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生徒の自主性を尊重し、バスケ部創設2年で全国3位に

Sportsperson
2018/11/05
インタビュー
  • 117
沖縄県立泊高等学校通信制課程 教諭(保健体育科)
朝妻 友洋
(体育専門学群 2006年入学)

兄の背中を追ってバスケットを始め、筑波大バスケ部に入部。他者に負けないようにと、歯を食いしばりながら練習に励んだ4年間を送った。現在は定通制の教員として、創部二年の男子バスケ部を指導する。様々な事情で心に傷を負った生徒も多い中、生徒の自主性に委ねることで沖縄県定通制高校として初の全国大会3位に輝いた。指導者としての心構えを聞く。

バスケ部での4年間は、悔しい思いばかり

まずは、教員を目指したきっかけを教えて下さい。

父は特別支援学校の美術の教員、母は中学の美術の教員でしたので、幼い頃から「将来、教員になりたい」と頭の片隅で考えていました。

ご両親とも美術の教員にもかかわらず、朝妻さんは保健体育の教員ですね。

それ、よく言われるんですけど、小学生の時に美術の才能がないことに気付いて諦めたんです(笑)。

そうでしたか。では、なぜ保健体育の教員に?

保健体育の教員になった背景には、小学校4年でバスケットボールクラブに入るなど体を動かすことが好きだったことが1つと、高校が進学校で3年間はずっと勉強ばかりで、バスケ部の活動があまりできず。不完全燃焼で高校生活を終えてしまったので、今の高校生たちには自分と同じ思いをさせたくないと思ったことがきっかけです。

部活にも勉強にも熱中できる環境を作ってあげて、卒業する時に「この学校で良かった」と、そんな思いで卒業して欲しいから教員になったと言っても過言ではないですし、バスケットを指導したいという気持ちで保健体育の教員になることにしました。
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バスケットボールクラブに入ったきっかけは?

3歳違いの兄がバスケットボールクラブに所属をして、練習や試合を見に行くうちに興味を持ちました。そのクラブは4年生からしか入れなかったので、そのタイミングで入部。漫画『スラムダンク』が流行っていた時期だったので、漫画からも大きな影響を受けましたね。

でも、その時は仲間が集まってバスケットを楽しむ程度で、本気でバスケットの練習を始めたのは中学に入ってからです。

中学でどんな変化があったのですか?

心から尊敬できる監督との出会いがあり、厳しい練習に耐えながらも楽しくプレーするという姿勢を学びました。この監督のおかげで、今でもバスケットを続けているのだと思います。

中学3年で進路を決める際には、県内で1位、2位を争うバスケットの強豪校への進学を希望していたのですが、「学力はあるんだから、大学進学のことを考えて向陽高校にいってはどうか」と先生からアドバイスを受け、悩んだ挙句、進学校である向陽高校に進学することにしました。

大学進学を見据えて、高校に進学。筑波大との出合いはどのようにして訪れたのでしょうか。

筑波大の存在を知ったのは、バスケットを通してでした。高校バスケのインターハイやウィンターカップをテレビで観て、瀬戸山京介さん(つくばウェイvol.43で紹介)というすごい選手が活躍している姿を目にして、筑波大に興味を持つようになったんです。

それと同時に、「体育の教員を目指したい」という具体的な目標を持つようになり、それなら体育で一番優秀な国立大学にいこうと。色々調べて筑波大に絞ったのですが、最初の年は受験もできないぐらい学力が足りず、一浪して合格しました。
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筑波大はどんな印象でしたか?

受験で初めて大学に行きましたが、最初の印象は、「とにかく広い!」。その広大な敷地内に色んな施設が整っているので、改めて「ここに入りたい!」と強く思いました。

すぐにバスケ部に入部されたのですよね?

はい。受験の時に入部希望って丸をしたら、入学式前の春休みの時点でバスケ部マネージャーからメールが来て、驚いた記憶がありますね。

早速見学に行ってみたら、練習していたAチームの選手は背がすごく高いし、プレーもすごい上手い。4月に練習が始まってBチームに合流してからも「高校と大学ではここまで違うのか」と衝撃を受けました。

ただ、絶対に負けたくないという強い気持ちを持ったのもこの時で、「この中で生き残っていくには」と考えて、もともと長距離を走るのが得意だったので、とにかく速攻で走るとか、シュートなら誰にも負けないように頑張ろうとか。監督に評価してもらえるよう、必死にその2点に取り組みました。

努力は報われたのでしょうか?

