女子野球の歴史は浅い。現在、女子硬式野球部を擁する高校は全国で約20校のみで(男子は4000校を超える)、女子プロ野球リーグにおいては2009年に設立されたばかりだ。
国民的スポーツでありながら、長年“女人禁制”の雰囲気が漂っていた環境下で、古賀佐久子さんは男子と共にグラウンドで汗水を流す少女時代を送った。
約15年の野球人生にピリオドを打ち、筑波大学卒業後はテレビ朝日スポーツ局に勤務。
自身の経験から学んだアスリート目線を生かした番組制作に取り組んでいる。
母が大のタイガーズファンということもあり、小さい頃は、夕方になればテレビで阪神の中継を観戦しながらご飯を食べるという環境で育ちました。兄が小学3年生でリトルリーグに入団すると、毎週、兄を連れてリトルリーグに行く両親は、小学2年生だった私ひとりを家に置いていくわけにはいかないからと一緒に連れ出してくれて。そこで、みんながプレーしている姿を見ながら、私も遊びでボールを投げたり、バットを振ったり。結局、母に勧められて正式にチームに入団することにしました。
チーム内に女子は私だけでした。かといって女子チームは存在しなかったですから、野球がしたいなら男子に混ざってやるしかなかったんです。それでも違和感を感じたことはなかったですね。子供って、小学6年生ぐらいまでは女子のほうが成長が早いから、私はみんなより身長が高くて力もあった。同じチームに西岡剛くん(現・阪神タイガース)が所属していましたが、当時は打っても守っても私にはかなわなかったんですよ(笑)。そういうこともあって、エースで4番を任されていました。
ボーイズリーグに入団したんですが、当時のルールで中学の公式戦に女子が出ることはできなかったので、ひたすら練習に励んで練習試合に出るだけ。「楽しくないなぁ」って3年間ずっと思ってました。それでも野球を辞めなかったのは、周囲の期待を裏切ることができなかったから。リトルリーグでの活躍がテレビで紹介されて、地元の放送局だけじゃなく全国放送のTV番組にも“天才少女”と取り上げていただいたことで、「この子は将来、野球で活躍するだろう」という周囲の期待に応えたい気持ちが強くなったんです。
中学時代の反動で、高校では思いきりプレーしたかったので硬式野球からソフトボールに転向しました。とはいえ、スポーツだけで生きていこうとは思っていなかったのでソフトボール強豪校は選ばず、私が入部したのは地元の弱小チーム(笑)。勉強にも力を入れている進学校だったので、私が理想とする文武両道の精神が身につけばという思いでした。
文武両道であることの大切さは両親と祖母から教わりました。父と母は学生時代にバスケに熱中しながらも、しっかり勉学に励んでいたそうです。特に祖母が教えてくれた“中庸”という言葉は人生の軸になっていて、何か極端な選択をして心身のバランスを崩さないよう、いつも私をつなぎとめてくれています。
たまたま同じ学年に5、6人のソフトボール経験者が揃ったことで、1年生中心のチームが編成されて私もレギュラーで活躍しました。それまで硬式野球しかしたことがなかった私は下投げのソフトボールに慣れなくて、高校ではピッチャーではなくファーストに。それでも公式戦に出られることが楽しくて、やりがいを感じていました。そんな私たちレギュラーメンバーが高校2年になったとき、奈良県の二強のひとつである奈良文化女子短期大学付属高校を破って近畿大会に出場できたことは、今考えても奇跡です。私個人として国体に出場することもできましたし、努力したぶんだけ結果がついてきた高校時代は本当に充実していました。
ソフトボールでの活躍もそうですし、体力測定が県で一番だったこともあって体育の先生が「体育の東大である筑波大学に行きなさい」とアドバイスしてくれました。母に相談したら「国立なら関東に行ってもいい」と快諾してくれたので、国体が終わった3年生の10月から猛勉強して、筑波大に入学しました。
いざ野球部に入部しようと思ったら、監督に「女子の入部は認めない」と言われてしまって……。これまでの筑波大の歴史で野球部に女子が在籍したことがなかったんだそうです。筑波大にはソフトボール部も女子野球部もないから「私はこの4年間、何をすればいいの!?」って焦りましたよ。中学・高校の規則とは違って、大学リーグでは女子も男子と一緒に公式戦に出られるので、当然、私も入部できるだろうと安心しきっていましたから。その後、監督が「テストをするからバットとグローブを持って来なさい」と言って私のプレーを見てくれて、なんとか入部が許可されました。
もちろん同じメニューです。リトルリーグで活躍していた小学校時代とは違って、中学を過ぎると男子のほうが足は速いし筋力もつきますから、大学で男子と一緒に200メートルのダッシュを30本したあとに、5~10キロ走るのは本当にしんどかったですよ。それに、大学では女子だからこその悔しい思いもしました。
