金メダルを獲って当たり前という柔道界に身を置き、日本代表として2度オリンピックに出場。北京五輪で初戦敗退し世間から厳しい批判を受け、次こそはと挑んだロンドンで銀メダルを獲得。それでも納得いかなかった選手時代を振り返り、「もっと自分に誇りを持てば良かった」と平岡さん。現在は筑波大スポーツ医学研究室で学びを得ているが、彼が未来を背負うアスリートたちに伝えたいこととは一体何だろう。
父が中学の柔道部で顧問をやっていたので、3歳頃から道場に連れて行ってもらうなど柔道が身近な環境にありました。本格的に始めたのは小学1年になってからですが、当時は体が小さかったのと、単純に弱かったということもあって小学生の間に全国大会に出たことはなかったです。
父が教えていた中学と同じ地区で、面白い指導をしている柔道の先生がいると父に勧められ、小学校高学年からその先生のもとで練習するようになったんですね。それまでの練習は実践的でなかったというか、打ち込みや乱取りをする時間が多かったのですが、その先生は色んな技を教えてくれて。初めて「こんな技があるのか」と柔道の面白さを感じるようになり、「その先生がいる中学に進学したい」と親に頼み込みました。結局、自宅から車で1時間半もかかる廿日市市の中学に、親に送り迎えをしてもらいながら3年間通いました。
当時は嬉しさよりも決勝で負けたショックのほうが大きかったですね。でも今思えば、あの時に初めて全国区の選手になれたのかなと。
1年で8位,2年でも8位、そしてようやく3年で優勝できました。それほど強い高校ではなかったにもかかわらず、個人では3年連続でインターハイに出られたことを思えば、自分でも勝負強かったなと。その頃、大学までは柔道でいこうと決めてスポーツ推薦で筑波大に進学を決めました。
高校生の時、筑波大柔道部では金丸雄介先輩(北京五輪出場)と高松正裕さん(アテネ五輪出場)が73k級で競い合っていて、テレビを通して見た2人はすごく輝いて見えました。階級こそ違いますが、「僕も2人のようになりたい」との思いで筑波大を目指すようになり、入学後は金丸先輩はすでに卒業されていましたけど、筑波大で練習をされている姿を遠くから見て「いつか自分も」と、いつも刺激を受けていました。
これは高校の時の貯金で優勝したようなもので、その後は優勝できずに苦労しました。大学と高校の指導法の違いにも戸惑いましたね。高校時代は先生が付きっきりで、これでもかというほど練習することで体に沁み込ませるスタイルでしたが、筑波大ではそうではない。先生は見てくれてはいるんですけど、教え込むということはなく自分で考えてやっていくのが筑波大柔道部の方針でした。
世界ジュニアに選ばれて3位。アテネ五輪の前には、絶対に越えなければいけない壁である野村(忠弘)さんに破れ、結果、野村さんが代表に選ばれています。その後からケガが増えて自分のルーティーンが崩れてしまい、普段の練習に身が入らなくなって。あの時ほど、モヤモヤした気持ちを抱えたまま練習をした期間はなかったですね。
正直、大学にいる間は気持ちを立て直すことはできなかったです。何が正しくて何が間違っているのか分からないまま卒業して……。気持ちが切り変わったのは卒業後、了徳寺学園に就職してからです。
北京五輪出場を掲げて、金丸先輩はもちろん1学年下の秋本啓之(筑波大卒)がものすごく練習するので、2人に刺激を受けて、一層練習に励むようになりました。その時に感じたのは、大学時代の僕は大学に守られている感と「いつかオリンピックに出られるだろう」という甘えがあったのだなと。大学にいる間に、もっと自分でやっていける能力を身につけば良かったと思いました。
社会人になると大学時代よりももっと指導者に言われなくなるし、授業に出なくていいぶん練習に当てられる時間が増えるといえば聞こえはいいんですが、いつ練習しても自由という環境の中で、自主的に練習しないとどんどん落ちていく。改めて「このままじゃダメだ」と。そう気付けたからこそ、少しずつ結果が出始めたのだと思います。
野村さんが3連覇した次のオリンピックが北京で、僕が代表を勝ち取りましたが初戦敗退に終わってしまい……、60㎏級でメダルを獲れなかったのは32年ぶりだったそうです。あの時のことは8年経った今でも鮮明に覚えています。試合2、3ヵ月前に内側のじん帯を切ってしまって、早く復帰したいという焦りから「ケガをしている」という現状を受け入れられずに「大丈夫、自分はできている」と変な思い込みを持ったままオリンピックの畳に上がってしまって。うまく修正できないまま試合に臨んでしまいました。
