教師になる夢破れ、東京教育大(現・筑波大)卒業後に「とりあえず1年」との思いでスーパーマーケット業界へ。オイルショックのあおりを受け、多忙な毎日を送るうちに働くことの楽しさに目覚めていったという。入社18年が経った頃、無印良品などを擁する株式会社良品計画に出向。社長にまで上り詰め、38億円もの赤字を抱えていた会社を立て直した。そのノウハウを伝授すべく、現在は経営コンサルタントとしても活躍。彼の信念の源泉を紐解く。
中学・高校とバレーボールをやっていましたが、強豪校だった静岡県立韮山高校時代、全国大会に行きそびれて悔しい思いをしました。その時、「いつか教師としてチームを率いて全国大会に出たい」と思ったのと、もうひとつ、教師になれば県の教員チームとして国体に出られるので、そのために教育大を選んだのが大きな理由です。高校の1年先輩が教育大でバレーボールをやっていたこともあり、身近に感じていました。
大学のバレーボール部の練習は中学・高校時代と比べると、それほど厳しくはなかったので、夏休み期間は水泳の指導員としてアルバイトをしたり、今の学生と変わらないような学生生活を満喫していました。ただ、大学2年になると大学紛争が盛んになり、授業に出るのもままらないほどになりましたが。
多くの学生がデモに参加する中、私も沖縄返還闘争のためのデモに参加しました。今となっては良い思い出ですが、新橋駅で逮捕されて、警察署の留置所に3週間いた間に20歳の誕生日を迎えたんですよ(笑)。ところが、この経験が後々、私の人生の大きな転換をもたらしました。
地元、静岡県の教員採用試験の二次試験で落とされてしまったのです。当時の二次試験では面接に加えて、身辺調査が実施されたようです。これは、いくら受けてもダメだなと。教師になる夢を諦めて、実業界に出る覚悟をしました。
勢いのあったスーパーマーケット業界に目をつけて、なんとか西友に採用されました。最終面接で人事部長に「入社動機が希薄ですね」と言われたことを今でも覚えています。ずっと教員志望だった私が、まさかスーパーマーケット業界に入るとは思ってもいませんでしたし、当時、教育大を卒業した学生の9割以上が教師になっていた中で、民間企業に入ったのは私が知る限り同期では2人だけ。業界をよく知らないまま面接に臨んだのでしかたがなかったのです。
最初は、あくまでも仮の職場だと思っていました。「教師がダメならマスコミに」と、年に1度の新聞社の採用試験の機会を待ちながら、とりあえず1年は西友で働こうと。
ところが働き始めると、勉強をする時間が取れません。入社した1973年は第1次オイルショックの影響で、どの店でも洗剤やトイレットペーパーが売り切れでしたから、家庭用品担当だった私は問屋を回って商品をかき集めなければいけませんでした。お客様に整理券を配って混乱しないように対応するなど、とにかく仕事に追われていましたし、そうこうしているうちに、西友で働くことが楽しくなってきたんです。
入社から1年が経った頃には覚悟を決めていましたね。3年弱の間に2店舗を経験し、鮮魚や精肉を扱うケンカっ早い職人さんや、私の母親世代のパートさんなど現場で働く人に揉まれました。彼らと上手くコミュニケーションを取っておくことは、上の立場になった時にとても有効で、経営の根幹を占めると言ってもいいほどです。その後、本部の人事部に配属されました。
ひとつの部署に長くいると人は成長しませんし、視野も狭くなります。例えば有名百貨店の場合、部署ごとに派閥ができてしまって、会社全体の効率性を阻害していくことがよく見受けられます。色んな部署を経験して多角的に観察しないと、物事の正しい姿を見ることはできません。異動を経験する中でその能力が培われ、人は成長していくのだと思います。
人事を会長や社長の独断で決めてしまうと、いずれ会長や社長が退いた後に会社はダメになってしまいます。長く存続するためには“仕組み”を作ることが大事ですから、まず私が実践したこととして、40人の部長以上の異動は全役員の合意で動かす。特に優秀な社員を抜擢して異動をさせるという“仕組み”を作りました。
自らの知識と経験には限界がありますから、さらに上を目指すために、同じような問題をすでに解決している会社から学ぶことが必要です。他社からヒントを得て、自社の仕組みに落としていく。例えば、学校の先生が論文を書く際、必ず過去の論文を検証するのと似ています。