今でこそ女子野球日本代表は侍ジャパンと同じユニフォームを着て、正式な団体として認知されていますが、当時はクラブチーム扱いされていたので、大学に属する者が日本代表チームに所属することは規則違反でした。だから私は大学1、2年で女子の代表チームに招致されていたにも関わらず参加できなかったんです。日本代表にもなれなければ、大学のつらい練習に耐えながらも試合に出られない状況が続いてモチベーションが下がりましたし、ただただ、すべてが上手くいくようにと願うしかありませんでした。
結局、大学3年のときに制度が整って、アメリカで開催された世界大会に日本代表として出場。世界2位にはなりましたけど、私がいまいち胸を張れないのは、世界で女子野球がメジャーなスポーツではないということと、筑波大には世界の頂点で戦っているアスリートがたくさんいて、上には上がいることを思い知らされたからです。なかでも柔道の谷本歩実ちゃん(アテネ・北京オリンピックで金メダル獲得)、陸上の藤永佳子ちゃん(世界陸上に出場)、水泳の永井奉子ちゃん(アテネオリンピックに出場)といった同学年の友人たちは、私の人生に大きな影響を与えてくれました。
健康に関することの情報交換ですね。特に、次の日にいかに疲労を残さないかということを徹底的に意識していましたね。これを食べたら体にいいとか、マッサージやストレッチ法や入浴方法とか。普通の大学生と比べたら色気のない会話でしたよ(笑)。会話よりも、彼女たちの姿勢を見て学んだのは“謙虚であること”です。世界で結果を残していながら、みんな「自分はまだまだ」と、もっと上を目指すために努力していました。競技は違っても刺激を受けましたし、世界の頂点に行く人は技だけではなく、人としての内面も磨かれていくことに気付かされました。
自分にとって大学時代の一番の財産は、一言で言うと「人」だと思いますね。
スポーツ関係のメーカーが現実的かなと思っていたんですが、ある日、スポーツをしていた学生を集めてある先生がこう言ったんです。「君たちは留学生と同じ。才能も技術もあるんだけど、それを伝える術を知らない」と。そして「まず採用試験の時期が早いマスコミを受けなさい。きっと受からないだろうけど度胸試しに」と言われて受けてみたら、テレビ朝日に採用されました。
女子ひとりの野球部に4年間在籍していたことを「面白い」と評価していただけたのかもしれませんし、面接官との相性も良かったんじゃないかと思います。私の場合、面接の際に「大好きで、いつも観ている」といって熱く語った番組が、たまたまたその面接官が担当している番組だったと入社後に聞かされました。学生の中で私より優秀な人はたくさんいたと思いますけど、就職にはやはりご縁のようなものがあるのかもしれません。
ADとして働いた最初の3年間は、色んなディレクターの指示に文字通り24時間対応していましたから寝る暇もありませんでした。それでも大学野球部での4年間と比べたらラクでしたよ。寝なきゃいいだけで、走らなくていいんでしょって(笑)。社会人1年目で『速報!甲子園の道』という番組内で流れる短いVTRを企画から編集まですべて担当し、それがテレビで放送されたのを見た時は嬉しかったですね。下積み時代は、やることすべてが新鮮で楽しかったことを覚えています。
2013年の日本シリーズ第7戦 楽天×巨人の試合の中継を担当したこと。マー君(田中将大投手)が日本国内最後の登板をし、日本一に輝いた試合。震災の影響が残る東北の観客がひとつになって応援している姿や、マー君の最後の雄姿など、本当にこの仕事をしていてよかったなと思える瞬間でした。メディアに関わる人間として、野球人として、そして一人の人間として、あの場に立ち会えたことに心から感動した試合でした。
社会人2年目に取材させていただいた、古田敦也さんから多くのことを学びました。当時、古田さんはヤクルトの兼任監督になったタイミングで、私はヤクルトの担当を引き継いだばかり。不慣れなことが多かったんですが、ある誤解が生じて古田さんを怒らせてしまったんです。私は慌てて上司に報告し、上司が問題を解決しようと一肌脱いでくれたんですが、古田さんは「上司を出したら、何でも許してもらえると思ってはいけない」と私を諭してくれました。
この出来事を通して「2年目だからといって甘えは許されない。自分で起こした問題は自分で責任を取らなければいけない」という社会人としての覚悟が芽生えましたし、アスリートと接する際の心得を学んだ気がします。
“アスリート・ファースト”であるということですね。とくにスポーツ中継を担当するときは、アスリートの言葉やプレーに過剰な演出をせず、まっすぐ伝えることが視聴者の心に響くと思って番組を作っています。私自身、元アスリートだった時の目線も活きているし、筑波大でトップアスリートたちの友人として投げかけていた「なんで?」「どうして?」と素朴な疑問が、番組を作る上ではイチ視聴者目線となって活きています。
