大学と大学院で5年間、箱根駅伝出場を目指し、自分自身が選手でありながらも、新人のスカウトから資金集めまで全てを率先して行ってきた。何度頭を下げ、何度涙を流しただろうと想像する。その経験が彼の血となり肉となり、“ある伝説”を作った会社員時代、そして現在、起業家として生きる彼の信念を揺るぎないものにしている。
札幌南高校という進学校だったのですが、大学に行く意味がよく分からなくて、実は進学する気がありませんでした。ところが陸上部の長距離選手として、インターハイにいけるレベルだったにもかかわらず、3年で地区予選で「3着までに入れば予選通過だから、3着でいこう」と力を抜いて余力をもって走っていたら、後ろから他の選手がきていたのに気付かなくてゴール直前で抜かされて4着になってしまって。
全然、脚が軽いんですよ。「あぁ、この日のためにやってきた努力が全部無駄になってしまった・・・」と涙がでました。この悔しさを生涯背負って生きるのは嫌だと思って、大学でも陸上を続けることにしたんです。本気で大学に行こうと思ったのはこの時が初めてです。
長距離をやるなら箱根駅伝に出場したいと思いました。そのためには関東の大学に行く必要があります。しかし、ものすごく才能があるわけじゃないから強豪校では潰れてしまうかもしれない。だからと言って弱小大学に行っても意味がない。
色々と自分の特性を考えると、高校時代から「どうすれば速く走れるようになるのか」とスポーツ生理学や栄養学といったスポーツ科学にはすごく興味があったので、学んだことを自分自身に試せる環境が良いんじゃないかということで、筑波大学の体育を進路に選びました。
筑波大学は1994年の箱根駅伝70回大会に出場したのが最後で、僕が入部したのはその5年後なので箱根からは遠ざかっていました。自分が中心メンバーになってチームの実力を上げて、箱根に出ればと思っていたのですが、入学後にそれはすごく甘い考えだったことに気付かされました。
正直、すごく弱くて箱根駅伝は夢のまた夢という状態でした。スポーツ推薦の選手が1人もいませんでしたし、他の強豪校が100名近く部員がいるのに対して、20名程度しかいませんでした。
まずは選手を集めなければ箱根駅伝への道は無いと思い、大学1年時に選手を勧誘するための「人事部」なるものを立ち上げ、選手勧誘を始めました。月刊陸上競技や陸上マガジンという陸上雑誌の巻末に載っている競技成績を毎月見て、全国各地の進学高にいる強い選手を見つけては、陸上部の先生宛に手紙を送ってました。少しでも筑波大に興味を持っている学生がいれば、地区大会のインターハイに会いに行きました。しかし、一学生の僕らに入学させる権限などありません。できることと言ったら大学の情報を提供したり、受験のことをアドバイスするぐらいです。それでも熱く箱根駅伝への夢を語って受験をしてもらいました。毎年10名程受験してくれても、実際に受かるのは1人か2人といったところでした。
僕は強い選手じゃなかったんですね。成績もチームで中の中くらい。それでも「箱根駅伝に出るためには誰よりも練習しなくちゃいけない」と頑張っていました。つい練習しすぎて怪我をしたり、貧血をしたりして、結果は散々です。
でも、僕に限らずみんな箱根駅伝は本気で出たかったんです。選手に「箱根駅伝に出たいですか?」と質問すれば全員が「はい」と即答したはずです。でも、今思うと「箱根駅伝に出られると思いますか?」という質問だったら、言葉と気持ちは違うものになっていたように思います。つまり、「箱根駅伝に出たい」という願望はあっても「箱根駅伝に出られる」というセルフイメージがない。だから、どこかで箱根駅伝に出るための姿勢が足りない。それが私生活や練習の甘さに出る。なので、本当にやらなきゃいけないことは「箱根駅伝に出れる」という信念をつくることでした。
はい。学生なのでインカレもありますし、箱根駅伝以外の大会もあるので、「箱根が全てじゃない」という考えは間違っていません。しかし、当時の僕にとっては箱根が全てで真剣過ぎて、大学3年の時には「箱根が全てだとは思わない」と言ったコーチに「だったらコーチを辞めて下さい」と言って、実際に辞めさせてしまったことがあります(笑)。
その後は、OBに相談をして、マラソン金メダリストの高橋尚子さんを育てた小出義雄監督の下でコーチをしていたこともある筑波大OBの大胡満慎さんにお願いして、週末だけコーチとして来ていただけることになりました。
箱根駅伝は参加上限が4回と決まっていました。大学1年から3年間、予選突破することはできずとも4枚の挑戦切符の内3枚を使っていました。本来4年生が最後の1回なのですが、「今年、予選を突破するのは難しいかもしれないが、来年ならきっと今年よりも強いチームで勝負できるはず」という考えが頭をよぎりました。
