54で紹介)が代表取締役を務め、大きな組織になっていますが、最初に私が作った時はまだ草の根の女子チームでした。
体育会になるために、クラブとして10年間は活動していなければならないなどの実績と書類審査などを経て、私が大学4年次に発足したチームは2005年に大学公認の女子サッカー部に昇格しました。他の大学であれば、もともとあるサッカー部が女子チームを作るのが順当な道筋ですが、筑波大の場合は「学生が自主的に作った」という経緯があったもので(笑)、時間はかかりましたが、なんとかここに行きつけて本当に良かったです。
なでしこリーグという日本のトップリーグに入っている、ジェフユナイテッド市原・千葉レディースの統括責任者兼コーチとして働いています。日本代表選手1人を含むトップ選手30人、その下にジュニアユース・ユースの選手など全部で100人位が在籍し、私の役割は、それぞれのチームのコーチの人事と統括、そして女子のスクールのマネージメント、なでしこリーグの運営や選手の就職のお世話など、仕事内容は多岐に渡ります。
こだわりといいますか、目標としてはサッカーをする女の子をもっと増やすこと、そして女子がサッカーをやることが珍しいと言われないような環境を作っていきたいですね。そのためには女性監督やコーチ、選手たちがお手本になるような存在となり、子供たちに「将来的にサッカーに関わっていきたい」と夢を描いてもらえるような、ロールモデルとなる人材の育成をすることが大事です。
常日頃、子供たちや選手には「“サッカーをやっている子は礼儀正しく、気持ちのいい子が多い”と、周囲に言われるような行動を心がけて欲しい」と話しているんですよ。
あの時、ようやく女子サッカーの存在に気付いてもらえたとは思います。認知度が高まり、市民権を得て、会社で働きながらプレーをしている選手たちがもっとサッカーの練習に費やせる時間が増えてきたことは確かです。ただ、完全に環境が整ったかというと、そうとは言えないかもしれません。実際のところ試合の集客数が十分ではなく、採算がとれていない状況ですので。
スポーツ全般と考えると、スポーツだけでご飯を食べられている人のほうが少ないですから、なかなか難しい課題だと思います。まず目の前の問題として、子供たちが「サッカーがやりたい」と思ったら、すぐに挑戦できる場があるといった環境を整えてあげることが、今、私にできることかなと思います。
筑波大に行ってサッカー好きな友達と出会っていなかったら、ここまでサッカーには携わっていなかったと思うので、大学時代の人との出会いは私に大きな影響を与えていますし、筑波大でやっていた、JリーグJFA寄付講座のS級コーチ養成のお手伝いをして、そこで、トップコーチ達との出会いから得たものは大きかったと思います。
日本サッカー協会の会長である田嶋幸三さんは筑波大出身で、昔からの知り合いですし、女子委員長の今井純子さんも筑波大出身です。そういった意味ではラッキーといいますか、筑波大に行かなかったら私のこの人生はなかったと思います。
なければ作れ! 必ず道は拓けます。
自分が求めていけば色んなことを勉強できたり吸収できる場所。特に体育の世界は“日本のスポーツ界の頭脳”なので、自ら探検していけば素晴らしい筑波生活が送れると思います。
所属: | ジェフユナイテッド株式会社 |
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役職: | レディース マネージャー |
出生年: | 1964年 |
血液型: | A型 |
出身地: | 神奈川県逗子市 |
出身高校: | フェリス女学院高等学校 |
出身大学院: | アメリカオーバーン大学大学院、筑波大学博士課程体育科学研究科 |
学部: | 第二学群人間学類 |
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研究室: | 心理学研究室 |
部活動: | 女子サッカークラブ |
住んでいた場所: | 一ノ矢、天久保3丁目 |
行きつけのお店: | じょんがら、薔薇絵亭 |
ニックネーム: | みーみ、おばば |
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年間読書数: | 10〜20冊 |
心に残った本: | 宮本輝の本 |
好きなスポーツ: | サッカー、テニス |
嫌いな食べ物: | 辛いもの |
訪れた国: | 20カ国以上 |
口癖は?: | まぢ? |
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