今振り返ると、悔しい思いばかりしていた4年間でしたね。1、2年次では「この先輩に勝って試合に出てやろう」と目標を立て、学年が上がると次は「この後輩に負けないように」と。チーム自体は強くて、僕が3年次の時に二部から一部に上がりましたが、僕自身は卒業するまでずっとBチームでした

将来については、どう考えていましたか。

最終目標が教員というのは変わらずでしたが、先輩方や友達の話を聞いていたら、「一度社会人の経験をしてからのほうが、教壇に立った時や部活指導において説得力が増す」と。それは一理あるなと思って就職活動をしようと思ったのですが、ちょうどリーマンショックで就職氷河期だったので、思うようにいかず。

4年次での教育実習が想像以上に楽しかったということもあり、そのまま教員の道を進むことにしました。

親の次に、生徒と多くの時間を過ごす高校教諭としての使命感

最初の勤務地は愛媛県ですね。

故郷の沖縄に帰ろうと思っていたのですが、沖縄で保健体育の教員の補充はなかなか見つからないので、ご縁のあった愛媛で申請を出してみたところ、特別支援学校の非常勤のお仕事で声がかかりました。

幼い頃からの夢だった教員の道を歩き始め、バスケットも続けられたそうですね。

はい。同じ学校に勤めていた先生に誘われて、愛媛教員クラブというチームに2年間所属しました。すると、そのチームがたまたま四国で一番強いチームで、地域では実業団の四国電力にも勝つような実力があり、オールジャパンに出場すると大学生相手にも勝つようなチームでした。

大学時代、僕らの代は4年間で一度しかオールジャパンに出場したことがなく、しかも僕はBチームだったのでベンチにも入れませんでした。愛媛教員クラブではプレイヤーとして試合に出させてもらって、ようやく筑波大での努力が実ったと感じましたね。

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充実されていたようですが、2年で沖縄に帰られていますね

沖縄に戻ることを家族と約束していたので、その2年間も沖縄の採用試験を受けていましたが、うまくいかず。沖縄で採用されたいのなら、情報がすぐに入ってくる沖縄にいないとダメだと思って、まずは沖縄に戻ることにしたんです。すると、戻ったその年に採用試験に合格しました。

初任校で男子バスケ部の顧問を担当。3年後に現在の勤め先である定通制の泊高等学校へ。

当初は女子バスケ部しかなかったので、バスケット経験者に声をかけたり、体育の授業で身体能力の高い子たちに声をかけて、男子バスケ部を立ち上げました。

そういった寄せ集めのメンバーで、昨年、沖縄県定通制夏季大会に出場。指導・練習不足ですぐに負けてしまいましたが、二度目の出場となった今年、同大会で優勝し、全国大会で3位の成績を収めました。県内の大会で泊高校通信制課程が優勝したのは18年ぶり、全国大会で3位という成績は、沖縄県定通制バスケ界において史上初だそうです。

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それほど短期間で成果を出せるとは、かなりの練習量だったのでは?

生徒は週1回のスクーリングなので、練習は週1回。それと、県大会の前に2回練習試合をする中で調整をしたぐらいです。よく優勝できたな、と。今年のメンバーは、もともと能力の高い子たちがいたのもあったかな、と。全国大会に向けては、県大会終了後、3回程度ですね。全国大会の二回戦では14、15点からのビハインドを残り2分30秒から巻き返し、1点差で勝つという、まるで漫画のような展開で勝利したんですよ。

それは監督の指導の賜物では?

いえ、生徒たちが試合ごとにどんどん成長して勝ち進んでくれたので、僕は彼らの士気が下がらないよう盛り上げる役割に徹しただけ。どちらかというと、生徒が僕を3位まで連れていってくれたという感覚ですね。

3位になった直後には、生徒たちから「全国のレベルが分かったから、来年は優勝しよう」と、そう言ってくれて嬉しかったです。

チームビルディングにおいて、どんなことを意識しましたか?