そして、みんなを集めて相談しました。「今年(本来であれば最後の1年)は4年生の主力は予選会に出ず、みんなで大学院に進むなりして、俺ともう1年やって、来年勝負しないか」と。もはや、お願いでした。
僕を含めて最上級生3人が「絶対に箱根に出てやる」という気持ちで大学院に進学したわけです。その空気が後輩たちに伝わっていったのを感じます。「もしかしたら来年出られるんじゃないか」という雰囲気に変わっていきました。そして、今まででは考えられなかったような激しい練習をできるようになるまで日々の取り組みが変わっていきました。
お金はなかったですが、筑波大OBから寄付金を集めたり、筑波大OBがいる実業団に頼み込んで合宿に参加させてもらったりしたんですよ。
日本のトップランナーと一緒に練習することで、参加した学生の意識が変わっていき、それがチーム全体へと広がっていきました。結果、チームの平均タイムが伸びていきましたし、そんな僕たちに注目してくれた日本テレビが「筑波大が10年ぶりに箱根に出るかもしれない。しかも大学院生3人が引っ張っている」と、春から頻繁に取材に来てくれるようになりました。こうなると「本当に出られるんじゃないか」と機運も高まっていきましたね。
客観的に見て5分5分かなという感じだったのですが、「絶対にいける」という覚悟をもって勝負に挑みました。僕もチームを引っ張る立場になっていたのですが、結果レース中に僕が肉離れをしてしまって……。結果は15位、予選通過の9位に届かず惨敗しました。みんな焦る気持ちだったので練習量をしっかり落としきれず、疲労が抜けきれないまま予選会に行ってしまって、ピーキングに失敗したという状況でした。
傍から見れば、たかだか学生のアマチュアスポーツなんですけどね。学生時代は遊びにも行かず、毎日自炊をして、夜10時には寝て6時には起きるストイックな生活を送って練習に打ち込んでいました。「必ず箱根にいける」と信じて、色んな人を巻き込みました。それでも、箱根に出れば全てが報われると信じていましたから、予選会の後は「どれだけ努力してもダメなものはダメなんだ」と、みじめな気持ちになりました。
母親が北海道から応援しに予選会に来てくれていたのですが、帰り際に一言「才能のある子に産んであげられなくてごめんね」と声をかけられました。今思えば、その一言の背景にどんな思いがあったのか推測しますけど、当時はそれを聞いた時に「本当にそうだな」と思ってしまったほどです。
他の大学の選手たちのように練習だけに打ち込めば良いのではなく、選手勧誘を自分たちでやって、OBからの資金集めもし、色んな人に頭を下げて、できる努力は全てしたという自負がありました。少なくてもこの会場にいる誰よりもやったんじゃないかと思いました。でも、自分には才能も運もなかったんだと。
燃え尽き症候群というか、うつ病のようになってしまいました。毎日50km近く走っていた自分が、たった500m先の学校に行けない。何とか学校に行っても起きていられないんです。だから先生や先輩に怒られる。そして、どんどん自己嫌悪になっていく。しんどい時期でした。まぁ、今振り返れば、あの時期があって本当に良かったと思っていますけど。
人生最大の挫折をした時に「成瀬らしくない」、「お前なら、絶対大丈夫」と周りの人に励ましてもらいました。最初は素直に受け取れなかったのですが、言いつづけてもらうことで、少しずつそう思えるようになっていって、これまで読んでこなかった新聞や本を読むようになり、社会で活躍している人たちに対して「僕もこういう人になりたい」と憧れを抱くようになっていきました。絶望しかなかった自分の未来にワクワクし、「もう一度、挑戦できる」と希望を持った時からまた人生が動き出しました。
司馬遼太郎の『竜馬がいく』ですね。身分の低い侍である竜馬が「日本を良くするんだ!」と脱藩し、吉田松陰や勝海舟といった人物と関わりながら日本をかき回していく姿を見て、「竜馬のような志士になろう」と思いました。単純ですね。とにかく気持ちが前向きになるにつれ、箱根に出られなかったという出来事の意味合いが変わってきたんです。
それまでは2003年10月13日の箱根駅伝予選会は“人生最大の挫折”だと思っていました。でも、もしかしたら神様が「お前は箱根駅伝で終わる人間じゃないから、箱根には出さない」とチャンスを与えてくれたのだとしたら「箱根駅伝よりもっと大きいことを成し遂げる」ための飛躍のきっかけだったのだと前向きに考えられるようになりました。そして、竜馬を見習って「脱藩だ!」と大学院を辞めることにしました。
