大学時代に政治家を志し、卒業後は教員、海外留学、ベンチャー企業勤務を経て、20代で独立起業。スポーツ、医療、介護、福祉、教育の分野で事業を展開する。2012年に維新政治塾1期生として学び、2019年に衆議院議員選挙に初当選。議員歴2年半で日本維新の会の幹事長に抜擢され、これまでの古い政治の常識を覆そうと「政党を経営する」というコンセプトを打ち出した。漠然とした不安が蔓延し、長期停滞する日本をどう変えていくのか。筑波大卒業生では数少ない国会議員が語るつくばへの想いとは。
地元である大阪12区(寝屋川市、大東市、四條畷市)選出の衆議院議員として活動しています。所属する日本維新の会では幹事長という党の運営の大半を取り仕切るお役目をいただいています。
政党の幹事長という仕事は、トップである党首の方針や党で決めた戦略やビジョンを実現するために、党組織を具体的に動かしていくポジションです。民間企業でいえば、党首がCEO(最高経営責任者)であるとするならば、幹事長はCOO(最高執行責任者)と例えることができます。
永田町の常識は世間の非常識とよく言われますが、私もそう思います。私は民間企業経営者から政治の世界に飛び込んだ人間ですから、できるだけ民間感覚や庶民感覚を大切にし、「経営感覚」を持って政治の政界を変えていきたいと思っています。
ちなみに、現在、参議院議員には筑波大卒業生が数名いますが、衆議院議員は私1人だけのようです。筑波大は、教職や民間企業へと進路を選ばれる方は多数いらっしゃいますが、政治家になる方は珍しいのかもしれませんね。
永田町やメディアからは、私のような2期生が議員歴たった2年半で幹事長になったことに驚かれ、「常識外れの人事をして早晩失敗するだろう」という声が多かったと聞きます。たしかに、政治の世界での圧倒的な経験不足は認めざるを得ませんでした。それでも当初の不安が徐々に払拭されていったのは、人事でせっかく大きなチャレンジをしたのだから、後輩をみんなで盛り立ててやろうという先輩方の支えがあったおかげでした。
実は維新の会には、少し前にもう1つ大きな出来事があって、40代の吉村さんが松井さんの後の大阪維新の会代表になり、幹事長が私と同年代の横山英幸さん(現大阪市長)になり、一気に若返りを図っていました。
経験豊富なベテランの先輩方がたくさんいる中で、若手が前に出て舵取りを担う。その中で先輩方は後輩を潰さずイジメず、上手く引き上げようとサポートする風土が維新の会にあるのだと思います。私のような政治経験の浅い者が舵取り役として活動できるのは、そうした風通しの良さがしっかり息づいているからです。
幹事長になってすぐ、私は当時の松井代表と馬場共同代表に、党の「中期経営計画」を作りたいと提案しました。賛否両論あるのは承知の上で、あえて「経営」という言葉を使いました。「政党を経営する」というテーマを政界に持ち込んで、政党の風土にしようという意図がありました。
現在の日本維新の会は、松井代表の勇退を受けて馬場代表体制に引き継がれ、いわば第2創業のような時期にあります。これまで、橋下さんのカリスマ性と松井さんの親分的なまとめる力に頼りきってきたのは間違いない事実であり、それを慕って多くの仲間が集まって結束してきました。幹事長についても、初代は松井さん、そして2代目は馬場さんと、政治歴が長く、地方議員としても活躍され、大阪の自民党内でもエース格として注目されてこられた、政界の酸いも甘いも知っている2人が私の先代だったわけです。私のような政治経験が浅く、歳も若い人間がそんな2人と同じように振る舞ったところで、先輩方や仲間たちの胸に響くだろうか……と思案しました。
考えているうちに、経験が乏しいのなら、政治の世界に染まっていないことを長所にしようという発想にたどりつきました。これまでの政治の常識にとらわれることなく、自分の得意分野で勝負しよう。自分は民間経験が長く、経営実務にどっぷり浸かって苦労してきたキャリアがある。民間感覚の問題意識を正面からぶつけて党の運営に生かしてみよう──そう割り切ったのです。「逆転の発想」というと聞こえはいいですが、苦肉の策に近い部分がありました。