向いていると思いますね。仕事が楽しくてしょうがないです。生で色んな試合を見ることができて、しかも我々は一番前の席に座れる上に試合後に選手に話を聞くことができる。そんな立場だからこそ、ただボーっと試合を見るだけではなく何かを発見しなきゃいけない義務感を感じています。そして、その発見を分かりやすい言葉と演出で国民の皆さんにお伝えする――そんな気持ちで企画を立ち上げた、古田敦也さんの冠番組『フルタの方程式』(09年1月~10年7月)は、私の代表作と言える番組になりました。
『フルタの方程式』は、普段何気なく野球中継を見ているだけでは気づかない、マニアックな視点からプロ野球を楽しもうという番組。野球ファン以外からの評判も良く、関連書籍は発行10万部を超えました。
今にして思えば、人が喜怒哀楽を表すときが、相手との関係性を縮めるチャンスなのかもしれません。一番怖いのは無視をされることで、それだと相手との距離は縮まらないし、私自身もあの失敗から学ぶことはできなかったと思います。
たしかにアスリートだった頃の経験は大きいです。でも、学生時代に一線で活躍していたアスリートが卒業後、全く別の世界でセカンドキャリアを築くときに、プライドを持ったままだと苦労すると思います。とくに私のように、プロアスリートの身近で働いている人間が過去の栄光を引きずったままでは、現役選手の活躍に素直に感動したり、視聴者目線の素朴な疑問を投げかけることはできません。
私が大学在学時にやっておいて良かったのは、遊び心あふれるゼミの先生に勧められて自分の野球人生を『自分史』として卒業論文にまとめたことです。女性としての野球選手の自分の軌跡を残すっていうのもあるんだけど、一線で活躍してたアスリートが大学でやめて、また1から別のものをやる。これってセカンドキャリアになるわけですよね。そのときに一度、自分の人生を振り返ったほうがいいんじゃないかって。そうじゃないと、変なプライドを持ったまま、整理できずに社会人になると苦労するぞ!って言われて。題名は、女性プロ野球選手の代名詞となった水原勇気ちゃんが登場する水島新司さんの人気野球漫画にちなんで、「私の野球狂の詩」としました(笑)。15年間の選手生活を振り返り、出来事や感情を書き出していくうちに、過去は過去のものとして整理をすることができました。アスリートとしてのプライドを捨てきれずに社会人になって苦しんでいる人も少なくないですから、スポーツをやっている学生は卒業前に自分史をまとめてみるといいかもしれません。
2020年の東京オリンピックに向けて、何かムーブメントを起こしていこうと模索中です。スポンサー企業と組んで競技をどう面白く見せるのか、各局がしのぎを削ることでテレビの技術開発も一気に進むと思いますし、結果、視聴者が喜ぶという社会貢献ができる絶好のタイミングになると思っています。私自身、元アスリートとして、そして今はそのムーブメントを制作する立場としてオリンピックを迎えられることが、嬉しくて仕方ありません。
世界で活躍するアスリートたちから受けた刺戟。自分の限界を超えようとしている友達を見ながら、私も「もっと上に行けるかもしれない!」と影響を受けました。
在学時代はなかなか気付けないと思うから、「あなたたち、とくに体育専門学群の学生はすごい才能と技術を持っている!」とお伝えしたいです。
所属: | テレビ朝日 |
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役職: | 社員 |
出生年: | 1981年 |
血液型: | B型 |
出身地: | 奈良県奈良市 |
出身高校: | 奈良県立郡山高校 |
出身大学: | 筑波大学 |
学部: | 体育専門学群 |
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研究室: | レジャー論研究室 |
部活動: | 硬式野球部 |
住んでいた場所: | 天久保四丁目 |
行きつけのお店: | じぶんかって・貴族の森 |
ニックネーム: | こがっち・さっこ |
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趣味: | ゴルフ |
特技: | 野球・ピアノ |
尊敬する人: | 人見絹江・山崎豊子 |
年間読書数: | 30冊 |
心に残った本: | 運命の人 |
心に残った映画: | 下妻物語 |
好きなマンガ: | グラゼニ |
好きなスポーツ: | 野球・ゴルフ |
好きな食べ物: | いちご・バッテラ |
嫌いな食べ物: | なし |
訪れた国: | 6ヶ国 |
大切な習慣: | 朝起きたら水一杯と酵素 |
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