そして勝海舟に会いに行くんだという勢いで、孫正義さんに会いに行きました。講演会に足を運び、講演終了後にバーッと駆け寄って名刺を渡して「孫さんを超えます!」と言ったんです。孫さんは笑って「頑張れ」と言ってくれましたが、その後、スタッフに取り押さえられました(笑)。
箱根を目指してやってきた努力に比べれば、怖いものは何もないです。当時、自分に言い聞かせていたのは「初めの1回は怒られるまでOKルール」。「講演後に名刺を渡していいですか?」と事前に確認をしたら、絶対にダメだと言われてしまいますから、人に迷惑をかけない範囲で突撃して、やれば成功か、うまくいかなくても成長かネタにはなります(笑)。
僕たちの思いを後輩たちが引き継いでくれているのは嬉しいですね。こないだ監督の弘山勉さん(筑波大卒、1986年箱根駅伝に出場)と話しましたが、人生を賭けて箱根を目指す弘山さんの覚悟が感じられました。クラウドファンディングでお金を募っていた時、僕たちの代がたくさん募金していたというのを聞いて、「やっぱり一番箱根に出たかった代なんだな」と思いました。後輩を応援する立場として、もう一度箱根を目指そうぜと皆と話しています。
個人向けの営業、法人営業、学生向けの教育事業と企業の採用支援という新規事業の立ち上げもしました。新卒一期生として期待してもらっていたので、色々とやりました。そのの中でも一番と言うと採用責任者になった時のことですかね。
「世の中で誰もやっていない世の中を変える採用って何だろう」と考えて、2007年当時はまだ広告が主流だった頃に、口コミで人を集める方法を打ち出しました。
広告にお金をかけないアイデアとして、口コミを起こすことを第一に考えました。学生にとって成長や楽しみや出会いがある有益なプログラムを作ろうと、“THE・サバイバル”という野外宿泊体験のインターンシッププログラム を企画しました。
その参加者を選ぶための選考会として、映像と音楽で会議室をまるで無人島にいるかのように演出し、皆で協力し脱出するというプログラムを作りました。グループ同志で競わせながら課題を解決させていく中で、リーダーとしてあるべき姿をフィードバックしていきます。そして、同時に自社に向いている学生を選考していきました。このインターンシップが学生に大ウケでした。どんどん評判が広がりました。
知り合った学生に「20人以上を集めてもらえれば、僕が出向いてセミナーをするよ」と声をかけ、9ヶ月で153回もセミナーや講演したこともあります。気がつけば、広告費をかけずに8,000名の学生がエントリーしてくれるようになっていました。
箱根駅伝を目指して目標達成に対してがむしゃらに取り組んだ経験は全ていきました。狙い通り口コミで学生がたくさん集まり、朝日新聞に掲載された入社したい企業ランキングでは25位にランクインしました。社員100名未満の会社で100位以内に入ったのはアチーブメントだけでした。
一気に注目が集まってテレビや人事系の雑誌から取材を受けるようになり、さらに知名度が上がったことで新規の企業からコンサルティングを任せていただけるようになりました。
30歳の頃、ドラマ『龍馬伝』を見て「大学院時代に目指した竜馬のように、僕はなれているだろうか」と自問自答しました。「一度の人生だから、もっと挑戦しよう」と31歳で独立することを決意しました。どんな会社にしようかと思った時に思い出されたのは、会社員時代に日本の名だたる企業のコンサルをしてきた中で、新入社員は熱い志を持っているのに、幹部からは何も熱いものが伝わってこなかったという違和感でした。
これまでの時代であれば、管理された組織の中で意思を持たなくても指示命令に対して着実に実行できることが正しかったのかもしれませんが、これからの時代にそれでは闘えないと考えています。ですからウィルフォワードは社員1人1人の意思を持つことを義務付けました。その意志を尊重するために世間一般のルールを取っ払いました。だから就業規則を作らず、出社義務もなく、給料を自分で決めるスタイルにしたんです。
会社員時代に培った採用領域やマーケティング領域でファン作りをすること、口コミを起こすことは得意でした。クリエイターとして「想いを形にするクリエイティブ」に取り組みたいという仲間との出会いがあったので、映像やウェブやイベントを通して、言葉になっていない、形になっていない想いを目に見える伝えられる形にしていくというクリエイティブ事業に取り組んでいます。