そこで、成長する会社ではどこも当たり前のように存在する「中期経営計画」を作り、それに基づいて皆の心を合わせて一歩一歩成長していくということを政党がやってみたらどうかと考えました。政党が中期経営計画を公式に発表したのは、戦後初めてのことだと思います。
「中期経営計画」では目標を明確に示しました。一つ目は、2022年参議院選挙で改選議席を倍増させること。これはギリギリ達成しました。二つ目に、今年2023年4月に実施された統一地方選挙で、全国の首長・地方議員数を、当初の400名程度から600名以上の1.5倍に増やそうという目標。これも有権者の皆さんのご期待を受けて、目標を大幅に超えて800名弱という議席をお預かりし、倍増することができました。
そして、次なる3つ目の目標は、来るべき衆議院選挙で野党第一党を獲得し、自民党に真正面から退治できるもう一つの受け皿として全国政党へ飛躍することです。
今の日本を会社に例えると、大企業病にかかっているような状態です。
人口減少で国内のマーケットが縮小している中で、世界の変化は恐ろしく速く進んでいます。デジタル敗戦が典型ですが、昭和の終わりに基盤が完成したビジネスモデルでは成り立たなくなっています。それでも過去の成功体験やしがらみにとらわれて、有能な若手がいても思うように活躍させてもらえない。我が国の政治構造もまた同じような状態に陥ってきました。
戦後の日本政治は、自民党政治の歴史と言っても過言ではありません。確かに自民党には多くの功績があり、素晴らしい人材を輩出してきたことは事実です。しかし、長らく権力を掌握してきた自民党政権は、その権力構造を構築する過程において、既得権で得をしている人たちの声ばかりに耳を傾けるようになり、しがらみから抜け出せない惰性の政治に陥っています。言ってみれば、「現世利益型」かつ「現状維持・微修正型」の政治なのです。国民に負担を押し付ける税制、既得権化してもやめられない補助金、時代の変化に取り残された古臭い規制など、既得権ばかりを守ろうとするインセンティブが政界の隅から隅まで張り巡らされ、未来志向で合理的な改革を阻み、本来大切にすべき民間感覚や経営感覚を失ってきました。
私たち維新の会は、自民党とは全く違う発想を持つ政党です。このままでは日本全体が衰退してしまうのではないかという強い危機意識を持ち、だからこそ、その根本的問題として横たわる政治構造自体を変えなければならない。経営に例えるならば、マーケットそのものが潰れてしまうのではないかという危機意識の中で、5年で上場し、10年でマーケットシェアをすべて塗り替え、イノベーションによってビジネスモデル自体を大転換しようという発想のベンチャー企業のような存在です。
世界に目を転じれば、政界では30代、40代のリーダーが躍動し、民間にはチャレンジする若い才能が溢れ、常にイノベーションを狙い、まったく新しいビジネスモデルを生み出しています。政治も行政もそれに対応した法律や政策がどんどん作られ、時代に合わなくなった規制はスピーディに撤廃・改革されます。2023年に入り、対話型AIのめざましい進化が脚光を浴び、私たちの働き方、ライフスタイルが遠くない将来大きく変わる可能性が現実になってきました。社会はどんどんイノベーションしていく中で、前例踏襲、先送りの政治がつづけば日本は世界から取り残され、先進国から転落してしまいます。
日本という「会社」を立て直すためには、この構造的な病を断ち切る覚悟がいるのです。改革を本気でやる、決断力のある政治家、政党が今こそ求められていると思っています。
政治はプロの政治家や初めから政治に近い業界に生きてきた人たちだけのものではありません。多種多様な人材が民間感覚を持って新規参入し、新陳代謝を起こしていくべきです。私たちとともに硬直した古い政治を変えたいと思う方がいれば、地方議員や国会議員を目指して、是非とも維新の会の門を叩いて欲しいと思っています。
私がラグビーと出会ったのは大阪府立四條畷高校に入った時です。かつては花園(全国大会)に9度も出場し、1948年には準優勝したこともある、歴史と伝統のあるラグビー部でした。入学前はラグビーのことにくわしくなかったのですが、中学時代のバスケ部の先輩がラグビー部員で、「練習を見に来い」と誘われたのがきっかけでした。体力に自信のあった私ですが、最初は猛練習についていくのがやっと。特に、数人でパスを回しながらひたすらダッシュをする「ランパス」は本当にしんどかったです。ラグビーというと肉弾戦のイメージを持たれがちですが(もちろん実際にそうなのですが)、戦術などで非常に頭を使うスポーツだと気づいてから、ますます面白く感じました。
