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体専から医師へ。リハ医として、患者さんの社会復帰へのサポートを担う。

Professional
2021/05/03
インタビュー
  • 161
いちはら病院
遠藤 歩
(体育専門学群・1997年入学)

高校時代、自転車競技の日本代表としてジュニア世界選手権に出場。さらに競技力を向上させるため、筑波大学体育専門学群に進学した。アジア大会2大会連続メダル獲得など輝かしい成績を収めるが、オリンピック出場の夢は叶わず25歳で引退。そこからの全く違う世界へ転身、幼心に抱いていた「医師になる」という夢を叶えて、現在はリハビリテーション科の医師に。一体どのような道のりを歩いて、今に行き着いたのだろうか。

実家は自転車屋。3歳から補助なし自転車に乗ってました

今のお仕事について教えて下さい。

2017年からこの3月までは牛久愛和総合病院リハビリテーション科で働いていましたが、4月にいちはら病院へ移り、回復期リハビリテーション病棟に勤務しています。

前の病院は急性期病棟約450床のうち200名ぐらいがリハビリをやっていました。脳外科、整形外科、内科、外科など様々な科からの依頼を受け、患者さんにどんなリハビリをするかを見極めてセラピストに振り分けたり、リスク管理をしたりする役割を担っていました。

そもそも、なぜ医師を志したのですか?

親は医師ではないのですが、親の友人に人間的魅力のあるドクターが何人かいたことが影響しているのと、漫画『ブラック・ジャック』を読んで、かっこいいなと。外科への憧れが芽生えました。中学の学業成績も良かったので、親からも「医師になったら?」と勧められていました。

そのまま医師への道をまっしぐらですか?

いえ。幼い頃から肩が強く、中学時代にスポーツテストのハンドボール投げで満点を取っていました。そこで、高校ではやり投げに挑戦してみようと、進学校でありながら陸上が強い高校を選びました。県の学年別陸上競技大会のやり投げで優勝しましたが、なんだかしっくりこないと思っていた高校2年の時に自転車競技に出会い、転向しました。

どんな出合いだったのでしょう?

実家が二輪車店だったので、もともと自転車は身近だったんです。3歳の頃、自らの意思で補助なし自転車に乗るようになり、家族でサイクリング大会に出場するなどしていました。父の影響で小学1年生から5年生まではモトクロスレースにも参戦していて、二輪車の操作とスピード感覚が自然に身についていました。

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そんな趣味の延長で筑波サーキットの4時間耐久レースに出た際、ペアを組んだ子が高校の部活でがっつりと自転車競技に取り組んでいるだけあってすごく強くて。スピード感と華やかさに憧れて、転向することにしたんです。

宇都宮競輪場に足を運び、競輪選手を指導している師匠の弟子にしてもらって、競輪選手と一緒に練習をしていました。

成績は?

高校3年の時、代表選考大会を日本ジュニア記録で優勝し、スロベニアで開催されたジュニア世界選手権に出場。それが初めての海外でした。自転車競技の盛んなヨーロッパでレースを経験したことがきっかけで「この道で生きていこう!」と、さらに強くなるために筑波大の体育専門学群に進みました。
大学時代は1998年アジア大会で銅メダルを獲得し、卒後の2002年大会では銀メダルを二つ獲得しました。

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大学時代で印象に残っている出来事は?

テレビで見たことがあるような各競技の日本一の選手たちが全国各地から筑波大に集合していて、私は田舎育ちのマイナー競技者だけどいいのかな?と感じていましたが、誰でも受け入れてくれる雰囲気に器の大きさを感じました。
いつも仲間と一緒に居られる部員数の多い種目の子たちを羨ましく思っていましたが、一匹狼なりにいろんな種目の同期と個の繋がりができました。
一人暮らしで何をするにも自由であった半面、“その責任は自分で取る”という厳しい側面もあり、やらなければただ落ちていく、そんな背筋の凍るような環境に常に身を置いていたと思います。

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自転車部に所属していたのですか。

体育会の部活はなかったので、全学のサイクリング部競技班に所属していました。入部当初、体専は私だけでした。

インカレ三冠を達成しています。

自転車は競技人口が少ないので、インカレ三冠や何連覇というのは日本代表であればまあ当然という感じです。体専の後輩には、リオオリンピックのロードレースで日本人過去最高位になり、現在ヨーロッパでプロ選手として活躍している與那嶺恵理さんや、2020年トラック世界選手権で優勝した院生の梶原悠未さんがいて、二人とも東京オリンピック代表に決まっていますが、彼女らと私とではプロ意識も競技レベルも全く違う。私自身、自転車で成功したとは思ってないんです。

そういった認識なんですね。

はい。オリンピックには出られませんでしたし、自転車ではうまくいかなかったです。でも9年間続けた競技をすっぱりと辞め、次の人生、セカンドキャリアを歩み始めることができたのもその時の挫折があったからだと思います。

なぜ辞めようと?