僕はコンサルタントというよりは、プロデューサーなんです。才能と志を世の中の機会に対して何を生み出すか、つまりウィルフォワードの志ある仲間の才能を世の中に価値として生み出すことばかり考えています。
元マラソン日本代表の加納由理さんをタレントとして、元劇団四季主演俳優の佐藤政樹さんを研修講師として育成しています。企業研修や地域活性の仕事などが入ってきたいます。また、筑波大陸上部の同級生は採用のプロゆえにその経験を活かして“採用研究所”なるものを立ち上げて色んな企業のデータを集めたり、採用の情報を発信したりしています。他にも色々と・・・。
人生の貴重な時間を使うのであれば、社員であろうがなかろうが大好きな人と働きたい。だからお客様でも友人でも、「夢に向かって進む人の生き方を応援したい」という気持ちが強いんです。短期的に見れば売り上げに直結しなくても、長いスパンで見れば、人との関係性が築けてさえいれば会社は安定しますから。
有り難いことに今全てをお受け出来ないほどのお仕事をご紹介でいただいています。営業活動はゼロですし、ウィルフォワードのWebサイトを見ても何をやっているかわからない状態でも口コミでたくさんの出会いをいただいています。
その他にも地域創生の取り組みとして、旅館の再生やマラソン大会の企画などの話もあります。ただ、どれをとっても売り上げがどうこうというところにベクトルは向いていなくて、ウィルフォワードの“働き方”を世の中に伝えることで、「世界を一つの家族にする」という会社のモットーを少しでも実現することが目標ですね。
例えばオフィスを一軒家にしたのは、キッチンでランチを作って皆で食べたり、お客様に手料理をふるまったり。子供をオフィスに連れて来られるようにして、昔の日本に見られた「泥臭い付き合いをしたい」という理由からでした。結果的に外食代や交際費が抑えられ、保育所に預ける必要がないなど非常に合理的なことが分かりました。
だからと言って古いやり方に固執するのではなく、チャットやアプリといったICTのリテラシーが高くあるべきだと考えています。新しくて便利なものを取り入れた上で、昔の日本のような密接なつながりが築ける仕事環境、それがウィルフォワードが提案していきたいことであり、「世界を一つの家族にする」ための一歩だと考えています。
成し遂げたい目標に向かって、あらゆる方法を模索し、仲間を巻き込んで達成すること。結果が出なかったとしても、努力の過程こそが財産になったと感じています。
僕はもう一度学生をやり直すとしても、箱根駅伝に挑戦すると思います。結果出られなかったとしても、挑戦した日々こそが今の僕を作っているからです。だから、せっかくの大学生活、内にこもるのではなく、とにかくアクティブに行動して欲しい。部活でも学問でも恋愛でも「やってみよう!」と思うことがあるなら、何でもやってみましょう!
所属: | 株式会社ウィルフォワード |
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役職: | 代表取締役 |
出生年: | 1980年 |
血液型: | A型 |
出身地: | 北海道札幌市 |
出身高校: | 札幌南高校 |
出身大学: | 筑波大学体育専門学群 |
学部: | 体育専門学群 1999年入学 |
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研究室: | 運動栄養生化学研究室 |
部活動: | 陸上競技部 |
住んでいた場所: | 千現2丁目(大学4年時まで)、千現一丁目(大学院1年時)、天久保三丁目(大学院2年時) |
ニックネーム: | なるちゃん |
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趣味: | ランニング |
特技: | アドリブ、無茶ぶり、サバイバル、土壇場、本番、大舞台 |
尊敬する人: | 三谷幸喜 |
年間読書数: | 約20冊 |
心に残った本: | 風が強く吹いている、スラムダンク勝利学、成功者の告白 |
心に残った映画: | ライフイズビューティフル、パッチアダムス |
好きなマンガ: | スラムダンク、サンクチュアリ |
好きなスポーツ: | 駅伝、マラソン、ボルダリング、自然と対話するスポーツ(スキー、クライミングなど) |
好きな食べ物: | ラーメン、寿司、とんかつ |
訪れた国: | 9か国 |
大切な習慣: | 器のでかい寛容な男でいること(感情を理性でコントロール) |
口癖は?: | 天才 |
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