目標は高く花園を目指していましたが、残念ながら大阪府予選で2年時にベスト4、3年時はベスト8止まり。うちの高校から花園ラグビー場まで車で30分ほどの距離でしたが、あこがれの舞台は残念ながら近くて遠いままの存在でした。
ラグビー部の顧問の先生が筑波大学のラグビー部出身であり、非常にお世話になったことから、自分も「筑波大学でラグビーをしてみたい」と思うようになりました。3年間、ラグビー主体の高校生活でしたので学力が足りず、1年間浪人してしまいましたが、なんとか志望どおりに合格することができました。
筑波のラグビー部といえば「国立大学最強」と言われるように、高校でトップクラスだった選手が何人もいて大変レベルの高いところでした。花園未経験で浪人して入ってきた私が試合に出るには何倍も努力をしなければなりませんでした。
必死の努力のかいあって4年生の時にレギュラーの座を……と言いたかったところですが、現実はそんなに甘くはありませんでした。夏合宿中に足首の靱帯を3本切って全治6か月の大怪我をしてしまい、大事なラストシーズンを棒に振りました。松葉杖をつき、心身ともに挫折感でいっぱいになりながら、グラウンドの外から仲間たちの練習を眺めた時の光景は今でも忘れることができません。しかし、それでも心がチームから離れることなく、最後の最後までがんばることができました。それは、チームにおいて「主務」という重要な役割を担わせていただいていたからです。
主務とは、チームの運営を裏方として取り仕切るマネージャーです。表のリーダーが主将(キャプテン)だとしたら、裏のリーダーが主務だとも言われます。筑波大ラグビー部の主務は、最終学年時に同級生が話し合って誰にするか決めるのが毎年の慣わしでした。なんとかレギュラーになりたいと思っていた私は、主務を引き受けると練習以外の雑務が増えて足枷になると思い、何度も断り続けました。しかし、主将と副将になる同級生から「藤田、お前以上に上手く主務としてチームを取り仕切れる奴はいない」と熱心に説得され、渋々引き受けました。しかしこれが転機になりました。
主務の仕事は多岐にわたります。チーム全体のスケジュール管理、対外試合の調整、グラウンドや用具の確保や管理、予算作成や収支管理、大学本部やラグビー協会との連絡、地域のボランティア活動、OB会との連携、トラブルシューティングやメディア対応など、運営上のすべてのオペレーションを管轄する立場です。はじめは自分にできるのかと不安もありましたが、引き受けたからには徹底的にやってやろうという覚悟でチームに尽くしました。
主務となった1年間、ほぼ毎日のように監督の部屋に行き、運営面での打ち合わせをしていたことを思い出します。当時の監督は中川昭先生(元筑波大学教授、現京都先端大学特任教授)という、私と同じ大阪出身の大先輩でした。
ある時、中川先生がこんなことをおっしゃったことを覚えています。「筑波のラグビーは、日本のラグビーのために王道をいかなあかん。結果も大事だが、その過程が大事なんや」と。教員養成機関としての使命を持った東京高等師範学校、東京教育大学を前身とする筑波大学の卒業生は、今でも教員として学校現場を進路に選ぶ人が多い。もし、目先の試合に勝つためだけに、基礎や王道からかけ離れたトリッキーな戦術ばかりにこだわっていたら、大学を卒業して全国各地で指導者となった時に、次の世代を担うラグビー選手にまで影響してしまうんだと。短期的な目線だけでなく、大局から長期的な目線を持つことの大切さ、そしてなにより基礎を大事にして「王道をいけ」という教えは、今でも私の価値観の軸となっています。