あの時、ケガをした自分を受け入れてリハビリに専念するなど、自分のできることからゆっくりやっていけば結果は違っていたかもしれません。とにかく「野村さんから奪った代表権を補欠の人に回したくない」という焦りから、心と体がバラバラの試合をしてしまったと悔いが残っています。
日本に帰国するとで「平岡は日本の恥だ」と言われたり、柔道界の色んな先生方に頭を下げたりました。僕自身も半年位は何も身に入りませんでした。ですが、他のメダリストが出演しているテレビ番組は観ようと決めて、悔しさを噛みしめながら観ていましたね。自分に対しての戒めみたいなものです。批判の記事も全部読み、それらを部屋のいつも見える位置に置いて、負けた現実を受け入れようと。それをしない限り前には進めないし、この先柔道は続けられないと思いました。
まず、北京五輪の前に見つかった脇腹の骨腫瘍を取る手術をしました。幸い、悪性ではなかったのですが、まだ結果が分かる前に母に報告したら、母がものすごく泣いていたんですね。当時、僕は知らされていなかったのですが、ちょうど母の乳がんが見つかった時期で、母親としては「自分のせいで息子にがんがいったのかもしれない」と申し訳なく感じていたそうです。
「私、乳がんなんだ」と聞かされたのは、僕の腫瘍が悪性ではないと分かった手術後でした。以前から乳がんを患っていたことは知らなかったので、それを聞いた瞬間、「北京で自分が負けて、周りから批判を受けたストレスで母さんが乳がんになってしまったのかもしれない」と責任を感じて、「腐ったまま終われない」と。強い気持ちが湧き起こって、「ロンドンオリンピックで絶対に金メダルを取る」と切り替えました。
北京の借りを返そうと必死でもぎ取りました。翌年の東京大会で3位、次のパリ大会で2位と、一度も優勝できなかったのは残念でしたけど、60㎏級は一般的に生きのいい、元気のいい若手が活躍しやすい階級なので、当時25歳前後でよくやったと思います。今思えば、素晴らしいライバルにも恵まれて
ロンドンを目指すために、自分の感覚だけじゃなく他のスポーツのトレーニング法や減量方法に目を向けたいと思って修士に進むことにしました。修士2年目がロンドンの前年だったので、オリンピックに集中しようと休学はしましたが。
柔道に対する意識ですね。北京の時は若さと勢いで取った代表権でしたけど、ロンドンを目指すまでの4年間はケガが多かったにも関わらず、北京での反省を生かしてケガを持ちながら練習する方法、悪化しても試合を戦い抜く方法が身についていたと思います。畳の上で練習できない分トレーニングで追い込んだり、練習前に時間をかけてストレッチをしたり。素晴らしいトレーナーの方々にも恵まれました。
試合前は「北京の悔しい思いを払拭するにはロンドンでの金しかない」と思っていたので、銀メダルという事実を受け止めるのに時間はかかりましたが、前回が前回だっただけに、周囲に「おめでとうございます」と言われる喜びを感じました。
もともと節制して生活していても体重が65㎏近くあったので、60㎏級の時は2週間ぐらい脱水しなければいけないという無理な減量がきつかったんですね。それで、ロンドンが終わった後にまずじん帯をくっ付ける手術をして、リオを目指して新しいスタートをしようと階級を上げることにしたんです。
いつか子供たちに柔道を教えることになった時、手術を乗り越えて挑戦すること、そして階級を上げて挑戦することが必ず指導の役立つだろうという思いがありました。指導者としては経験則で語れることも多いと思うので、自分の体で試してみるという意味でも、まずは筋力をつけて70㎏まで体重を増やして、良い減量法と悪い減量法を試してみたり(笑)。
オリンピックの第一選考会で負けたので、そろそろお腹一杯だなと(笑)。お世話になりました!という、すがすがしい気持ちでした。
これも、いつか子供たちに指導をする立場になった時のことを想定して“減量”について専門的な知識を身に付けるために、博士課程(スポーツ医学研究室)に進学しました。指導者は、良いコンディショニングを保ったまま選手を大会に送り込むことが大事なはずなのに、実際の現場では無茶な減量がまだ行われているので、減量に苦しんだ経験者として「勝つためならなんでもいいという減量はもうやめましょう」と声を発していきたいです。