ああしろ、こうしろとはあまり言わないこと、できるだけやりたいようにさせることを心がけています。なぜなら、生徒たちに楽しんでプレーしてもらうのが一番大事だからです。
前任校(全日制)では、「スタメンは誰と誰、今日の試合はこういう作戦でいくからな」と選手に指示することが多かったのですが、今は「今日のスタート誰にする? ディフェンスはゾーンにする? マンツーにする?」と生徒たちに投げかけて、生徒たち主体で判断し自由にプレーをさせるようにしています。その中で、改善する点があれば少しアドバイスをする程度です。
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全日制と定通制の両方を経験され、指導をする上で何か違いはありますか?

沖縄の定通制の子供たちは一度、全日制の学校を何らかの理由で辞めた子が多いです。友人関係であったり、引きこもりであったり、成績が悪くて進級できなかった子もいます。何かしら心にダメージを受けてここにきている生徒が多いので、部活でいうと、指導者として頭ごなしの指導をするのではなく、友達のような感覚でできるだけフランクに接することを心がけています。

そして、卒業後も趣味程度でいいのでバスケを続けてくれるように、とにかく「この学校でバスケをやって良かった」と思えるような雰囲気を作るように心がけています。

心に傷を負っていた子供たちが、今は楽しそうにプレーをしている。そのスイッチを入れたんですね。

彼らは全日制では全く経験できなかったことを、ここで経験していますから、県大会にしろ、全国大会にしろ、ワクワク感はすごく大きかったと思います。それが勝ちへとつながるエネルギーになったのかもしれません。自分やバスケットへの自信につながったと思います。

教員として、どんな時にやりがいを感じますか?

生徒が成長していく姿に間近で接した時に、やりがいを感じます。前任校で3年間学年を持ち上がりで見たときは「10代で、人はこんな風に成長していくんだ」と。教員としての醍醐味を感じました。
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高校教諭ならではの面白さはありますか。

生徒が高校時代に関わる大人は、一番はもちろん親ですけど、次は教員だと思うんです。親の次に多くの時間を過ごす教員の役割はとても重要ですし、それがクラスだけじゃなく部活も一緒に過ごしているとしたら、責任は重大。

言葉かけ1つで子供たちが変わる姿を何度も見てきましたから、プレッシャーもありますが、使命感を持って今の仕事に取り組んでいます。

あなたの“つくばウェイ”とは?

“何事にもチャレンジすること”。日本全国からの学生だけでなく、海外からも色んな学生が集まる筑波大で多くの刺激を受け、自分のやりたい事に挑戦する――そんな姿勢を学びました。

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

部活内だけの交友関係にとどまらず、色んな人と接して価値観を広げて欲しいです。

プロフィール
プロフィール
朝妻 友洋(あさつま ともひろ)
1986年沖縄県八重瀬町生まれ。2004年沖縄県立向陽高等学校卒業、1年の浪人を経て。2006年筑波大学体育専門学群入学。幼少期よりスポーツに親しみ、兄の影響でバスケットボールを始める。両親が教員であったこと、高校時代のバスケットボールに対する不完全燃焼がきっかけで筑波大学を目指す。現在、県立高校の保健体育教員として勤務。赴任先の定通制高校で男子バスケットボール部を創部し、創部から2年で県内初の全国大会3位へと導く。子どもたちの躍動の裏には目の前の子どもたちの心を慮った指導がある。
基本情報
所属:沖縄県立泊高等学校通信制課程
役職:教諭(保健体育科)
出生年:1986年
血液型:O型
出身地:沖縄県八重瀬町
出身高校:沖縄県立向陽高等学校
出身大学:筑波大学
筑波関連
学部:体育専門学群
研究室:特殊体育学研究室
部活動:男子バスケットボール部
住んでいた場所:春日三丁目
プライベート
ニックネーム:つま
尊敬する人:両親
年間読書数:10~20冊
心に残った映画:コーチカーター
好きなマンガ:スラムダンク
好きなスポーツ:スポーツ全般
好きな食べ物:カレーライス
嫌いな食べ物:漬物
訪れた国:1ヶ国
大切な習慣:体重測定
口癖は?:まず、やってみてから考えよう

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