当時25歳、アテネオリンピックの選考会となった全日本選手権を最後に引退しましたが、その前から気持ちが切れてしまって。38歳ぐらいまで競技を続けたいと思ったこともありましたが、人間関係などに悩み、体力的にというより精神的に参っていたんです。

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そんな時に家族が「あなたの人生は自転車だけじゃないと思うよ。一度きりの人生、本当にやりたいことをやったほうがいいんじゃない」と後押ししてくれて。医学部学士編入の存在も私の海外遠征中に親がたまたま見つけてくれたので、引退してすぐに医学部を目指すべく予備校に入りました。

学士編入とは?

大学卒業資格のある人が受けられる試験です。医学科の定員約100名のうち5~10名ぐらいの枠を設けている大学が多く、社会人経験のある人や他の学部を卒業したばかりだけどやっぱり医師になりたいという人などがこの試験を受けています。

ストレートで山口大学に入学。

学士編入の学科試験科目は数学、化学、物理、生物、英語が必須の大学もある中、私が合格した山口大学の学科試験は生命科学と英語だけでした。以前から好きな科目でしたし、二次試験の面接やプレゼンは二日間かけて実施するなど人物重視と思えた点から、ここだ!と狙いを定めて半年間予備校に通い、半年間自主学習をして受験しました。1日6〜8時間トレーニングに費やしていたエネルギーと集中力をすべて勉強に注ぎ込みました。勉強はどんなにやっても心拍数が最大まで上がることはありませんし、脚に乳酸が溜まるわけでもないので、競技ほど苦しい思いをしなくて済んだのが本当に助かりました。

「リハは何やってるかよくわからない」と言っていた先輩医師と、心が通じ合った

大学卒業後は、筑波大学附属病院で初期研修医として勤務されています。

研修医として自己紹介をする際、「体専出身です」というと、先生方に「おぉ!」と二度見されました(笑)。体専から医学部に行く人はあまり多くはないですから、自分のことを覚えてもらえるアドバンテージになりましたね。

体専出身の私にも皆さん仲間意識を持って接してくれて、和気あいあいとした雰囲気でした。

なぜリハ医になろうと?

最初は脳外科に入局したんです。小さい頃から手先が器用で細かい作業が好きだったのと、学生時代の解剖実習で身体の司令塔となる脳という臓器に惹かれて。

ところが入局と結婚のタイミングが重なり、医療職ではない夫と生活の時間がすれ違うようになりました。これで大丈夫だろうかと悩んでいた時に、当時の脳外科の教授が私のバックグラウンドをご存じで「スポーツ経験を活かして、リハビリはどうだ」と勧めて下さって。その時に初めてリハ医という存在を知り、その道に進むことにしました。

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これまで印象に残っている出来事は?

不慮の事故で利き腕切断となられた若い患者さんの元へ清水如代先生(つくばウェイvol.159で紹介。筑波大学医学医療系リハビリテーション科准教授)と初診に伺った際、清水先生が「義手を作りましょう!」「義手でできないことはなにもありません!」と、よどみなくおっしゃって。その瞬間、まるで一本の光が差し込んだかのように患者さんの表情が明るくなるのを目の当たりにしました。その方はのちに義手を使って書道を始めたり、アンプティサッカーのキーパーになったりと次のやりがいを見つけたんですね。

医師があやふやに言ってしまうと患者さんは不安になってしまいますが、清水先生の経験と知識に裏打ちされた、その物言いや態度を見て、「これがリハ医のやるべきことなんだ」と強く印象に残りました。

リハ医は他の科の医師とは違いますか?