僕はスポーツをする人たちに健康的に競技を続けて欲しいし、これからの未来を担う子供たちに無茶な減量をして欲しくない。特に女性の場合は月経にも関わってくることです。そのために大学で知識を蓄えて、僕自身の経験に科学的な裏付けをすることで、自分の言葉で学生や子供たちに教えていけたらと思っています。
柔道より減量の歴史が長いレスリングの栄養士さんから教わった減量法を、昨年の全日本実業団の際に試したからこそ優勝につながりましたし、今、筑波大女子柔道部のコーチをさせて頂く中で、外科のプロフェッショナルから学んだことを選手への指導に活かすようにしています。
大学で得た知識を柔道界に還元していきたい。具体的には、やはり子供たちと選手の指導に携わっていきたいと思います。柔道は「勝つことが全て」といったプレッシャーを背負わされがちですが、本来の柔道とはそういうものではなく人間形成なんですよね。そのあとに勝ちがついてくることはもちろん良いと思いますが、基本的には、子供たちが大きくなって社会に出た時に必要なことを教えるのが柔道だと僕は思っています。
僕もそうでしたが、「金メダルを取らなきゃダメだ」という周りの空気を読んでしまった後悔が少しあるんです。もし結果が同じ金メダルだったとしても、「金メダルを獲る」ことを目標にするのと、「自分が長年やってきた集大成をオリンピックにぶつける」という姿勢で臨むのとでは、オリンピックに対する意味合いが変わっていたのではないかと思うんですよね。もっと純粋に、オリンピックをスポーツの祭典として楽しめたのではないかと。
そうですね。現役時代はどうしても柔道の価値観が全てになってしまいましたけど、今はその枠を超えて、色んな人との出会いで視野が広がっていると感じます。
例えばJADA主催のアンチドーピング啓発活動に参加したり、マラソンの有森裕子さんが理事長を務める“スペシャルオリンピックス”という、知的障害のある人たちのスポーツ活動をサポートする団体で、ドリームサポーターを務めさせて頂いたり。また積極的に海外に指導へいって交流をしています。こういった活動を通して視野を広げることが、いつか指導者になった時にきっと活きてくるのではないでしょうか。
自主性が育ったこと。目標に向かう中で、大切なことは何かを考える力が身に付きました。
物事に挑戦すると良い結果、悪い結果が出ます。でも、悪い結果は失敗ではありません。失敗は誰でもするもの。その失敗と向き合わないことが本当の失敗です。失敗から得られる教訓こそ財産になりますので、色々挑戦しながら失敗から学んでいって欲しいです。 失敗=ダメではありません!
出生年: | 1985年 |
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血液型: | O型 |
出身地: | 広島県広島市 |
出身高校: | 近畿大学附属福山高等学校 |
出身大学: | 筑波大学 体育専門学群 |
出身大学院: | 筑波大学 大学院 |
学部: | 体育専門学群 2003年 |
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研究室: | 柔道実験室 / 現在:スポーツ医学部・渡部研究室 |
部活動: | 柔道部 |
住んでいた場所: | 天久保 |
行きつけのお店: | 喜楽(ラーメン)、喜乃壺(ラーメン)、とんQ、コートダジュール(洋菓子屋) |
尊敬する人: | 中学生時代の恩師、父 |
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心に残った映画: | 疑惑のチャンピオン、インビクタス~負けざる者たち、ジブリ映画全般 |
好きなマンガ: | 天体戦士サンレッド(くぼたまこと) |
好きなスポーツ: | 野球 |
好きな食べ物: | とんかつ、ラーメン |
嫌いな食べ物: | トマト |
訪れた国: | 中学生でジュニアの強化選手に入って以降何か国も行きました |
大切な習慣: | 朝ごはんは絶対に食べる |
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