あれは完全に左遷でした(笑)。当時、エースは社内に残して、外に出ていくのは2番手、3番手という社風がありましたからね。なぜ左遷されたかというと、私はとても使いにくい社員だったからだと思います。
というのも、人事部にいながら全社の人事を平等に扱うのではなく、商品部や販売部の専務に呼ばれて、彼らの意向に沿った人事をすることが当時はありました。彼らの言うことを聞けば出世できますが、そんなヘッドアップした風土は絶対に良くない。ちゃんと実績を残した人が上に上がっていかないようでは、会社の存続は危ういですから、私は彼らの誘いに一切乗りませんでした。
結果的には良かったですが、片道切符で、もう西友に戻ることはないだろうと思いましたから、やはり寂しかったですよ。周りの見る目も変わって、「これで松井も終わりだな」と言われましたし、その後も変わらず付き合ってくれる人は少数でした。
そんな時こそ、人間力が試されます。理不尽な左遷や異動、または評価をされた時、「こんなに頑張っているのに、会社や上司が認めてくれない」と拗ねてしまうと、社会人としてはそこで終わりになってしまいます。
私は“与えられた環境の中で、目一杯頑張る”性格です。仮の職場だと思って入社した西友に、結局は18年間在籍しましたし、良品計画には24年間在籍しました。出向が決まった際、「不条理な人事だ」と拗ねていたら今の私はなかったと思います。
まずは、人事制度を作って自前の社員を大量採用し、労働組合を作りました。出向から1年後には部長として、自前の社員で良品計画の仕事ができるようにしました。そして、もう1年経った頃に取締役に就任し、無印良品事業部長、流通推進部長、インターネットビジネス、ムジ・ネット株式会社(現 株式会社MUJI HOUSE)の立ち上げ等を経験していきました。
91年の設立以来、ずっと右肩上がりだった業績が2000年に初めて減益。2001年には赤字を出してしまい、ユニクロと並ぶ株価を誇っていた良品計画の株価は6分の1まで下がってしまいました。悪い事例はみんなが注目しますが、でも良い情報が一気に広がることはほぼありません。これが人間心理なんですね。もう、バッシングの嵐でしたよ。「無印の時代は終わった」「赤字転落」「3割減益」。週刊誌には、そんな文字が並んでいました。
その責任をとって前任の社長が急に辞職しました。当時は会社の花形部門である営業部門から社長を出すことが多かったですが、この業績悪化を食い止めることができなかったこともあり、営業部門とは一番関係のない部署にいた、管理部門の私が社長に就任することになりました。2週間前に急遽言われたものですから、記者会見で目はうつろでしたよ(笑)。
社長になろうなんて気は100%持っていませんでした。私はあまり先の大きな目標を作らず、その時その時に与えられた課題をやり切っていく性分で、あまり大きなビジョンを掲げることはしません。よくいるのは、ビジョンを持つだけで具体的な行動をしない人。これでは、ビジョンを実現することはできません。
ただ、長年やっているとこんなことに気づかされます。目の前のことをがむしゃらにやっていると、結果的に大きなビジョンと同じところに到達する。それが私にとっては、社長就任だったのかもしれません。
迅速に立て直さないと会社が倒れてしまう状況の中で、まずは勢いがあった頃に展開した大型店や海外店舗を閉めることから始めました。次は売価で100億円ほどの不良在庫を焼却処分、そして品質の見直し。やることは山積みでした。
誰もが非常事態だと分かっていましたし、海外の店舗以外でリストラはやりませんでしたから反発はそれほどありませんでした。しかし、本社にいる課長以上は暗い表情でしたね。それに比べて、店舗の店長たちはみんな明るく元気でした。店長たちは会社が危機に直面しようとも、毎日、目の前のお客様に対応しなければいけませんから、暗い表情なんて見せてはいられません。
JALが更生法を申請した時も、同じ雰囲気を感じました。当時、キャビンアテンドの皆さんは一生懸命に接客をしていましたよ。会社を立て直す際に最も重要なことは、“現場が明るい”ことに尽きると思います。