他の診療科は診断から治療までを主に担いますが、リハ科は急性期治療が終わった後、その人をできる限り元の生活に戻すためのサポート、社会につなげていく部分に主な役割があると思います。

それが他の科と大きく違う点なのですね。

はい。以前、臨床でバリバリ働いていたある先生が、「医師は何人の命を救ったかが全て。リハは何をやっているかよくわからない」と思われていたようですが、重い病気に罹ってしまい、治療法がなかなかないという最中、ある日突然廊下で呼び止められました。「遠藤先生、俺もリハビリできるかな?」とおっしゃるんです。すぐに「できます!やりましょう!」とお答えして、先生のニーズを伺って、セラピストと共に知恵を絞りながらリハビリに取り組みました。

そしてしばらく経った頃、その先生が「やっとわかったよ。リハビリが唯一の希望だよ」と言って下さって…。失われていく能力がある中で、その辛さを一緒に分かち合い、できる限り気持ちに寄り添えたことで、リハビリの時間を楽しみにしてくれたのが嬉しかったですし、心が通い合った感じがしました。

機能回復という目標を達成するかしないかではなく、目標に向かう、その過程がリハビリの意義なのかもしれません。

そうですね。リハビリの成果が出にくい病気もあるので、医師として「ずっとそばにいますよ」という姿勢を患者さんに見せることが大事なのだと思います。時には、「このリハビリをやりましょう」と言葉をかけるだけでなく、ただ顔を見に行くであるとか、患者さんが疾患や障害を受容していく過程に必要な時間を待つことも大事だと思いますし、そうやって信頼関係を築くことで「この先生に自分の身を預けても大丈夫だ」と思ってもらう。それが何よりも重要だと感じています。信頼関係が生まれると、リハビリに積極的に取り組んでもらえることにもつながります。

今後の目標を教えて下さい。

リハ医としてさらに経験を積み、世の中の流れに柔軟に適応しながら地域貢献ができればと思っています。また、スポーツドクターとして選手のサポートもしていきたいです。
一方で現在、7歳、5歳、1歳の3児の母でもあるので、子育ても医師の仕事と同等に大事な仕事と思って全力で取り組んでいます。上野千鶴子さんの言葉をお借りすると、親が子供の「翼を折らないように」、子供たちにのびのびと羽ばたいていってもらう環境作りができればと常々考えています。

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それと、私は選手を引退した後のセカンドキャリアで幸運にもやりたい仕事に就けて子供にも恵まれましたが、もし38歳まで選手を続けていたら、こういった経験が得られなかったかもしれない。そう考えると、若い選手たちに引退後のビジョンを描くことの大切さを伝えていければとも思っています。

スポーツ選手のセカンドキャリアはピンキリ。結果論でうまくいってる人、選手時代の知名度を食いつぶしながらやっている人など色んなパターンがあります。

日本では、幼少の頃からスポーツしか知らないで育つ人も多いので、他の可能性もある、むしろ引退後の人生の方が長いし、そのキャリア形成は現役選手のうちに意識する必要があるということを早くから学べる機会があるといいですね。将来像を描きながら競技をする、有限の時間だと分かって競技に取り組んでいく方が100%以上の力を出せるのではないかと、私は思います。

あなたの“つくばウェイ”とは?

内から湧き起こる思いを、自由に羽ばたかせてくれるところ

現役大学生や筑波大を目指す人に一言!

今この瞬間しかない若さを存分に謳歌して下さい!
私は学生時代、どこか自分の殻にこもっていた部分があり、思い切り遊ばなかったことを今頃になってもったいなかったと思っています(笑)

プロフィール
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遠藤 歩(えんどう あゆむ)
体育専門学群出身の医師。という異色の経歴の持ち主。筑波大学卒業後、9年間続けた自転車競技選手を引退し、山口大学医学部医学科へ入学。 国家試験を経て医師となり、学生時代を過ごした筑波へ。現在はいちはら病院回復期リハビリテーション病棟に勤務。三児の母でもある。 元アスリートとして、母として、様々な立場の患者の気持ちに寄り添う医師として、日々奔走している。
基本情報
所属:いちはら病院
出生年:1978年
血液型:O型
出身地:栃木県益子町
出身高校:栃木県立真岡女子高等学校
出身大学:筑波大学体育専門学群、山口大学医学部医学科
所属団体、肩書き等
  • Team Bridgestone Cycling チームドクター
筑波関連
学部:体育専門学群
研究室:体力学研究室
部活動:サイクリング部競技班
住んでいた場所:春日4丁目
プライベート
ニックネーム:あゆむ、えんちゃん
趣味:温泉、旅行
尊敬する人:忍耐強い人、器の大きい人
年間読書数:10冊くらい
心に残った本:城砦(A.J.クローニン著)
心に残った映画:Life is Beautiful、Leon、Petit Nicolas
好きなマンガ:ブラック・ジャック
好きなスポーツ:ドッジボール
好きな食べ物:素材の良いもの
嫌いな食べ物:ねぎ、玉ねぎ
訪れた国:25か国

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