筑波大ラグビー部は、早稲田、慶應、明治、帝京などの強豪がひしめく「関東大学対抗戦Aグループ」に所属していて、私が学生時代には、リーグ内で5~6位争いをしていました。5位までが全国大会である大学選手権に出場でき、6位なら出られない。そんな中で始まった序盤戦、4~6位を争うライバルチームに2連敗して絶望的な状況となり、チームの雰囲気は最悪になりました。しかし、主将や副将をはじめとする4年生が結束し、チーム全体を鼓舞し続けることでスイッチが入ったチームはシーズン中に急成長、30年以上ぶりに優勝候補の明治と慶應の両校を撃破。早稲田には負けましたが、最終順位は3位となり、前評判を大きく覆す好成績をあげることができました。
私は怪我で出場すらできませんでしたが、皆の努力とチームの結束が身を結んだ結果でした。一度や二度の敗戦くらいで諦めることなく、不撓不屈の精神で取り組む姿勢の大切さ。何よりチームが結束することの強さを学びました。
4年間のラグビー部生活を終え、卒業直前の納会(送別会)では、最後に卒業生が一言ずつ挨拶し、感謝の言葉を述べます。「自分は結構努力したつもりだったけど、レギュラーにはなれなかった。努力しても叶わないこともあるんだな」という気持ちで同級生の挨拶をしみじみ聞きはじめました。
私の同級生はみんな「努力型」で、スタープレーヤーは少なく、社会人のトップリーグで活躍した1人を除いて、全員が雑草みたいなタイプでした。入学当初は、レギュラーになると期待された選手も少なかったのですが、最後は私を除く全員がスタメンに入ったのです。
自分は十分努力をしてきたつもりだったけど、それは自己満足であって、自分以上に何倍も努力してきた同級生がいたことに、みんなの挨拶を聞きながら、はたと気がつきました。正直、とても悔しかったことを覚えています。
私には、何か飛び抜けた輝かしい才能があるわけではありません。しかし、努力は誰にでもできる。努力は無限大なんだと。私の同級生がそうだったように、努力の積み重ねで、自分の思い描いた道を切り拓いてやろう、努力で乗り越えられない壁はないということを自分も証明してやろうと決意した日でした。
怪我ばかりで選手としては大成しなかった私ですが、素晴らしい指導者や多くの心熱いチームメイトとの出会い、そして嫌々引き受けた主務という役目によって、大切なことを学びました。人生は、何が幸いするかわかりません。
大学を卒業し、1年間地元に帰って教員をした後に、オーストラリアとニュージーランドへ留学します。スポーツマネジメントの専門学校へ通ったのですが、学位を取らずに途中退学して帰ってきたので、留学ではなく「遊学」と言った方が適切かもしれません。
帰国後、たまたま就職活動で出会ったスポーツマネジメント関連のベンチャー企業に就職し、約3年間鍛えてもらいました。
その後、28歳で独立を目指して会社を辞めます。若くしてベンチャー企業でさまざまなビジネスの立ち上げにかかわった私は、根拠のない自信に満ちあふれていくつかの事業を手がけていきます。しかし、現実はそう甘くなく、数か月のうちにそのすべての事業に失敗して、手持ちのお金が尽きてしまうという事態に直面しました。意気揚々とスタートした独立起業は、初めから現実のきびしさを知ることになります。中長期的にやりたいことはたくさんある。でも、日銭を稼がないと従業員の給料はおろか、自分の生活費すらままならない。勤め人なら会社が守ってくれるけども、独立したら誰にも守ってもらえない、そんなシビアな現実を目の当たりにしました。しかし塞ぎ込んでいたら何も始まらない。すぐに恥を忍んで、お世話になってきた関係先の社長にどんどんアポを取って頭を下げにいきます。
「社長、私は天才だと思って自信満々で事業を始めましたが、全部失敗しました。来月は売上げゼロです。貯金もゼロです。なんでもするので仕事をください」
その中から数人の先輩方が助けてくれたところから、私の本当の実業家人生はスタートしました。
アーリーステージのベンチャー企業というのは、強固な土台が出来上がる前に、何度も無茶なチャレンジをし、小さな成功と失敗を繰り返しながら成長していくもの。現状維持は衰退の始まりで、数少ないチャンスがあれば思い切って挑戦し、ある程度リスクテイクしなければ大きくなりません。しかし、大きなチャレンジをすればするほど、失敗すれば倒産のリスクと隣り合わせ。かくいう私も、ある時ビジネスチャンスを広げようとした身の丈を超えるチャレンジに失敗し、資金繰りが回らず、倒産の危機を迎えたことがあります。実績も信用もない危機を迎えた会社に、金融機関は融資をしてくれません。来月、従業員の給与は支払えるだろうか、取引先に支払いができるだろうか、そんな状況が経営者一人に降りかかってきます。