特に社長になって半年間はツラかったですね。自分がやっていることは正しいのか、本当に会社が立ち直るのか……、一切見えていませんでしたから。しかも、アナリストにこんなことを言われたんです。「日本の専門店で、一度凋落して復活した例はない」と。
なぜそうなったかの原因を突き止めるうちに、大企業でありながら組織が若く、実行力がないことが見えてきました。これは企業文化そのものを変えない限り、立て直しは無理だと気付かされ、「負けた構造から、勝つ構造を作っていかなければ」と、2年目から社外取締役制度を導入することにしました。
会社は社長の器以上に大きくなりません。その器を超えて会社を大きくするためにはメンターが必要だと、ファッションセンターしまむらの藤原秀次郎社長(当時)を社外取締役としてお招きしました。埼玉の呉服店から、全国規模の衣料品店に成長したノウハウを学ぶために“しまむら詣で”をし、我々にどう取り込むかを模索する中で、会社の仕組みそのものを変えることは、強烈な実行力なしには達成できないと実感。「何が何でも会社を立て直してやる」と覚悟を決めました。
店舗で働く人向けの“MUJIGRAM(ムジグラム)”というマニュアルは、しまむらから得た発想です。毎日、現場から届く声をマニュアル化し、例えば「商品を同じ向きに揃える」「商品の間隔を揃える」といった細かいルールを作り、どの店舗でも均一で高品質なサービスを提供できる仕組みを作ることで、お客様がいつ、どの店舗に足を運んでも満足できる環境を作りました。
2015年5月に会長を退き、経営からは完全に身を引きました。現在は、名保顧問という名刺だけもらっています。2013年に出版した『無印良品は、仕組みが9割』以降、私が42年間サラリーマンとして得た知識と経験を数冊の本にまとめましたが、おかげさまで、私が提案する“仕組み”を取り入れたいと言って下さる経営者がたくさんいて。今現在は社外取締役を5社、その他の数社では経営顧問という形で指導をしています。
日本のサービス産業を、世界にどう発信するかといった公的な仕事もやらせてもらっていますから、良品計画の会長時代よりも、今のほうが断然忙しいんですよ(笑)。これからの人生は、私が流通界で学ばせてもらったことをできるだけ世の中に役立てていきたい。そんな使命感を持って、今も現役で働いています。
時代が変化しても会社が生き残るためには、後の人に任せることが大事。私は退任後は一切の経営に携わらず、“完全に引く”。これが私のつくばWAYです。
人生に無駄な経験はひとつもありません、何事も常にベストを尽くしていると、必ず道は開けます。
所属: | 株式会社 松井オフィス |
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役職: | 代表取締役社長 |
出生年: | 1949年 |
血液型: | O型 |
出身地: | 静岡県 |
出身高校: | 静岡県立韮山高等学校 |
出身大学: | 東京教育大学 (現筑波大学) |
学部: | 体育学部 1968年入学 |
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研究室: | 体育史 |
部活動: | バレーボール部 |
住んでいた場所: | 高円寺 |
行きつけのお店: | 幡ヶ谷の中華料理店(店名は失念) |
ニックネーム: | なし |
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趣味: | レストラン巡り 料理 |
特技: | 美味しい店を見つける能力 |
尊敬する人: | 藤原秀次郎 (しまむら相談役) |
年間読書数: | 30冊 |
心に残った本: | 「大地」(パールバック) |
心に残った映画: | 「風と共に去りぬ」 |
好きなマンガ: | 「美味しんぼ」 |
好きなスポーツ: | バレーボール |
好きな食べ物: | 冷し中華 |
嫌いな食べ物: | さつまいも |
訪れた国: | 28カ国 |
大切な習慣: | 運動(現在はウオーキング) ミニ断食 |
口癖は?: | 出来ないことはない! |
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