そんな時に助けてくださったのも、やはり何人かの先輩経営者でした。取引先を紹介してくれたり、仕事を振ってくれたり、無担保でお金を貸してくれたり、多くの先輩方に助けてもらって危機を乗り切ることができました。
大学時代に政治家を目指し、そのためのステップとして経営者になると決めて独立起業の道へ踏み出したわけですが、文字どおりゼロからスタートし、人を雇い、会社を成長させていくことは、そんな簡単なことではありません。最終的には従業員100名弱の会社を経営するまでになりましたが、政治家になるための踏み台にしようという安易な考えで乗り切れるほど甘い世界ではありませんでした。
私の名付けた株式会社KTAJという社名の由来は「敬天愛人」という西郷隆盛さんが座右の銘にしていた格言の頭文字からきています。天を敬い、人を愛する心。「すべての基は人である」という理念を中心に据えて人材を大切にする経営スタイルを貫いてきました。人は思いどおりに動いてくれません。コントロールもできません。人材のマネジメントとは本当に面倒なものです。しかし、会社を伸ばすのも人、潰すのも人。そこから逃げずにとことんやってやろうと決めてから、会社は良くなり始めました。
現在、株式会社KTAJは大阪府内に拠点を置き、スポーツジム、鍼灸整骨院、介護施設・障害福祉施設の運営やコンサルティングに加えて、各種講師やトレーナー・コーチの派遣事業、IT関連事業、経営コンサルティングなど多角的に展開しています。今はすべて後継に経営を任せ、私は一線を退いていますが、ゼロから立ち上げたベンチャー企業のきびしい経営環境を経験したことで人作り、組織作りの本質を学べました。
勉強でもスポーツでも、何事にも自主性を重んじる環境から学んだ「自立心」と「チャレンジ精神」です。
筑波大学は、良くも悪くも東京から少し離れた牧歌的な雰囲気が残る学園都市。それでいて東京へのアクセスも悪くない。
自分が何かこれだと決めたら、ひたすら没頭できる最高の環境が揃っていて、皆さんの知的好奇心や果敢なチャレンジに応えることができる素晴らしい大学です。
つくばでの学生生活を思いっきり楽しんでください!
※本文には、著者承諾のもと、下記の著書からの引用を含んでいます。
40代政党COO – 日本大改革に挑む 著者:藤田文武(ワニブックス 2023/9/25発売)
所属: | 日本維新の会 |
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役職: | 衆議院議員 |
出生年: | 1980 |
血液型: | A型 |
出身地: | 大阪府寝屋川市 |
出身高校: | 大阪府立四條畷高校 |
出身大学: | 筑波大学 |
学部: | 体育専門学群 |
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研究室: | レジャー論(スポーツ産業学) |
部活動: | ラグビー部 |
住んでいた場所: | 天久保2丁目 |
行きつけのお店: | ちどり、まんぷくや、ランラン、どるふ |
ニックネーム: | ふみたけ、ふみ、ぶんぶ |
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趣味: | 楽しくお酒を飲む |
特技: | あわてないこと |
尊敬する人: | 父 |
年間読書数: | 30冊程度 |
心に残った本: | 幾山河―瀬島龍三回想録 |
心に残った映画: | Our Brand Is Crisis |
好きなマンガ: | ドラゴンボール |
好きなスポーツ: | ラグビー、サッカー |
好きな食べ物: | お茶漬け、チョコレート |
嫌いな食べ物: | 納豆 |
訪れた国: | 12カ国 |
大切な習慣: | 常に頭の中を整理整頓 |
口癖は?: | すぐやろう! |
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